<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


竜の哭く夜

【オープニング】

 志願兵かしらね。
 馴染んだ安物の紫煙の幕の向こうに、一人の女の姿を見出して、エスメラルダは、ふと、呟く。
 何だって、あんな毛色の違う女が、こんな場所に来たのかしらね。

 昼の似合う女。
 夜に違和感のある女。

 明るい太陽の下で、まっとうな商売をして、日没と共に夕飯の支度を始め、闇が濃くなればベッドに入る…………そんな、規則正しい生活こそが相応しい、あまりに平凡すぎる女だった。
 冒険帰りの傭兵の血生臭い出で立ちに怯え、ふくよかな胸元を殊更に揺すり立てて酌をする給仕たちから、気恥ずかしそうに、慌てて目を反らす。
 間違っても、夜の酒場に縁のある人間ではない。
 だからこそ、エスメラルダは、志願者か、と考えた。
 金に困って、光の下を堂々と歩いていた女たちが、色町に堕ちてくる時、こういう顔をすることが、多々あるのだ。
 まるで、死を免れない戦地にでも赴くような、悲壮極まりない決意を、全身に漲らせて。
 いかにも、歓楽街がまともではない、と言わんばかりの、眼差しをして。
「いらっしゃいませ」
 エスメラルダが話しかけても、女は、固い表情を崩さない。
「座ったら?」
 そう勧めても、突っ立ったままだった。
「お帰りなさいよ。そんなに怯えているようじゃ、客としても、従業員としても、ここではやっていけないわよ」
 ほとんど俯きっぱなしだった女が、初めて、顔を上げた。
「私は、お客さんでも、従業員になりに来たわけでも、ありません……」
「じゃあ、何かしら?」
 エスメラルダが、尋ねる。
「竜を」
 女が、呟く。
「竜を、探しているのです……」
 女が、目を閉じた。顔を、手で覆った。
 閉ざした瞼の間から、一筋、涙が、こぼれ落ちた。
 
「真っ白い、竜です。私の、大切な……人なのです。探して下さい。彼を……。二ヶ月も前に、いつものように出て行ったっきり、行方が、わからないのです……」





【発端】

「エスメラルダさんの言うとおりですよ。まずは、そこに座って下さい。はい。水でも飲んで。とにかく、少し、落ち着きましょう? それから、ゆっくりと、お話を聞かせて下さい」
 どことなく、ふんわりとした雰囲気の青年が、カウンターの隣の席から、話しかけてきた。
 空色の髪と瞳が、ほの暗い酒場の中でも、目にする者に、ぱっと明るい印象を与えてくれる。笑顔は穏やかで、大きめの眼鏡に、少々の愛嬌が感じられた。
 ほっとしたのか、女が、すとんとその場に腰を下ろす。青年の連れであるらしい、ライラック色の髪の少女が、気遣わしげに、女を見つめた。
「大切な……人。あの……もしよろしければ、詳しく……教えてもらえませんか? 何か……お手伝いできること、あるかもしれません……」
 彼女もまた、切羽詰まった場を和ませる、魔法のような力を持っているらしかった。意識せずに、そっと、女の手に、自分の手を重ねる。
「心配ですよね……。もう二ヶ月も……。でも、私も、信じたいです。大丈夫、って……」
 きっと、迷子になっているだけですよ?
 少女が、笑う。
 いや、絶望的方向音痴のリラさんではないのですから……。
 思わず心の中でツッコミを入れつつも、女がつられて笑ったのを見て、アイラスは、良い兆候かな、と一人呟く。
 まずは、ともかく、彼女を落ち着かせなくては。何時までも泣かれたのでは、せっかくの情報も、涙とともに流れて消えてしまう。
「あ。ご挨拶が遅れました。僕は、アイラス・サーリアスと言います。こちらは、友人のリラ・サファトさんです」
 きぃ、と、扉が軋み、黒衣の騎士服に身を固めた少年が、その時、店内に踏み込んできた。
「……リラさん?」
 髪も瞳も、くっきりとした漆黒だった。どちらかと言えば細身の体に、扱いの難しい騎士剣を身に付けている。上から下まで隙の無い戦士の出で立ちだが、血生臭い印象が全くないのは、彼が、ごく繊細な顔立ちをしているせいだろう。
 女の顔に、警戒心は、浮かばなかった。
 近付いてくる少年を見上げ、会釈する。
「レナ、と、いいます。レナ・エリュシオン……です」
 エリュシオン、と発音するとき、わずかに、不思議な響きが、声に籠もった。耳慣れない音の連なりに、三人が、思わず顔を見合わせる。
「ええと……」
 黒髪の少年……榊遠夜が、はっと顔色を変える。地球というあまりにも遠すぎる世界からの異邦人である彼もまた、その名の響きに、どこか「異質」を含んでいた。あるいは、同じものを、レナの言葉から感じ取ったのか。
「竜言語……ですね」
 第四番目の声が、少し離れたところから、答えた。
「竜言語?」
 三人が、振り返る。
 眉一つ動かさない、凍り付いた無表情の、美しくも生きた等身大の人形のような少女が、そこにいた。
「申し訳ありません。皆さんの会話が、聞こえてしまったものですから……。複雑な事情もあるようですし、竜言語も滅多に聞けるものではありませんので、つい、差し出がましく、口を挟んでしまいました……」
 話ながらも、やはり、少女は、表情を崩さない。
 地球にある高価にして硬質な人形…………ビスク・ドールみたいだと、遠夜は、ふと、思った。
「私は、カレン・クローツェルと申します。わずかながら、魔術を囓った身です」
 彼女が優美に一礼すると、長い青い髪が、肩から胸へと、盛夏の滝のごとく流れた。
「竜言語は、竜族の中でも最も知恵高き一部の種族のみが操れる、魔術の祖言語の一つです。白き竜の彼は……竜人族なのですね」
 お話を、聞かせて下さい。
 五人が、一つの卓を囲むべく、酒場の隅に移動する。
 ぽつりぽつりと、レナが、語り始めた。
「彼は……私の、父です。兄でもあり……恋人でもあり……そして、今は、夫です……。エリュシオンは、彼の、名です」



