<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


雨の片隅

 その日は朝から雨が続き、夜半を過ぎた今も、静かに続いている。
 今日のベルファ通りの人影は少ない、
 誰もが足早に雨を凌ぐために、それぞれの目的の店へと消えてゆく。
 その一角に位置する、この黒山羊亭の中でもそれは同じだった。
 ―雨の空気が漂っていた。
「あの……いいですか」
 そんな時、一人の娘が入り口の扉を開けて入って来た。
 エスメラルダが、頷き、その娘を迎え入れる。
 娘の身体はぐっしょりと濡れていた。
 髪を伝う雫がぽたぽたと床に幾つも落ちていった。
「暫く雨がやむまで、どうかここで……」
 娘は身体が芯まで冷え切っているかのように、ぶるりと身震いした。
 その後、娘はエスメラルダにいざなわれるまま、奥の席に向かった。
 そこで肩を縮めるようにしながら、まるで身をすくめるようにして、店の片隅で腰を下ろす。
「……ここなら大丈夫だから」
 娘は一人、窓の外に目をやると、ひそやかにそう呟いた。
 この喧騒の中なら、身を溶け込ませていられるから……娘はそう思った。
 自分の中に刻まれた深い傷は、癒える事など無くとも……。
 ―まだ……雨は止まない。


 ―太陽……それが、あたしからは最も遠いものね。
 レピア・浮桜はその日も、エルファリアの別荘を抜け出し、黒山羊亭にいた。
 勿論、そうする事の、レピアの目的はたったひとつだけだ。
 ―あたしはこの踊りの為に生きてる……。
 それは咎人として、数百年以上の時を生きてきたレピアにとっての、ただひとつのもの。
 レピアにとっての揺るぎ無い、生き続ける意味でもある。
 咎人とは、普通の人間が断罪され、何らかの呪縛を受けて罪を背負ったまま生き長らえさせられている者の俗称だ。
 それでもレピアは何時も、
「あたしは踊っていられれば、しあわせなんだけどね」
 人々にそう語った。
 そう……彼女のその稀有なる舞は、崇高なまでに人の心を捉え、突き動かさせる。
 だが、その舞は時として、悲しくも非情な狂気さえも生んだのだ。
 結果受けた、断罪。
 レピアの脳裏に微かに、失いし時の残像が過る。
「あたしがこんなことを思い出すのも、きっとこの雨のせいね……」
 レピアはわざと、自分の内によぎった闇を振り払おうと、そう呟いた。
 それと同時に、レピアの踊りは、更に激しさを増していった。
 その身体に纏う、青い布が揺れる度ごとに、人々の一時の、羨望の中から生まれる吐息さえも誘い出す。
 布と同色の瞳と髪も、揺れていた。
 身体の至るところに付けた、金属の飾りが音を立て、更により一層、踊りを激しくさせた。
 ―そうして、レピアが『その娘』に気が付いたのは、そんな時だった。


