<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


片翼の竜

アルマ通りを僅かに入ると、そこに立ち並んだ家々の隙間からは空が見えた。
勿論、ここ白山羊亭からも、開け放たれた窓越しに、その青が映る。
―最近、片翼の翼竜が、この街の付近に、時折飛来しているらしいと聞く。本当なのか?
突然そう、この街を偶然通りかかったという商人風の男が、店内でルディアにそう声をかけてきた。
カウンターによりかかった姿の、その客を振り返り、ルディアが不思議そうな表情で呟いた。
「竜……? 」
姿を晒す事を恐れ、理由無き迫害の末、忌み嫌われ、片翼をもがれた、悲しき竜の慟哭が夕闇の空へと響き渡るという噂だよ。
商人はルディアに、更にそう告げた。
だが、店内でその会話を耳にした人間は、僅かだった。
―何でも、その竜は過去に人によって飼われていたという話だが……。
不思議そうに首をかしげたルディアに対して、商人の男は更にそうも言葉を続けた。
人に従いし、竜の存在を。
竜は呼ぶ……この私の慟哭を聞いてほしいのだと願っているという……。


「ねえ、どう思いました? 今の話、本当なのかなって、気になりません? 」
ルディアが手にした盆の上に、温かな料理を盛った皿を乗せて運んできた姿で、軽戦士である客、アイラス・サーリアスに向かって、声を潜めるようにして、そう声を掛けてきた。そのまま、ルディアは手馴れた手つきで、皿をアイラスのテーブルの上に据えた。
アイラスの前では、温かな湯気が幾筋も立ち上り、そこには空腹にひどく訴えかけてくるような良い匂いがたちこめていた。
「……そうですね、それよりもこっちを先に片付けてもいいですか。僕、今実はお腹が空きすぎていて……ちょっと残酷なんですよ、このままおあずけ状態なのには、ね」
アイラスが申し訳なさそうにそう告げると、ルディアはにこっと微笑んで見せた。
「そうでしたよねー。ごめんなさい、ついつい気になっちゃって」
「ううん、まあいいですよ。僕もそんなつもりじゃ無かったんですけど……お腹が空きすぎているとあれですね、何時もと同じ食事も、特別にまた違って見えるというか……何というか、これは困りますね」
アイラスはそう言いつつ、傍らのフォークを掴むと、早速目の前の食事をそそくさと口に運び始めた。
今日の選択は、山羊肉をじっくりと長時間に渡り味を染み込ませ、更にその肉をいぶして作られる非常に手間の掛かった、この店の名物料理でもある一品だ。
肉を口内で噛み締めると、染み込んだソースが滴り落ちてくるようで、思わず喉が鳴る。アイラスは夢中で、更にもう一切れの肉をフォークで突き刺すと、再びそれを口の中に収めた。更に直ぐ横に出されたまま置かれていた、グラスに注がれた水をも、一気に飲み干す。
「おいしそうですね」
ルディアが頬杖を付いた姿勢で、机の端から今まさに食事中のアイラスを見ながら、にこやかに笑っている。
「実際、おいしいんですよ、これ」
アイラスの返答に、ルディアは間髪入れずに、至極当然とばかりに頷いて見せた。
「知ってます。そうでしょう! 」
今日の白山羊亭は、閑散としていた。普段は賑わいを見せるこの店内にも、今はアイラス以外の客の姿が数人見えるだけで、まばらだった。ルディアにはそれがひどく退屈なのか、自分のすべき事柄である筈の仕事を放り出したままで、さっきからアイラスの隣で張り付いているような状態だ。全く、職務怠慢も甚だしい限りである。
―よっぽど暇なんですね……いえ、気持ちは何となく分かるんですけど。
「ああ、何だかようやく落ち着きました……で、さっきのお話の続きなんですが……本当は僕も気になってはいたんですよ、いえ、でもただ何というか、あの場合はどうしても食欲の方が先行してしまって……で、何の話でしたっけ? 」
「竜の話ですよ」
「そう、それです。片翼って言っておられましたね、確かあの方が……」
アイラスは、そう言って先程の男が座っていたカウンターの辺りに目をやった。
「ありゃ……もういらっしゃいませんね」
「どなたかが、力一杯、山羊肉を頬張ってらっしゃる間に、お帰りになりましたよ」
「おや、そうだったんですか」
アイラスはわざと意外そうに、そう言った。
その様子を目にして、ルディアがまた、少しだけ笑う。
「確か、片翼……って。でも気になることが……」
ルディアの言葉の意図するところを計りかね、アイラスは僅かに怪訝な表情を見せた。
「でも……とは? 」
「片翼って、本当に飛べるのかしら。難しいじゃないかって思うの、片方の翼だけで飛ぶなんて、何だか考えられない気がするから」
ルディアの言葉に、アイラスの肩が即座にがくっと落ちた。
「気になってるというのは、単にそういう事でしたか……いえ、いいんですよ、別に。でも僕には他にも気になる事があって……」
「気になること? 」
「まあ、それはいいんです。話を続けましょう」
 アイラスの言葉に、ルディアがこっくりと頷いて見せた。
「飛ぶって言ってたでしょう、その竜」
「そうでしたね、僕も一度見てみたい気がしますが……」
 アイラスは頷いてから、そう言って立ち上がった。
「ええー、もう帰っちゃうんですか? 」
 ルディアはひどく残念そうな表情だ。
 ―本当にどうにもならない程、暇なんですね……。
 目の前のルディアに対して、そんな風に思いながらアイラスは再び口を開いた。
「少し気になるので、街の方で人に聞いてみようと思うんです……その、例の竜の話を、ね」


