<東京怪談ノベル(シングル)>
寓話
折り重なるように人間の身体が足元に落ち、周囲の窪みや轍には、雨上がりのような水溜まりができている。赤黒い水に頭から浸かり、痙攣もしなくなった身体は、愚鈍な穀物袋のようだとラティス・エルシスは思った。
たずさえた細身の剣には、冴えた赤がワインのように流れ、所有者の顔を泣いているように歪めて写している。それを地面に突き立てると、ラティスは近くの死体から抜き取ったぼろきれで身体を拭いはじめた。
浴びせかけられたような大量の血液は、革服の上ではまだ水分を含んで重く残っているが、絹のような銀髪や大地の恵みのような肌の上では蒸発し、指先で軽くこすっただけで雲母のように薄く剥がれ落ちた。
静脈から流れ出る血が大地の色を黒く染め、動脈から吹き出した血が赤く空気を汚染した中で、ラティスはただ黙々とそれを続けた。死者の静寂が訪れた町は夜には無い影を作り、ベールのように引きずっている。
飛んだ血をあらかた落とし、細工のほどこしてある柄に伸ばしかけたラティスの手を、長く細く笛のような声が止めた。
「子供?」
振り向いた方角はくすぶり続ける家々で遮られ、遠くまで見通すことが出来なかったが、ダークエルフのラティスにとって、それはさほど重要なことではなかった。
エルフ族は生まれながらに卓越した五感を持っているが、傭兵として何十年も戦場に身を置き暮らしているラティスのそれは、通常の何倍も鋭く磨かれている。
「北……三人か」
姿は見えないが、鼓膜を震わす微かな音から正確に状況を読み取ると、ラティスは剣を手に足元の小石一つ飛ばさず駆け出した。
黒煙を立ち昇らせる家々の間を獣の敏捷さで走り抜けると、広場のような場所に出た。その奥、頭部を砕かれた石像が横倒しになった前に、聴覚が捉えたものと寸分たがわぬ実景が展開されているのを見て、ラティスは柄を握る手に力をこめた。
車輪の刻む律動が眠気を呼ぶ。その誘惑に負けたのか、ラティスの隣りに座った兵士はだらしなく口を開けて、大きないびきをかきはじめた。
狭く混み合った幌馬車の中は先の闘いで疲れきった兵士や、ラティスと同じような傭兵であふれ酸素が薄い。後方に乗ったのを幸いに外を覗くと、空は青々と光をはらんで、太陽はまだ高い場所にあった。
気温は高く平原を渡る風は強く乾いている。地面に近い場所は砂塵でかすみ、できの悪い陽炎が後ろの馬車の姿を頼りないものにした。ラティスの乗った馬車は行軍の最後尾に近い所につけていたが、それでも先ほどまでいた町の影を見る事はできなかった。
軍に食料を提供しない町を制圧して回ることが派兵の目的だが、目に映る変化の乏しい風景は平和そのもので、生臭い現実とは隔絶した光に溢れている。前方に視線を移すと、隊は西に向かって長く弧を描くように進んでいるのが判った。
この道の先にある町に着けば、また血と怒声と痛みに身をひたすことになる。
その考えに呼応するように、ラティスの胸の中心にある砂漠が騒ぎ出した。毒蛇のような色をした不安が鎌首をもたげ、正面から彼女の青い瞳を見据えた。
ラティスがとっさに幌の端を強くつかむと、数秒遅れて数時間前の光景が激しいうねりのように戻ってきた。
背にかばった子供の脅えと嫌悪の入り交じった視線。『助け損だな』と嘲りを込め、投げられた兵士の言葉。そしてなにより傭兵という職業を選択しておきながら、非情に徹しきれない自分自身の矛盾。
非戦闘員への残虐行為の禁止。それがラティスと契約する際の最重要項目だと知らない交渉人いないが、それが末端の兵士まで徹底されるとは限らない。