「温かい飲み物でもいかがですか? 」
 軽戦士であるアイラス・サーリアスは、つい今しがたこの黒山羊亭の店内に、姿を見せたばかりの、その娘にそう声を掛けた。
 アイラスは薄い青色の髪と濃い青色の瞳を持ち、髪は首の後ろで束ねた姿だった。
 それに顔には、大きめの眼鏡をかけている。
 軽戦士……それを簡潔に説明するならば、自己の魔力によってその肉体、精神、反射神経等を、強化する武闘家の事だった。
 もっとも、アイラスは主に釵術を用いて戦う事が、常であるのだが……。
 その上、過去に生きてきた世界の経緯から、実際には銃器さえも使いこなす、この青年。
 だが、その攻撃の反面、詩や歌にも秀でており、文学にも精通するその才能の広さに、時々周囲の人間達を驚かせる事が度々でもあった。
 そういう訳でアイラスは、何処か意外性に満ちた一面も覗かせる青年でもあったりもした。
 その上、何に対しても、自分が興味をそそられる対象には、好奇心を向けたりもするのだ。
 今日は特に、その好奇心の部分が雨に濡れた姿の娘に、声を掛けずにいられなくさせるのだろう。
「今日の雨に、何を思いますか。僕はさっきから思わず、詩などを口にしたくなったりしましたよ。まるで街を全てから隠すような雨だと……その中に誰もが溶けこまれ……こんな雨の日には、僕は時々そう思ってしまうんですよ」
 その娘は自分に近づいてきたアイラスに掛けられた声に余程驚いたのか、顔を上げた。
 アイラスは微笑をたたえたまま、少女に飲み物を差し出した。
 娘は外の雨で降られ、その中を延々と歩いてきたのか、全身が濡れていて、その顔は伸びた前髪に隠され、余り多くを伺う事が出来ない。
 そんな中、娘が顔に雨で張りついた、髪を片手ですくいあげるようにしたので、ようやくアイラスと目が合った。
「あの……わたし……」
 娘はまだ少女の面影を色濃く残したままの、10代の終りのような容貌をしていた。
 しかも、何か言い掛けた娘の唇は、冷え切っている為か、微かに震えており、その表情にはまるで血色が無かった。
「やられたわね、悔しいじゃない」
 その時、アイラスと雨に濡れたままの娘の背後から、踊り子レピアの悔しそうな声が響いた。
「あたしが先に声かけようと思ってたのに……その子に。飲み物もあげようと思ってたのにねっ! 」
 アイラスがレピアの言葉に笑った。
 常に自分の周囲に気を配り、ささいな変化でも見逃さずに捉えるアイラスを分かっているからこその、レピアの冗談混じりの言葉だった。
「さっ、休憩っ! 休憩しよっと」
 レピアは側にいたエスメラルダを呼び止めると、ワインと温かい飲み物を受け取った。
 それから娘と同じテーブルに着くと
「踊った後で気分がいいから奢り。暖まるよ。踊ってたからさ、ちょっと遅くなったけど、あたしのも飲んでよ? ねぇ? 」
 と告げると、温かい飲み物を差し出した。
 娘は小さく頷くと、レピアからも飲み物を受け取った。
「それにしても、アイラスって、詩人だよね……さっきのを聞いててそう思ったよ? もっと聞かせてくれない? 」
 レピアはくすりと笑いながらそう言った。
「でもこんな日は、そんな気分になりますからねぇ」
 アイラスは黒山羊亭の窓から、外の方を見やり、そう言った。
「ほんとに……雨やまないわね」
 レピアの声が、微かに低くなったのをアイラスは見逃さなかった。
 だが、それもほんの僅かの間の事だった。
 アイラスは何も気が付かぬようにして、再び口を開いた。
「……ええ、まだ今夜中は……このままいけば、朝までやみそうにないですね」
 喧騒や、人々の話す声にかき消されてしまっていたが、この店の外では雨がずっと続いていた。
 そうしてこの雨は、この街に住まう人間に様々な思いを抱かせている。
 ここにいる三人に関しても、それは同じだった。
 アイラスとレピアの傍らに座ったままの娘は、雨に何かを思うのかまた俯いていた。
 それを二人は、ただ見守り、この店内の一角だけの、その空間には沈黙が流れていた。
 その時の娘の姿は、自らが口を閉ざす事で、世界の全てから自分を遠ざけ、その中に沈める事で、消えてゆく事を選んでいるかのように見えた。
 少女のような娘の肩にあったのは、世界からたった一人切り離されたような孤独だったのだから。
 レピアにはそれが痛い程に分かる気がした。
 ―あたしも孤独……ずっと一人だった。永遠みたいな時間の中で、生かされて、太陽には遠くて……もう思い出せないくらいになっちゃった。思い出さなくてもいいのに、またこんな事を思うなんて……。
 レピアは娘の横顔を見ながら、そう思った。
 ―もしかしたら、今のこの子の心にも雨が降っているのかもしれない。今、この瞬間に外では確かに降り続いてる雨のように……太陽は絶対見えないから。どうしても、どうやって焦がれたとしても叶わないから……。
 レピアがそう思った時、今度はアイラスが口を開いた。
「雨は大地を濡らす、全ての糧……それを洗い流しもしながら、同時にそれを受けた者に強くも深いものを与え続ける」
 アイラスがゆっくりと呟いた言葉に、娘が問い掛けた。
「それは……? 」
「僕が、前に読んだことのある本の中にあった、詩の一節です。妙に印象深くて、覚えていたんですよ。この雨で余計に思い出してしまった、というのもあるんですが」
「雨が糧……? そうかもしれない。でも……」
 娘は力無く肩を落とすと、小さくそう呟いた。
「でも? 」
アイラスの問い掛けに、娘が再び口を開いた。
「さっき言ったでしょう、雨は全てを覆い隠すみたいなものだって……わたしは、その方が似合ってると思ってたんです。この雨なら、もしかしたら、自分が何処にいるのか分からなく出来るような気がして……そう思ってたから」


