<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


添い寝

「あら、あの子、また来てるわ……」
 夕刻近くのベルファ通りの片隅だった。
 そこには一人の幼い少女が、しゃがみ込んだまま俯いていた。
「あの子……、親を亡くしてから、この時間帯になると、何時もここに来ているんだよね……確か以前にも何時だったか見かけたよ」
 道行く人間の何人かが、そう口々に話しては通り過ぎてゆく。
 少女は口元をきゅっと結んだまま、微動だにしなかった。
「ここは深夜まで人が絶えないから……余計に、なんだろうな」
 かわいそうに……と、一人の男がそうも呟いた。
「送って帰ってあげても、またここに来ているらしいって話も聞いたからな」
 そんな風に周囲の人間達が呟く中、少女に思いきって近づいてゆく影があった。


 ―泣かない、泣いちゃいけないんだから……。
 その少女はきつく唇を噛み締めた。
 少女はただ、強くなる力を、願い続けていた。
 細い肩に壊れそうな程、更にか細い手で自分の顔を覆う。
 それでも堪えきれずに涙がこぼれかけると、少女はそれを手の甲でぐいと拭おうとした。
「……」
 それを幾度と無く繰り返していた少女が、不意に何かを感じたかのように顔を上げた。
 ―歌……? 
 それは微かに聴こえた旋律だった。
 深く何かを支えようとする、そんな音色に少女は顔を上げたのだ。
 ―人の声?
 長らく顔を上げる事が無かった少女の顎が、導かれたかのように微かに上向く。
 そっと何かが自分の頭部に触れるのを、少女は確かに感じていた。
 瞬きをして、視線を上げるとそこに、少女に柔らかな微笑を向けた一人の青年の姿があった。
 その青年は身丈が、ひどく目立つ程の長身で、秀麗な容貌も手伝ってか、その華やかな雰囲気によって、常に往来の人間達の視線を集めていた。それに対して、本人はさして気にした風情は見られないものの、詰まるところそんな状況になってしまうのも、全身に纏う華やかな印象が本人の無意識下でさえ、働いてしまう事の、その証なのかもしれない。
 現れたばかりの長身の青年は、すらりとした鎖骨まで鮮明に映る程に痩せていた。
「……」
 少女は沈黙したまま、まだ視線を反らそうともせずに、目の前に立った青年を見上げ続けてた。
 けれど、不意に再び何かを拒絶するかのように、俯きかけた。
 その次の瞬間、流れていた旋律が途切れ、それとほぼ同時に、磨かれた鐘を鳴らすような澄んだ印象の声がした。
「……いいんだよ、そのままで」
 不意に目の前の青年から語られた言葉によって、少女の眼差しが一瞬、はっきりと変化した。
 少し驚いたようでいて……しかし、それもほんの一瞬の事、再び少女は再び俯き、自分の唇を強く噛み締めていた。
 少女の深い部分に刻まれたであろう影はそのまま消える事無く、今も両眼を縁取る輪郭の中には色濃く残されているのが、目の前の青年には痛い程に分かった。
 同様に泣き腫らした少女の頬も、実際には乾いている筈でありながら、まだ濡れているような跡がそのままに残っている。それは少女がこれまでの時間に流した涙の跡が、簡単には拭う事など出来ないという事の表れだったのかもしれない。
 そんな中で、少女は思い当たったように、ただ側に立ったままで自分に微笑だけを向けてくるその青年を、今度はおずおずと自分から見上げた。
 ―この人、何処かで見た事がある……そうだ、確か天使の広場で何時も……それに、確か孤児院でも何度か……。
 少女は実際には口にせず、そう思い、依然、目の前の青年である、狂歌を見つめ続けていた。
「……心を伝う旋律、俺の声は確かに今、キミに届いたよね」
 先程と寸分変わらぬ、透明感を孕んだ声が再び響いた。
 青年狂歌は少し悪戯っぽく笑い、さっきと同じように、もう一度ふわりと少女の頭に手を載せた。
「その歌に惹かれて、僕も来てしまいましたよ」
 そう言って、少女の前にもう一人の人物が立った。
 反射的に狂歌と、少女はそちらの方へと視線を移す。
 現れたのは、眼鏡の奥から覗く両眼に、真摯な輝きが宿る青年だった。
 背中から首筋の辺りで、淡い青の色彩の髪を束ねた姿で、穏やかな表情を見せた、アイラス・サーリアスだ。
 アイラスは少女の前に膝を折ると、その顔を見つめてにっこりと笑って見せた。
 少女は僅かに視線を上げ、アイラスの顔も、狂歌にしたのと全く同様にじっと見つめた。
 ―そう、確かこの人も……。
 少女がそう思った時、それを知ってか知らずか、アイラスは狂歌の方に向き直りつつ、口を開いた。
「……ベルファ通りを、今さっき、ちょうど通りかかったところだったんですが」
 アイラスのその言葉に、狂歌が意外そうににやりとする。
「本当かなー? さっきから、アイラスってば、ずっとこの子を気にしているんじゃないかなぁ? 俺にはそう見えてたよ。かなり前からね」
「何だ、最初からあなたにはばれていたというわけですか。それは意外ですね、狂歌さん」
「俺もそうだから……っていうのかなぁ。同属は感知できるっていうかな……? 」
「ま、お互い気持ちは同じだったわけですね」
「そっ、そうゆうことだねー」
 そんな言葉を交わす狂歌とアイラスの前で、少女は不思議そうな表情を保ち続けていた。
「……」