 まだ赤子のうちに捨てられていた彼女を拾ったのが、竜人族の青年だった。
 人は人と共にあるのが一番と知りつつも、里親を捜しているうちに情が移り、ついには手元に置いて人間のレナを育てることに決めたのだ。
 極めて成長が早い人族のレナは、恐らくは彼が意識しない間に、瞬く間に、子供から少女へと、そして女へと成長した。
 元々、手の内の珠玉のごとく慈しんでいた娘である。その関係が、恋人へと、夫婦へと変わるのに、何ら抵抗はなかったという。
「それほど縁の深かった方なら、何も言わず、自分の意思で出て行った可能性は、低いかも知れませんね……」
 アイラスが、小さく溜息を吐き出す。
 例えば心変わりをして出て行ったのなら、それはそれで仕方ない、というのが、彼の考え方である。人の心は、月の満ち欠けよりも変わりやすい。同じ人間同士でも、別れることは多々あるのだ。まして種族が違えば、間を隔てる壁の高さは、並大抵のものではないだろう。
 彼が危惧していたのは、何らかの事件に巻き込まれたのではないか、ということだった。竜族が巻き込まれ、身の自由を拘束されているのだとしたら、一筋縄ではいかない大事が控えている可能性が、極めて高い。
 アイラスの後を、今度は、カレンが引き継いだ。
「あらゆる可能性を、私は、考えたいと思います。戻って来ることの出来ない理由としては……怪我をしている、閉じこめられている、既に……亡くなっている……等が、あげられます。そして、貴女にとっては残酷なことかもしれませんが……心変わりの可能性も、やはり、捨てきることは出来ません」
 貴女は、それでも、探しに行く勇気が、ありますか?
 カレンが、真っ直ぐ、女を見つめる。視線を逸らすでもなく、はっきりと、レナは頷いた。
「心変わりであった方が、良いです…………むしろ。亡くなっている、という、最悪の事態よりは……」
 元々、竜族の青年に拾われなければ、とっくの昔に朽ちてしまっていた身だ。気持ちが変わったからと言って、それを恨むつもりは全くない。捜すと言うより、ただ、彼の安否が知りたいだけなのだ。
 無事でいてくれるなら、それでいい……。
「エリュシオンさんが好きなもの……行きたい場所……何か……どんな小さなものでも構いません。思い出せること、ありませんか……?」
 リラが、遠慮がちに、口を挟む。
 彼女には、カレンや遠夜のような、圧倒的な魔術の力はない。人を捜そうにも、本人が常に迷子という、何とも頼りない身分である。
 だが、彼女自身が不安定な存在であるためか、心の機微には、他の誰よりも敏感だった。
 情報を引き出すよりも、まずは、励ましてあげたい。
 大丈夫、と、言ってあげたい。
 リラ自身も、昔、不安で不安で仕方なかったとき、遠い景色の向こうに見える「彼」に、あるいは言ってもらったことが、あるのかもしれない。