 かくして、名残を惜しむようなルディアに見送られながら、アイラスは一人、街へと出ていった。
 興味をそそられた片翼の竜の事は、何人かの人間をつかまえて聞いた。
 その結果、アイラスが理解できた事がたったひとつだけあった。
 それは、当初予想していた以上に、この街の人間の中には、問題の竜の存在を知る者が大勢いたという点だ。
 アイラスは改めて、その事に驚いていた。
 ―ひょっとして、僕が余りにも知らなさ過ぎただけだったのでしょうか。
 奇妙な脱力感さえ感じつつ、更に詳しい人間を探して、アイラスは暫くの間、その周辺をくまなく歩き回った。
 どちらにしても、その彼の竜の存在は、誰にとっても深く印象に刻まれるものだったようだ。
 おかげで、聞いたこちらが拍子抜けしてしまう程に、詳しい話を聞かせてくれる人間まで現れる始末だった。
 その中の一人が、東の方角を指し示した。
 アイラスはお礼を言うと、その方角を目指して、再び歩き始めた。
 

 既に街にはもう、薄暮の空が見えていた。
 アイラスは、その更に遠い彼方を目を細めて見つめようとしていた。
 竜はこの街から出ずとも、充分に遭遇できると聞いていた。その情報に間違いが無ければ、この辺りで目撃した人間が何人もいるらしい。
 アイラスはその場に立ち止まって、再び空に目をやった。
 ―片翼をもがれた翼竜ですか……。
 人に追従し、その生涯をかける異種族の者達の存在は、確かにこの世界にあって、珍しいものでは無い。
 けれど、一旦、人に沿う道を選んだ存在は、この上無い程の、忠誠を誓う……そうする事で、自身の存在意義を認め続けてゆく事にも繋がる。
 そうして、その無垢な誓いを破る事が出来るのは、人の側、だけなのだ。
 彼等は何処か無垢で、それ故に訪れる悲劇を耳にする事は幾らかも存在する。
 何故そうならなければならなかったのか、その答えに該当するものは、当事者である者にしか到底理解出来ぬものであろうし、仮に他者が理解を及ばせようと試みたところで、それは最初から無理があるのかもしれない。
 けれど一旦離されたものは、他の人間に沿う事が出来ずにさまよう事が現実に生じる事があった。
 自らの種の同朋にも受け入れられず、そうした存在は、この世界の中で容易に弾かれてしまう……。


 その時、彼方からか細く泣くような、何かが響いてきた。
 ―来た……。
 アイラスは即座に、その方角を凝視した。
 ぼやけた薄い色に満たされた空の中を、何かが飛んでいた。
 よろけながら、おそらく軋みを上げるような翼を広げたまま、空をさまようかのような、その存在は、確かにそこに姿を見せていた。
痛々しいほどの片翼だった。
 肉眼でもはっきりと捉えられる程の、至近距離までそれが迫ってきた時には、アイラスの周囲には、既に何人もの人間達が集まってきていた。その者達は皆、空を指差しながら、一様に驚いた表情で空を見つめ続けている。
 残された翼さえも折れかけ、胴体と思しき部分には、無数の傷が刻まれた、ひどく痩せた竜の姿に、その場の全員が息を呑んでいるかのようだった。そんな人間達を前にして、竜は最後の力を振り絞り、飛び続けるかのように、宙を舞う。
 ―何故、人の世界に戻ってくるのです? あなたは一度、人に離されながら、今も人に沿おうとする……。けれど怯えて、決してこれ以上は近づく事をしようとしない。
 アイラスは何かが強烈に胸の中に込み上げてくるのを感じていた。
 ―駄目です、僕には何も出来ないんです。
 アイラスは自らの拳を強く握り締めた。
 竜は更にそのまま、この街の上空を、よろけながら数度旋回して、また再びゆっくりと姿を消していった。
 アイラスはその場に立ち尽くしたまま、竜が消えていった方角から、長い間視線を反らす事が出来ないでいた。
 哀れな姿を晒しながらも、その翼に込められていたであろう力が、そのままに伝わってくるかのようだった。
 アイラスは自身の視界の中に、まだあの竜の影が刻まれたままのような思いで、ただ動けなかった。


「あ! いたいた」
 突然、背後から掛けられた、その声で、アイラスは急に現実に引き戻された。
 それから、ゆっくりと背後を振り返る。
 見ると、ルディアが、アルマ通りの方角から、息を切らせながらこちらに走ってくる。
「竜が見えたって聞いたから、走ってきたんですよ! でもあれ……何処にもいない? あちゃー遅かったですか、残念! 」
 周囲を幾度も見回しながら、ルディアはそう言った。
「……僕は見ましたよ」
 ぽつりとアイラスが呟いたその言葉に、ルディアは思いきり顔を上げた。
「え?! 本当ですか」
 ええ、とアイラスは、ルディアの方を見ながらそう言った。
「いいなあ、私も見たかったのに。うらやましい……で。どうでした?! 本当に飛んでたんですか? 」
 アイラスは少し考えるように視線を落としてから
「とてもきれいな竜でした。精悍で、勇壮な誇り高い……」
 アイラスはただ、そう呟いた。
 竜の消えた方角に、もう一度ゆっくりと目をやりながら……。

 おわり


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1649 / アイラス・サーリアス / 軽戦士】


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■         ライター通信          ■
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こんにちは、桔京双葉です。
お申し込み頂きまして、とても嬉しかったです。
ご飯を食べながらの、のほほんとしたヒトコマも織り込んでみましたが、如何だったでしょうか。
今回も本当にありがとうございました。