その条件を当然という顔で受け入れる雇い主にしても同じ事。その甘さを内心では笑っていても、利用価値のあるラティスの強さがその言葉を封じているだけのことだ。
今日を生き延びた子供が明日、剣を取って敵の兵士を斬り殺すこともある。
油断は敗北と手を取り、狂気を踊りながら勝者の背後に現われ、その首に手をかける双子の悪魔だ。歴史をひもとくまでもなく、強者が弱者を抑圧し虐げるのは当然の権利で、用心深さと繋がった確実な自衛手段の一つだった。
「それでも……」
ラティスは小さく喘ぐように声を漏らした。舞い上がる熱く乾いた砂が喉を痛め、視界の色を奪う。
『生きて、くれ』
記憶の向うに飛ばされた影が囁く。それは長い時を経たせいで原形を失い、大きな鳥のようにも、嵐に翻弄される木立のようにも見える。それは神を信じないラティスの、唯一無二の信仰対象で光だった。
「そして明日の太陽を?」
長患いのように心を離れない矛盾は、いつも一つの結論に辿りついて大人しくなった。命を懸けた契約から解放されるのは、長寿の彼女にはまだ先のことになるだろう。
ラティスは薄暗い馬車の中に向き直ると、身体を端に寄せ小さく膝を抱えるようにして目を閉じた。
目を覚ましたのは、車輪の回転が止まったからでも、隊列が奇襲を受けたからでもない。ただ聞こえたからだ。
嘆きと絶望に彩られた声は、空気を裂いて真っ直ぐラティスの元に届いた。
素早い動作で剣を掴むと、驚く兵士たちにかまうことなくラティスは幌馬車から飛び出した。列を離れ、一直線に声を目指す。
短い草の生える緩やかな丘陵地を越えると、眼下には軍の目的地である西の町が広がっていた。あちこちで黒煙が立ち昇り、吹き上げる風には暖かい血の匂いが混ざっている。意識を耳に集中させると、先ほどの声が前よりも切迫して響いた。
「あそこか」
体勢を低くして矢のように駆け下りると、城壁の破壊された部分が視界に入った。どこにあるのか判らない門まで行くよりも、そこを通り抜けた方が速いと判断し、ラティスは迷わず足を向けた。切り出しの荒い石が積まれた壁に近づき、崩れた部分を飛び越えようとした瞬間、足が止まる。
「なんてことを」
目の前に広がる光景を脳が理解すると、ラティスは呟いた。
割れて崩れた石の間に、押し込めたような幼い死体があった。それは悪趣味な装飾のように赤黒い色を纏って、ある場所では数人。別の場所では瓦礫にのまれてしまったのか、やわらかな腕を樫の若木のように天に向け生えさせていた。
棍棒や弓矢など、武器らしき物は見渡せる範囲には一つもない。瞳が青い炎のように揺らめき、気配が鋭く砥がれていく。精度の良い矢が飛ぶように、ラティスはすすり泣きの聞こえる方に向かって、先ほどまでとは比べものにならない速さで駆け出した。
絶え間なく続く嘆きは弱々しいながらも、嵐の中の灯台のようにラティスを導く。進むほどに道に倒れる死体が増え、その中には女性や老人らしい姿もあった。
「……いやー!」
絞り出すような絶叫が木霊するのと、ラティスが駆けつけたのは、ほぼ同時だった。
太陽が傾き、その場にいた誰もの影が長く伸びている。舞台の上で道化師がする大仰な動作で兵士が剣を振り下ろすと、血しぶきが飛んだ。理性を欠いた醜い顔に降りかかる赤は、切られることへの最後の抵抗のように見える。
女性を懐に抱いて剣を受けた男性の表情は見えなかったが、きっと満足気に微笑んでいるのだろうとラティスは思った。閉ざされた扉のあちら側で、記憶が戒めの鎖を鳴らして騒いだ。
「いや、いや! しっかりしてぇ!」
傷口からとめどなく流れる血を両手で押さえ、女性は狂ったように泣き叫んでいる。兵士への恐怖より、男性が切られたことの動揺が彼女を突き動かしているようだった。太陽が投げる最後の光を、血で汚れた長い金髪が反射する。