 大丈夫、と。
 心配ないよ……と。

「昔……」
 女が、何かを思い出したのだろうか。不意に、口を開く。
「昔、彼が、言っていました……。今回のことと、関係あるとは思えませんけど……。竜人族を狩る、恐ろしい、魔女のこと……」
「魔女?」
「友人が、何人も、殺されたって……」
 西に、魔女は、いるそうです。
 彼女が、呟く。
 ほとんど迷うこともなく、遠夜が、懐から、呪符を取り出した。
「それ……かなり重要な話かもしれない……」
「え。で、でも……十年以上も前の話なんですよ?」
「人にとっての十年と、竜にとっての十年は、明らかに違う。レナさんが思っているほど、古い話にはならないはずだ」
 少年の掌の中で、一枚の紙が、瞬く間にその姿を変える。
 湧き上がった白い光が、重みを増し、影を得て、やがて見事な鳳へと変化する。鳥が一羽ばたきすると、白い翼が、夜闇の色に染まった。遠夜が、素早く、指示を出した。
「西へ」
 鳥は、確かな形を持ちつつも、その存在は、界と界との狭間を彷徨っているものらしい。
 天井から吊されている洋燈も壁も突き抜けて、するりと外へと飛び立った。
 ものの十分もすれば、遠夜が求める情報を携えて、戻って来るはずだったのだ。だが、待ち続ける主の身を、予想外の異変が襲った。
「…………っ!!」
 鋭い痛みが、二の腕に走る。黒い騎士服に、紅い染みがじわりと広がった。とめどなく溢れてくる鮮血が、肌を流れ、ついには指先から滴り落ちた。リラが慌てて傷を癒す魔法を試みる。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
 アイラスが、やや強引に騎士服の袖をまくり上げる。傷はただの傷ではなく、明らかに、呪い返しの様相を為していた。
「式神が……弾かれた」
 遠夜が、呆然と呟く。無理もない。彼は探索を命じただけなのだ。攻撃など、微塵も考えていなかった。それが、容赦のない式神返しに、これほどの深手を被った。遠夜だからこそ、腕を切り裂かれた程度で済んだが、並の魔術師なら、鼓動を止められていた可能性の方が高い。
「ですが……これで、はっきりしたかも知れません」
 カレンが、いつの間にか、卓の上に何枚かのカードを広げていた。
 遠夜が式を召喚している間に、彼女もまた、自分に出来る範囲で探査を試みていたのだ。
 彼女がこの世界で唯一尊敬してやまない師ほどではないが、カレンの占術もまた、有効な失せ物探しの手段であった。ちょうど五芒星の形に置いた五枚のカードを、ゆっくりと、捲って行く。
 カードは、無地だった。何も模様がなかった。だが、カレンが手を翳すと、次々と、絵が浮かび上がる。
「この、意味は?」
 アイラスが尋ねる。
 カレンが、答えた。



「西に、魔女あり。その者、竜を狩る者なり……」





【西の魔女】

 西の魔女の噂は、全員が、初耳だった。
 竜狩りなど、おいそれと簡単に出来るものではない。悪質極まる蛮行は、もっと人の口に上っても良さそうなものだったが、実際は、酒場の誰に尋ねてみても、皆知らないと首を振るばかりであった。
 魔女が巧妙なのか。あるいは、「噂」は、やはりただの「噂」に過ぎないのか。
 一番確かな方法は、何と言っても、行って、直に見てくることである。そう思ったら、四人の行動は風のように素早かった。
 もともと、腰の軽い旅人の彼らのこと。遠出は苦にならないし、予想外の難事に突き当たっても、自力で何とかするくらいの心構えは、平素から出来ている。

