<東京怪談ノベル(シングル)>


黄昏

 なりも心も人のまま、人では無い力と、運命を背負った。
 この手を見下ろす時。其処に流れる血を呪う事がある。
 かつて暮らしていたあの土地で──そして、今を生きる大勢の人々のように、怪我や病で死ぬ事も無く、どこまでも頑健な体と魂を持った、『サムライ』と言う異質の血を。
 体の奥底に染み込んだ記憶が、辿ってきた道が、人外の振る舞いを嘆く。
 俺は、『人で無し』だ、と。
 
 こんな雨の午後は、どうにも気分が鬱になって困る。刀伯・塵は窓辺に立ち、重く垂れ下がった灰色の空を眺めた。
 しとしとと、絶え間なく降り注ぐ冷たい矢。
 手を伸ばせば、そこにこびりついた目に見えぬ赤い染みも、洗い落とせるのだろうか。
 不意に、ズシリと重い『霊虎伯』の感触を思い出した。
 ポタリポタリと、絶え間ない雨だれが、心にさざ波を作る。
 滴は、塵の脳裏に浮かぶ、刀の切っ先から垂れていた。どの色よりも赤い、朱い、紅色。振り下ろし、絶命させた者の血で愛刀は濡れそぼっていた。
 塵の目が、束の間遠くなる。

 肩で息をした。抜かずの剣で打ち倒した。振るっても振るっても『きり』が無かった。こんな殺し合いは、無意味だった。望んでもいない。斬りたくは無かった。
 だが、もう限界だった。
 あちこちで上がる阿鼻叫喚が、村を支配している。襲われているのは、村人。そして、襲っているのもまた、隣村の村人だった。
「どうすりゃ良い。救い出す方法は無いのか?」
 塵は、途方に暮れていた。途方に暮れながら、刀を振るっていた。それでも、襲う事を止めない人々に、塵は戸惑いを感じていた。
「たっ、助けてくれ!」
 直ぐ後ろで、悲鳴が聞こえた。塵は慌てて振り返った。その目前で、真っ赤な花が咲く。塵の頬にも、滴が一つ飛んだ。
 村人は、たった今、隣人を斬り殺した刃と、虚ろな眼差しを塵に向けた。 もう人の心は残っていない。憎むべき殲鬼の隷下となっていた。
「頼む、もう止めてくれ!」
 
 ──ガキンッ。
 
 鈍い金属音が轟いた。
 村人の手にしていた刀がはじけ飛ぶ。武器を失っても、戦意は失せなかった。村人は真っ直ぐに腕を伸ばし、塵に攻め寄ってくる。知性の無い、濁った眼差しを塵は間近で見た。
「お父さん! お父さん! 助けてぇ!」
 幼い悲鳴が、塵の耳に飛び込んだ。塵は村人を突き飛ばし、首をひねった。女児が、救いを求めて逃げまどっている。その後ろに『村人だった者』がいた。
 塵は走った。そして、抜刀した。躊躇は無い。振りかぶり、それを力任せに叩き付けた。
 剣風が起こる。砂塵と共に、血しぶきが上がった。一つだった塵の頬の赤い染みが、四つに増えた。ドサリと、呆気なくそれが倒れる。
 流れ出す液体が、地面を汚した。恐怖に泣きじゃくる少女の前に、塵は片膝をついた。
 肉を斬った感触が、手に残っていた。人は脆かった。
「怪我は無いか?」
「うん。おじちゃん、有り難う」
「家は何処だ?」
「あっち」
 少女は、塵の後ろを指さした。
 そこにも、倒さなければならない影は蠢いている。塵は、ぎゅうと柄を握りしめた。
「おじちゃん」
「どうした?」
 少女の目は、塵を真っ直ぐに見つめている。刀を持つ者への畏怖を、塵は感じ取った。
「大丈夫だ。俺は──俺は、皆を護りに来た。『サムライ』だ」
「サムライ?」
「そうだ」
 サムライ、だ。戦う事を運命とした、サムライだ。
 塵は斬った。幾度と無く刃を振り上げた。その度に、塵の心が激しい痛みを訴えた。
 心を失っても、人は人。それを、塵は斬っている。
 一つ振るえば、一つの命が。二つ振るえば、二つの命が。いとも簡単に消えていった。それが、サムライの力なのだとしても、塵は心まで失ってはいない。どんなに剣を振るおうとも、塵の中には『人』の部分が生きている。そこが、憂うのだ。
「おじちゃん、ここがあたしの家」
 少女はやがて、古びた長屋を指さした。女が直ぐに飛び出してくる。少女は、そこにしっかりとしがみつき、大きな声を上げて泣き出した。
「有り難うございます」
 母とおぼしき女は、少女を抱き締めながら、何度も頭を下げた。その光景に、塵は束の間の安堵を覚える。
「終わるまで、出るんじゃないぞ。守れるよな?」
「うん」
 二人が扉の向こうに消えるのを見守ってから、塵は走り出した。
 人が、人を斬る。
 誰かに感謝をされても、塵の躊躇いは消え無い。
 そして、一番の躊躇いが、塵を絶望へと叩き落とした。
「……お前は」
 喉が大きく上下した。
 行く手を阻んだその顔は、塵の良く知るものであった。もはや言葉を発する事も出来ず、それはザリと砂を踏み前進した。
「待ってくれ」
 塵は、ゆるゆると首を振った。これだけは絶対に斬りたく無い。
 木刀が発する打撃音と、遠い日の笑顔を思い出し、塵の呼吸が乱れた。
「お前を──俺が、斬るのか……?」
 かつての友は、塵が見た、あの虚ろな眼差しをしていた。斬らなければ、斬られる。罪もない人々が、友の刃の犠牲になる。
 塵は、口元を固く結んだ。ギリと歯を食いしばった。刀を構え、女を見据えた。
 脳裏の隅で声がする。それは、楽しげに笑い塵の名を呼んだ。
「許せ──」
 塵は吠えた。
 全てを断ち切る勢いで、渾身の力を愛刀に込めた。上から下へと、真一文字に振り下ろす。鮮血が飛び散った。女の刃が、塵の肩を掠める。だが、それだけだった。脆い。どう、と、友はくずおれた。
 はらりはだけた塵の肩口から、温かいものが流れる。目の前に広がってゆく赤。塵の握る刀が、同じ色を滴らせた。

 ポタリ、ポタリと。
 雨だれは、あの音に良く似ている。
 失ったものが、どれほど大きかったのか。塵は無くして気がついた。
 自らの刃で送った、彼女の命。
 いつまでも消えない遠い日の記憶と、かけがえのない者への想いが、塵を責める。
「人にして、人にあらず……だな。やはり、サムライは『人で無し』、か」
 塵は、掌を見下ろした。まるで、そこに付いた血を隠そうとするかのように、それを丸める。
 この身は、すでに人ではない。ならばいっそ、心も人のもので無くなれば良い。
 悲しみも、苦しさも感じぬ、無痛の心に。
 雨が降る。
 泣けぬ漢の代わりに、しとしとと。
 心はまだ、人のまま。
 消えぬ想いを抱いている。



                        終