 それから、まず狂歌が少女の傍らに腰を下ろし、アイラスもその反対側に同様に腰を据えた。
 少女はそれに戸惑ったかのように、微かに頬を染めた。少女の柔らかな薄紅に色づいた唇が、僅かに開いて、何かを言わんしているかのように動く。
だが、肝心の言葉は語られないままだった。
「ずっとここにいるんですか」
 アイラスの問い掛けに、それまでの警戒をいくばくか解いたかのように、少女はおずおずと、躊躇いがちに頷いた。
 誰であろうと、相手の気持ちの中に容易に入り込む術を心得ている為か、その辺りがいかにもアイラスらしい部分だった。アイラスが人徳に恵まれた人間だというのも、充分に頷ける話だ。誰しもが、その穏やかな印象の眼差しに捉えられてしまうのだ。
 アイラスの眼鏡の奥にある目は、少女の中に芽生えた、そのほんの少しの変化も見逃さなかった。少女の僅かな思いの変化に、アイラスの表情もこれまで以上に和らいでいった。
 少女の様子の変化に、多少なりとも期待と安堵を感じているからだろう。
「俺が何故キミに、ああやって歌を聴かせたかったか分かる? 」
 続いて、狂歌が少女にそう訊いた。
「……ううん」
 答えた少女の声はひどく小さかった。
 まるで、それは傍らのふたりの耳たぶに、直にそっと囁くかのような、そんな声だった。
 だが、その声の響きには、近い将来に、少女自身が手にする事になる鮮やかさが、少しずつだったが、確かに垣間見えていた。
 しかし、現実の……今、こうしてふたりの目の前にいる少女の姿は、まだまだ幼いままだ。
 それを実際に手にするのはまだおそらく、かなり先の世になるに違いない。
「ここは明るいから……ずっと」
「確かにそうですね」
「……確かになぁ」
 アイラスと狂歌のその答えは、ほぼ同時だった。
「それにここにいれば、誰かがいるから」
「そうだね……でも今はトクベツだよ。ほら、こうやって俺達がいるからね」
 狂歌は自らの腕を回して少女の肩を抱くと、そのままそっと少女に囁くようにそう告げた。
 少女の頬が更にみるみる紅潮してゆく。少女はそれが分かるのか、わざと自分を隠すように両手で顔を覆った。その顛末を直ぐ側でも見ていたアイラスは、苦笑して見せ、やんわりと取り成すように、狂歌に対して口を開いた。
「彼女は相当に困っておられるようですよ? 」
「ええ、そうなの!? 」
 狂歌は目を見開いて、自分が肩を抱いたままの少女に、わざとらしくそう問い掛けた。
「……ううん、違う……」
 少女は頬を染めたまま、潤んだ眼差しでかぶりを振って見せた。
「ほら、この子が違うって言ってるじゃない」
 狂歌の言葉に、アイラスは更に笑った。
「どうなんでしょうね。では単なる僕の見当違いでしたか。……というか、単なる勘違いというべきか……」
「そうそう、俺はそう思ってるよ? 」
 狂歌はしれっとしたように、そう言ってから、屈託無く笑って見せた。
 その時、少女の口元には、一瞬、僅かな微笑が広がった。
 けれどその直後、少女の両眼からあふれた涙が、一筋、頬を伝い落ちていった。
 一旦流れ始めた涙は、堰を切った流れの如く、後から後から伝い落ちて行く。
 それを、狂歌の指が難なく受け止め、その涙の跡をゆっくりと辿った。
 少女はまるで言葉を失ったように、最初に狂歌を見、それからアイラスの方を見た。
 アイラスも頷くと、そっと自らの指を伸ばし、少女の手を取りつつ、それを握り締めた。
「……」
「どうしたの? 泣いちゃえばいいよ。俺達がここで全部受け止めてあげるからさ。さっきの話の答え言おうか? なんでかって言うとね、俺もちっちゃい時に親をなくしちゃったから……寂しいよね。だから分かるんだよね」
「そうだったんですか」
「……だから余計に思っちゃうんだよな―」
 そうして、狂歌がまたさっきと同じ旋律を口ずさんだ。
 その声は行き交う人々の耳にも届いてゆくようだった。
 このベルファ通りの往来の雑踏の隙間を縫うようにして、街全体に染み渡ってゆくかのような声だった。夜の明かりの灯り始めた、この通り沿いから、更に空にさえ届く程の、旋律。
「やはりさっきも改めて思いましたが、見事な歌ですね」
 感心したようにアイラスがそう言った。
 アイラスの言葉に、狂歌の歌が少しだけ途切れた。
「ありがと。いやーそんな風に思ってもらえるなんて嬉しいなぁ。じゃあ、アイラスもここで歌うってのはどう? 実はアイラスが類稀なる美声の持ちって事、俺、知ってるんだよね〜? 」
「いえ、あなたには叶いませんよ、到底ね。及ぶべくもないでしょう」
「謙遜なんてしなくてもいいのにさっ」
「してませんよ」
 アイラスのその言葉に、二人はどちらからとも無く笑った。
「あなたの家はどちらなのですか……? 」
 ふと気が付いたように、アイラスが傍らの少女に声を掛けると、少女はふたりに挟まれたまま何時の間にか眠りに落ちてしまっていたらしい。アイラスの方へと、僅かにことんと顔を預けたままの姿勢で、小さな寝息を立てていた。
「寝ちゃったか。じゃあ、この子を帰してこなくちゃね」
「帰す……とは、狂歌さんはこの方の事を、何かご存知なんでしょうか? 」
「ああ、この子ね。そこの小さなスラム街の小さな孤児院から来ているらしいよ」
「そうでしたか」
「俺も実は、さっきその辺で聞いたばっかだよ。このベルファ通りで親が働いてたから、どうしても寂しくてここに来ちゃうらしいって話。しかもまだ日が浅くて、中々孤児院の中でまだ馴染めないコトが多いみたいだから」
 そう言いながら、狂歌は少女を起さないように気遣いながら、身体を僅かに起こしてゆく。
「でも、やっぱりかわいいなぁ」
 狂歌は少女の寝顔に、心底嬉しそうにそう呟いた。
 アイラスも穏やかな表情のまま頷いて見せる。
「守ってあげたくなるよね、ホントに」