「魔女は……ユニコーンの加護を越えた、その先に」

 比較的安全で、人口も他を圧倒して多いユニコーン地域から一歩を踏み出すと、そこはまさに人外魔境だ。無数に国家が点在するものの、正体が不明であることの方が多く、行ったきり帰ってこない冒険者も、決して少なくはない。
 魔女の噂が聖王都に届かなかったのは、この距離が、ちょうどよい隠れ蓑になっていたからだろう。
 かなりの強行軍で、彼らは、未知の大地を突き進んだ。
 カレンの魔術と遠夜の符術が、迷うことなく、一つの道を示し続けてくれる。メンバーの中に、魔法に造詣の深い者が二名もいたことが、良くも悪くも、役立った。
 一度は術を跳ね返された遠夜だが、二度同じ失敗をするような間抜けではない。求められれば、気配も、影も、完全に殺せる。自分という存在を忘れることすら可能だろう。「無」になれば、「虚」になれば、気付かれることは、まず無い。

「魔女は……」

 深い森の奥に、朽ちた一つの城があった。
 森は、系であり、流れであり、全てが、その巨大な城を包み隠すためだけに、ただ、存在していた。
 来訪者など、考えたこともないのだろう。
 門は開け放しで、大昔に作られたらしい罠の数々は、全て、その本来の意味を失っていた。あまりに警戒心が薄く、そして、あまりに無防備でもあった。
 レナ、という足手纏いを一人連れている身としては、ありがたい限りだが、逆に不安も増してくる。何もないことが、不気味だった。どこでも自由に我が物顔で歩けるのだ。安全なユニコーン地方の街道だって、もう少し用心しそうなものである。

 何かが、おかしい。

 そう考え始めて、やがて、真っ先に異常に気付いたのは、アイラスだった。

「魔物が……敵が……出てきません」

 そう。静かすぎること。
 それこそが、異変だった。
 ちょうどよく雨露を凌ぐ屋根と、適当な風よけと、十分な広さを備える朽ちた城に、なぜ、魔物が、一匹も住み着いていないのか?
 例えば、ここが、聖地であるというなら、それも理解出来る。魔の者を寄せ付けない、不思議な力が働いていることも、なるほど皆無とは言えないだろう。だが、城は、聖地どころか、空気は限りなく冥府に近かった。足下から、何かが這い上がってくるような、この、どうしようもないほどの、不快感。
 冷気が、ちくちくと肌を刺す。木漏れ日が窓の外から燦々と降り注いでくるのに、それでも、なお、暗いのだ。
 静寂だけが、重苦しく、まとわりついて……。
 
 不意に、リラが、駆け出した。

「リラさん!?」

 ライラック色の髪を棚引かせて、少女が走る。全員が、驚いて、後を追いかける。その身の半分以上が、人間どころか既に生命体ですらない彼女だからこそ、生身には捉えられぬ何かに、鋭く気付いたようだった。
 
 これは…………何?

 階段を駆け下りる。下へ、下へ、潜るように、何処までも続く、奇妙な石段。
 どれほど気を付けても、靴音がうるさいくらいに響いた。
 闇に閉ざされてしまわないように、壁に、等間隔に、消えることのない洋燈がかけてある。炎が揺らめき、影が踊る。空気が流れて、何か、饐えたような、不思議な臭いが漂ってきた。年若いながらも既に様々な冒険をかい潜ってきたアイラスが、自らの記憶と知識を総動員して、臭いの元を、言い当てる。
 
「防腐剤……?」
 
 恐ろしかった。
 嫌な予感が、背筋を駆け巡る。長い階段は唐突に終わりを迎え、その先に、鉄の扉があった。ここも不用心なことに、錠はない。初めから、城の主は、隠す気も誤魔化すつもりもないようだった。
「防腐剤……」
 防腐剤というのは、例えば死体を腐らせないようにするための、あの薬品のことかと、遠夜が、誰にともなく問いかける。それには一切答えず、硬い表情のまま、カレンが、扉を押し開けた。
 重い鉄扉は、何の抵抗もなく、ほとんど独りでに、向こう側へと開いた。
 途端、視界を焼くような、眩い、光。
 地下通路の向こうは、自然の洞穴になっていた。廊下とは比較にもならない凄まじい数の松明が、壁を埋めるように、掛けられている。火は、妖火か、魔炎か、ともかくも常ならざるものから生み出されているらしく、青く、蒼く、輝いていた。