 それから暫く三人の間に続いた沈黙の後、レピアは思いついたように、娘の顔を覗き込みつつ、
「あんた可愛いよね、思わずだきしめたくなっちゃうじゃない」
 レピアが自らの腕を回して、娘を抱きしめた。
 娘はびっくりしたように、顔を赤くした。
「あ! 赤くなった! ますます可愛いじゃない〜」
 レピアは嬉しそうに、更に娘をぎゅっと抱きしめた。
 ―話したくない事……心の中に誰にも簡単に触られたくない場所だってあるよね……だから、あたしは何も聞かないよ。心の傷は言葉ではなく人との触れ合いの中で癒されるって、あたしはそう思うから。全部を埋められなくても、せめてそれが伝われば……ね。
 娘をきつく抱きしめながら、レピアはただそう願った。
 暫くレピアが娘を抱きしめるのを見ていた、アイラスが唐突にぼそりと口を開いた。
「今思ったんですけど……全く同じ事を……それ、僕がやったら問題ですよね」
 アイラスの言葉に、レピアが当然とばかりに深く頷いた。
「当たり前よ、あたしは女だからね、だからっ、許されるのよ」
「やっぱりダメですか。想像していたとはいえ、非情に残念な事ですね。僕は悲しいなぁ」
 アイラスのわざとらしいため息混じりの言葉に、レピアが笑い転げた。
「アイラス、あんた、その言葉。どっからどこまでが本気なのか分かんないわ。それとも酔ってるの? ひょっとして、さっきあたしが飲ませた酒がまずかったのかな」
「酔ってるんじゃないんです。僕は何時だって本気ですよ? 」
 アイラスの言葉に、レピアがまた笑った。


 そうして、今、またレピアは踊り始めた。
 ―あんたにさ、元気を出して欲しいから、あたしは想いを込めて踊るね。朝までつきあってあげるから……今夜は……。
 そのレピアの情熱的なまでの舞は、踊り始めると直ぐに、黒山羊亭の店内に居合せた全ての人間の視線を集めていた。
 レピアは踊りながら、時折少女の方を見やった。
 娘は飲み物を持った姿で、レピアの踊りをただ真っ直ぐな眼差しで見つめていた。
 その横では、少女を庇うように椅子にかけた姿勢で、アイラスが娘の方を見つめている。
 レピアがアイラスに少しだけ目配せをした。
 それに気が付いたアイラスが、また何か娘に少しずつ語り掛け始めた。
 娘はさっきまでより、幾分穏やかな表情でアイラスの言葉に頷いていたように見えた。
 それを目にしたレピアは、ほんの少し微笑んだ。


 ―翌朝
 黒山羊亭の、店内にあの娘の姿は何処にも無かった。
 エスメラルダの声で起こされたアイラスは、ぼんやりとした視界を元に戻すように、眼鏡を外しつつ、身体を起こした。
 何時の間にか眠ってしまっていたらしい。
「あの子は……どうしたんでしょうか? 」
 アイラスは、エスメラルダにそう訊いた。
「そういえば、そうね。随分遅くまでいたような気がするんだけど、何時帰ったのかしら。お金だけがテーブルに置いてあって……あたしも全然気が付かなかったのよね。不思議な子だったわ。雨の中から生まれたように、雨が消える前に消えた……変ね。こんなことを思うなんて」
 エスメラルダは首を傾げつつ、そう言った。
「そうですか。確かに不思議な方でしたから分かるような気がします。そういえば、レピアさんは……? 」
 アイラスの言葉に、エスメラルダはステージの隅を指差した。
「ああ、そうか、忘れていました……レピアさんはもう……」
「あの子の事が余程気がかりだったんでしょうね、だから多分、朝までここで……これから別荘に運んであげようと思ってるんだけど」
 エスメラルダがそう言った、言葉の先には、既に朝を迎え、彫像と化し、石化したレピアの姿があった。
 そう、彼女が踊ることを許されるのは、夜だけなのだ。
 これから先の未来の時間も、今までに過ぎ去った時間でも……。
「僕も手伝います。昨晩……雨に晒されたような、突然現れたあの子が気になってならなかったのは、僕もレピアさんと全く同じ気持ちでしたから」
 アイラスがそう言うと、エスメラルダが感謝の言葉を口にした。
 黒山羊亭の窓からは、眩しい程の朝の日差しが差し込んでいた。

 おわり


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1649 / アイラス・サーリアス / 男性 / 19歳 / 軽戦士】
【1926 / レピア・浮桜 / 女性 / 23歳 / 傾国の踊り子】


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■         ライター通信          ■
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何時もお世話になっております、桔京双葉です。
今回も本当にありがとうございました。
何時も何時も同じ言葉ばかりになってしまいますが
本当に感謝の思いでいっぱいです。今回はお任せして頂ける、との事で
今まで余り表現してこなかったアイラスさんの個性を書かせて頂きました。
本当にありがとうございました。