 その後、あのベルファ通りでの一件から、既に十日が経過していた。
 アイラスはその日、たった一人でベルファ通りを抜けて、その先に続く路地裏をゆっくりと歩いていた。
 その路地裏を暫く、更にもっと歩き続けていると、やがてその道は自然と小さなスラム街へと繋がってゆく。
 ―確か僕の予想では目当ての建物は、もう直ぐのはず……ですよね。
 見えてくるはずのその建物を、アイラスが脳裏に描きかけた時、ようやくその目指す建物の屋根の一部が、路地から顔を覗かせた。
それを目にした時、アイラスは、自然と微笑んでいた。
 少し眼鏡をずり上げて、ゆっくりと更に路地を歩き続ける。
 その屋根は間違い無く、この一角に位置する、取り壊されかけた小さな孤児院だった。
 目指す先の孤児院に近づくにつれ、賑やかな子供の声が響いてきた。
 その中に聞き覚えのある声があるのを感じて、アイラスは安堵の表情を見せた。
「あ、同じだ」
 そうして、もう一度、さっきとは別人の……けれど、明らかに聞き覚えのある声を耳にして、アイラスは背後を振り返った。
 そこには長身の青年狂歌が口笛を吹きつつ、立っていた。
「あの子、すっかり慣れたみたいだったよ。これって俺達のおかげかな〜ってね、思ってたトコ」
 孤児院の斜め向かい側に位置する、歯車仕掛けの商品ばかりを集めた工房の壁によりかかり、狂歌がそう言った。
 その表情は、実に満足げだ。
 一方、アイラスは暫く考えるような表情を見せた後で、口を開いた。
「推測ではありますが……あの時、あの方にとって本当の涙を流せたのがよかったんでしょう。彼女は多分……ずっと、大きなものを溜め込み続けていたんです。だからそれが少しでも吐き出され、それが結果的には良い方向へ転換されたという事なのでしょうか」
「そうかもしれないね! ……う〜ん、それにしても、まさか、ここでこうして会うなんてねーびっくりだよ」
「結局、僕達は同じ事を考えていたという事なんでしょうね」
「そういうことになるよねー、絶対っ! 」
 狂歌の言葉にアイラスも深く頷いて見せた。
 ―この路地に、また子供達の賑やかな声が響き渡る。
 温かな太陽の日差しを受け、真っ直ぐに未来へ伸びゆこうとする声に包まれながら、ふたりはもう一度孤児院の方を見やった。
 あの少女の声がする。
 不意に、孤児院の入り口の辺りに誰かの影が動いた。
 その現れたばかりの小さな影は、アイラスと狂歌、その二人の姿を認めると、そのまま転がりそうな勢いでこちらに走ってくるのが見えた。
 そう、それは間違い無くあの少女の姿だった。
 まず、狂歌が駆けて来るその少女に向かって手を上げた。
 続いて、それを目にしたアイラスも、少女の方へとゆっくりと歩き出す。
 陽光の元、眩しい程の少女の笑顔の中が映った。
 嬉しそうなその表情が鮮やかなまでに、ただそこに揺れていた……。


 おわり


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1910 / 狂歌 / 楽師】
【1649 / アイラス・サーリアス / 軽戦士】



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■         ライター通信          ■
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初めまして、桔京双葉と申します。
この度は、お申し込みを頂きまして、本当にありがとうございました。
狂歌さんは、とても格好いい方なので、書かせて頂いていても、本当に楽しかったです。
心よりお礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。