「竜……」

 竜は、いた。
 白亜の、竜が。
 蒼い炎を映して、銀の鱗が燦然と光を弾く。空洞全体を埋め尽くしてしまうのではないかと思われるほどの、巨体だった。頭上に天は見えないが、今にも羽ばたかんとする勇姿が、それを目にする者を、強く、深く、惹き付けずにはおかなかった。
 畳んでいた翼を半ば広げ、わずかに首を持ち上げて空を伺うような動作が、まるで……。
「どうして……動かないのですか」
 カレンが、無意識のうちに、自分で自分を守るように、体の両脇に腕を回す。
 竜は、身じろぎ一つ、しなかった。
 瞳は、生身の裸眼ではなく、精巧な宝玉だった。美しいが、この世の何ものをも、既に映してはいなかった。
「どうして……って……」
 動けるはずが、ない。
 竜は……。
 遠夜が、呻くように、答えた。

「剥製……だ」

 レナが、悲鳴を上げて、倒れた。慌ててアイラスがそれを支える。
「はくせい……?」
 リラが、呟く。その意味を知らぬ訳ではない。ただ、頭が、理解の域に、達していなかった。
「はくせい……?」



 美しいでしょう?



 第六番目の声が、遠くから、笑った。





【異変】

「美しいでしょう? 白竜の剥製。心臓と瞳以外は、魔力の元にはならないから、本当は、必要ないのだけれど」
 現れた女が、何者であるか、わざわざ問いかける必要もない。
 女は、少女のようにも、老婆のようにも、見えた。美貌では隠しきれない残忍性と、限りなく狂気に近い純粋さが、竜殺しとは思えぬ華奢な体の中に、不安定な均衡を保ちつつ、同居していた。
「殺したのですか」
 アイラスが、呟く。
「殺さなければ、心臓と瞳は、奪えないわよねぇ……」
 魔女が笑う。
「魔力……そんな、ものの、ために……」
 リラが、両手で、顔を覆った。涙を流す機能を持たないこの双眸が、今、何よりも、恨めしく……思った。
「貴女は、人の皮を被った、愚かしくも醜い、ただの魔物だわ……」
 無表情の仮面の奥から、明らかな怒りを表して、カレンが囁く。唇は素早く呪文を詠唱し、広がる魔力の余波が、無数に燃える松明の炎を大きく膨らませた。
 火が、それ自体意思を持ち、紅蓮の渦を巻いて魔女に襲いかかる。魔女は、片手で難なく受けた。
 効くものか。
 心底、馬鹿にしたように笑った。
 効かないでしょうね……カレンが、頷く。小手調べの魔法などで、魔女に一矢報いることが出来るなどとは、初めから、考えてはいない。炎は、もう一人の攻撃を巧妙に隠すための、いわば、偽装、いわば、迷彩だった。
「榊さん!!」
 いつの間にか、魔女の背後に回った遠夜が、式神を放つ。完全に虚を突いたはずなのに、魔女はそれも容易く弾いた。魔法、と名の付くものは、この女には、効果がないのかも知れない。
 刹那的に判断した遠夜が、地を蹴った。彼は、術を、放棄した。剣を抜いた。真っ向から、狡猾な計算の一つもなく、呆れるほど純粋に、ただ斬りかかったのだ。
 魔女が、何かの障壁を、呼び出す。
 魔法ならば、防ぐことが、出来た。竜の炎すらも、退けることが、出来た。
 だが……障壁は、魔力壁だった。この世界とは、明らかに、ずれのある場所に、存在していた。
 剣は、壁を、乗り越えた。いや、壁には、そもそも、単純な物理攻撃を防ぐ機能が無かったのである。
 刃が、掲げた魔女の片腕を、切り落とした。
 
「ああああああぁぁぁぁ!!!!」

 肘から先の腕が、どさりと、重い音を立てて、落ちる。
 誰もが……それをやってみせた遠夜さえも、咄嗟に、動けなかった。

 時間そのものが凍り付いたような、一瞬。

 蹌踉めいた魔女の足下に、円陣が浮かび上がる。転移の魔法陣だ。逃げる気か……!遠夜が、姿の薄れる衣を掴もうとするが、一瞬、間に合わなかった。
 掌に、幻の絹の感触のみを残して、魔女が、消えた。かつて耳にしたこともないほどの、凄まじい憎悪と怨嗟を込めた呪詛の言霊が、遠夜の頭の上に、降ってきた。

「殺してやる……殺してやるよ。黒衣の騎士……いや、黒衣の魔術師!」
 
 呪いの言葉以外にも、魔女は、置き土産をしていったようだった。
 洞窟全体が、激しく揺れる。何が起きたか、すぐにはわからなかったが、ともかくも、彼らは急いで来た階段を駆け上った。城の内部に出て、その様相の変わりように、愕然とする。城は、沈みかけていた。地面が泥と化して、その中に、ぐずぐずと崩れ落ちて行っているのだ。
 既に、一階の窓は開けることも出来ない状態だった。このまま、上を目指すしかない。全員が頷き合って、駆け出すも、不意に、リラが、立ち止まった。
「リラさん?」
 アイラスが、少女の腕を引っ張る。リラはそれを振り払い、再び、地下へと身を翻した。
「リラさん!?」
「だって……」
 涙の機能を持たない瞳に、一瞬、光るようなものを見た気がしたが……きっと、幻か、錯覚だろう。
「だって、このままでは、レナさんに、何も、残してあげられません……」

 鱗の一欠片で、いい。
 たくさんは、いらない。
 たった一つで、構わない。

「無茶ですよ……沈みかけているのに!」
 無茶な少女の後を、アイラスが、追いかける。勝ち目が無ければ逃げましょう、が、彼の座右の銘であるが、こんな時には、無謀も無鉄砲も必要かと、らしくもなく、考えた。
 飄々として見えても、努力の大切さを、知らぬわけではない。たまには必死になって、足掻いてみるのも、決して、悪くはないのだろう。
「ごめんなさい。アイラスさん。アイラスさんまで、巻き込んで……」
「違いますよ。ここにいるのは、僕の意思です」
「でも」
「命は大切なものですから。だから、僕は、危険があれば、とりあえず、それを回避する道を探します。でも、逃げることしか出来ないような、つまらない人間にだけは、なりたくないです。……時々は、無茶をするのも必要だと、そう思えるくらいの柔軟性は、持ち合わせているつもりですよ」
 一人ではないから、沈む城の奥に行くのも、怖くはない。
 さっさと逃げない自分は、端から見たら、きっと、愚か者なのだろう。今更、鱗の一欠片を取りに行った所で、竜が、生き返るわけでもない。
「理屈じゃないんですよね……」
 アイラスの周りには、感覚や心を大切にしている友人たちが、たくさんいる。
 感化されているのかも知れませんね、と、一つ苦笑して、青年は、いつの間にか、少女を庇うように、その前を走っていた……。



「無茶だ!」
 駆け出した二人の背に、遠夜が、慌てて声を掛ける。追いかけようにも、気を失ったレナを彼が担いでいる状態なので、身動きが取れない。
「行って下さい」
 カレンが、遠夜から、レナを受け取った。
「行って下さい」
 無表情が、その瞬間、ほんのわずかに、柔らかく微笑んだ。
「クローツェルさんは……」
「私は、何とか、この城の沈下の速度を、緩めてみます」
「そんなことが?」
「正直、出来るかどうか、わかりません……。これまで、経験したこともありませんし。ですが……可能性があるのなら、試してみるべきでしょう? それは、魔術師の私にしか、出来ないことです」
 カレンに預けたレナの身柄を、遠夜が、再び、手の中に戻した。カレンが首をかしげる。
「榊さん?」
「魔術師は、一人より、二人いた方が、確かでしょう」
 僕も、手伝いますよ。
 二人の魔術師が、魔女が残した術法の罠に対抗するべく、各々の持てる力を、最大限に解放する。
 泥土に全てが沈む速度が、徐々に抑えられつつあるのを、少ない生存者たちは、この時、確かに感じていた。





【顛末】

 事の顛末を、カレンは、彼女が敬愛してやまない魔術師に、報告してやらなければならない。
 長く生き過ぎているが故に退屈を厭い、力が強すぎるが故に孤独が身に付いてしまっている、主。
 カレンには、過去の記憶がない。ある日の光景を境目に、想い出は、唐突に、そこから始まる。前は、完全な空白だ。白い闇が、どこまでも、続いているのみ……。
「ただいま、戻りました」
 カレンは、見てきたこと、感じてきたことを、そのままに、主に伝える。
 自分の時間、自分の記憶を、少しでも多く、師と重ねようとする。
 今回の事件は、決して、後味の良いものではなかった。しかし、好奇心を多少満たすくらいの物語には、なるはずだ…………話し終えて、カレンは、主の反応を待つ。だが、師は、感想ではなく、意外なことを、ぽそりと口にしたのだった。

 それが、全てでは、ない。

 言葉の意味が、咄嗟に、カレンには理解出来なかった。訝しむ彼女の体を、次の瞬間、師の転移の魔法が、ふわりと覆った。

 見ておいで。全てを。
 その、真なる顛末を……。
 
 



【夢】

 白い竜は、死んでいた。
 どれほど、願っても、祈っても、「命」に対してだけは、奇跡は、起きない。
 リラが我が身の危険も顧みず手に入れた竜の鱗の欠片は、今、彼女自身の手の内にある。
 嘆くレナを慰める言葉も見つからず、ただ呆然としているうちに、渡しそびれてしまったのだ。時が経てば経つほど、残ってしまった竜の鱗の存在が、ずしりと、耐え難いほどの重みを伴って、心にのし掛かってきていた。
「お二人が、無事に再会出来るって、信じていたのです……」
 憎むべきは、西の魔女。だが、既に、何処にいるかも、わからない。
 憤りをぶつける相手もいない時には、何を恨めば、良いのだろう?
 誰かを求め、会いたい気持ちは、リラにも、痛いほどに良くわかる。幻の景色の向こうにいる彼と、いつか再会を果たすことが、彼女の、ささやかな夢になっていた。だからこそ、あの二人も必ず出会えると、信じたかったのだ。
 夢は、あまりにも、残酷な形で、裏切られてしまったけれど……。
「竜の鱗……」
 けれど、これは、ここに在るべきではないだろう。
 リラが、ふいと立ち上がる。
 会いに行こう。もう一度。レナさんに。
 前に、進み出る。
「極度の方向音痴が、一人で、会いに行けるのか?」
「僕たちも、ご一緒しますよ」
 遠くから呼び止める、二つの声。
 二人の友人たち。榊遠夜と、アイラス・サーリアス。示し合わせたわけでもないのに、彼らが、当たり前のように、リラの傍らに居てくれる。
「レナさんのことは、僕も気になっていましたから。今、何処に住んでいるか、それくらいのことは、既に調べてありますよ」
 道案内なら、お任せを。
 いつもの調子で、アイラスが、先に立って歩き始める。アイラスと、それに続くリラと、二つの背中を見送りながら、黒衣の魔術師が、半ば独り言のように、呟いた。
「もう、言えなくなって、しまったな……」
 無事に、恋人たちが再会出来たら、ただ一言、言ってやりたい言葉が、あった。
 難しくはない。特別、気が利いているわけでもない。
 本当に、ありふれた、一言だけど…………。

「良かったな、って、言ってやりたかったんだ……」

 出会えたら。
 それこそが、今は、二度とは叶わない……夢。





【竜鱗】

 聖王都エルドザード。
 百万都市とも、千年王国とも詩人らに謳われる、ユニコーン最大にして最古の巨大都市。円熟を楽しみながらも退廃を見せず、華やかなに、艶やかに、都は、常に、人々と共にある。
 この街は、優しいのだろうか。冷たいのだろうか。
 最愛の夫君を失った女にも、何らかの恩恵を、与えてくれているのだろうか……。
 宛てもないのに、カレンは歩く。
 女との偶然の再会を望むには、都は、あまりにも、広すぎた。
 パンの焼ける良い匂いが漂ってきて、カレンは、何となく、そちらを見た。誘われるように、扉の前に立つ。
「あ……」
 冒険を共にした、残りの三人が、そこにいた。
 誰もが、彼女の後日を、気に掛けていたのだろう。
「レナさん……」
 彼女は、いた。
 パン屋のカウンターの前に立ち、客を相手に、忙しく動き回っている。自殺もしかねないと危惧していたが、そんな様子は微塵もない。奥では初老の夫婦が働いていた。店は彼らのもので、レナは、ここで、住み込みで働いているのだ。
「元気そう……」
 レナが、戸口に突っ立っている四人に気付き、客人たちを招き入れた。ありがとう、と、彼女は笑った。

「私は、大丈夫です。私は、もう、一人では、ありませんから」

 何か、大きな自信が、気弱だった彼女を、支えてくれているようだった。
 白いエプロンの上から、下腹部にそっと掌を当てる。そこに、何よりも大切に守りたいものが、存在しているとでも言うように。
 今は亡き人から受け継いだ命が、数ヶ月後には確実に訪れる誕生の時を待って、静かに、眠り続けていた……。
「赤ちゃん?」
 リラが目を見張る。
「はい。生きていけます。私……。あの人がいなくても。私が、頑張って、生きていかないと……この子の、ためにも」
 
 大丈夫。

 呪文のように、呟く。
 きっと、何度も何度も、自分自身に、そう言い聞かせてきたのだろう。
 
「竜の……鱗です。生まれてくる、そのお子さんに」
 リラが、純白の竜の鱗を差し出す。レナが、ひどく驚いた顔をして、リラを見返した。
「彼の……?」
「ごめんなさい。これだけしか、持ち出せなくて……」
 鱗の欠片を受け取ることなく、間もなく母親になる女が、そのまま、リラの掌を握らせた。
「これは、皆さんに差し上げます。皆さんが、持っていて下さい」
「でも」
「竜の鱗です。何か、不思議な力が、あるかも知れません。旅のお役に、きっと立ちます。私は、十分すぎるものを、既に、彼からもらいました。他には、何も、いりません」
 リラが手に入れた時、竜の鱗は、一枚だけだった。だが、西の果てから帰る過程で、鱗は、いつの間にか、四つに砕かれていた。鋼よりも硬い竜鱗が、そもそも、簡単に割れるはずがない。そこには何らかの宿星があり、運命が働いていた。
 竜鱗は、恐らくはその持ち主の意思で、四つに分かたれたのだ。為るべくして為ったものなら、想いは、素直に、受け入れるべきだろう。
「良いのですか……?」
「皆さんに、持っていて頂きたいのです」
 リラの掌の中から、遠夜が、鱗の欠片を、受け取る。氷のように、ひんやりと冷たかった。貴石のように、滑らかな感触だった。そして、窓から差し込む日差しを、鏡のように、眩く弾く。
 この鱗を全身に纏って、大空を羽ばたく竜の姿が、一瞬、目の奥に、浮かんだ。
「……頂きます」
 遠夜が、頭を下げる。礼を尽くされるべきは彼の方のはずなのに、何故か、そうせずには、いられなかった。
「……大切にします」
 続けて、アイラスが。
「ありがとう……」
 最後に、カレンが。

「皆さんに、竜の加護が、ありますように……」

 最愛の伴侶を失いながらも、雄々しく微笑んで見せた彼女の姿が、何時までも…………心に、残った。



「大丈夫ですよ。私は……。生きていけます。もう、一人では、ありませんから」





【未来へと】

 白き竜は、死んだ。
 白き竜は、もういない。
 
 けれど、命は、確実に、続いてゆく。

 導かれる。
 受け継がれる。

 未来へと。

 夢は、想いは、決して、途切れることはないのだと……。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0277 / 榊・遠夜 / 男性 / 16 / 高校生/陰陽師】
【1046 / カレン・クローツェル / 女性 / 16 / 魔導師】
【1649 / アイラス・サーリアス / 男性 / 19 / 軽戦士】
【1879 / リラ・サファト / 女性 / 15 / 不明】

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■         ライター通信          ■
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初めまして。ソラノといいます。
まずは……すみません。本当にごめんなさい。(平身低頭)
ありえないくらい長くなってしまいました……。どうしてコンパクトに纏められないのでしょう……。
しかも、結局、思いっきり悲劇に(汗汗)。
皆さん、せっかく優しいプレイングを書いて下さったのに、何やっているのでしょうか…………私。
駄目駄目ですみません……。(沈)

初めまして。カレンさん。
人形のような美少女、ということで、何だか異様に容姿の描写に力が入ってしまいました(笑)。
主の魔術師さんが気になります。
意外に毒舌で好き嫌いがハッキリしているということで、魔女には辛辣な一言を仰って頂きました。
カレンさんの好奇心を満たすほどではありませんが……少しでも楽しんで頂ければ、幸いです。

今回の依頼への参加、ありがとうございました。