「次はお前だ」
たった一人の観客も居ない場所で、道化の劇は台本通りに進行していた。ぬめった光を放つ兵士の剣が、男性に覆い被さるようにしている女性の肩口めがけて容赦なく振り下ろされる。
悲劇という舞台に立たされた誰もが、金属の打ち合わされる硬質な音が場を壊すように響くまで、惨劇の結末を微塵も疑わずにいた。
「やめろ」
人切りの快楽に酔いしれていた兵士の目に、正気と脅えの色が湧く。
風のように女性の前に滑り込んだラティスは、息一つ乱さず大剣を受け止めると、瞳の色を濃くして真っ向から見据えた。
その気迫に押されたのか、脅えたように兵士が一歩下がる。
「……いくら出す?」
兵士を油断なく睨みつけながら、ラティスは女性に問い掛けた。呆然と見上げる彼女の瞳に、弱々しいが確かな光が戻る。それは暗黒の夜空にまたたく小さな一番星のようだった。
男性の血で濡れた細い手は震えながらも意思を持って動くと、胸元から彼女の持つ唯一の装飾品らしい鎖をつかみ上げた。それを確認するとラティスは細身の刃を斜めにはらった。
「契約成立だ」
正面に立った兵士の身体が戸惑うように痙攣すると、一拍おいて血を撒き散らしながら地に伏した。
「……うわぁ!」
「応援を呼べ!」
先ほどラティスに倒された兵士は、どうやらこの小隊の長だったらしい。我にかえった周囲の兵士たちは騒ぎ出すが、統制は乱れ混乱の度合いだけが増していった。こうなってしまっては、人数の差はあるが、どちらに分があるかは誰の目にも明らかだった。
この機を逃さずラティスは駆けた。血溜りに足を取られることなく力点を定めると、つむじ風のように剣を振る。
剣を構えた腕が白刃の一閃で空に飛ばされ、青銅の盾はバターよりも柔かくラティスの剣を受け入れた。
恐怖に足元をすくわれ、ラティスの前に転げた兵士は、死の瞬間まで抱えた麻袋を離そうとはしなかった。命を量る天秤は、強欲という錆でもう正常には働かないらしい。思いがけず生を絶たれた顔は、驚きの表情を貼りつかせ泥に落ちた。
空を切る音が近づいてラティスの肩先近くを矢がかすめる。顔を上げると血の引いた兵士の顔が屋根の上に見えた。
「面白い」
壮絶な微笑を浮かべると、ラティスは剣を下段にかまえ躍り上がった。
ラティス・エルシスと剣を交えることで生じる損失を冷静に見極め、潔く引いた雇い主は勝者の才があるのだろう。
この町に向かっていたはずの隊が進軍をやめ、引き返したとラティスが知ったのは、太陽が姿の大部分を地平に沈めた頃で、町にいた兵士すべてが動きを止めた後のことだった。
強靭な肉体を持ったダークエルフとはいっても、さすがに数小隊を全滅させるのは、体力の限界に近いほどの消耗だった。ラティスは返り血を拭うこともせず、肩で大きく息をした。気を抜いたら膝から崩れ折れてしまいそうだった。
家々の間から立ち昇る黒煙で、町には一足早い薄闇が漂っている。
ラティスの背後。そう離れていない場所に立つ人々は、泥と血で衣服を汚し恐怖を顔に滲ませながらも、その場を離れようとはしなかった。兵士を倒したからといって味方とは限らないと、視線のどれもが、言葉よりも正直に本音を代弁した。
流れた汗が瞳にしみて、その刺すような痛みにラティスは眉をひそめた。
やがて本格的な闇が町に降り、荒かった呼吸も落ち着いてきた頃。遠巻きにしていた人壁が割れ、一人の女性がラティスのもとに歩み寄った。
「これを……」
血で曇った鎖を両手で胸の高さに捧げ持つと、女性は儀礼じみた動作でラティスの腕にかけた。
「……契約だったな」
「そんなものしか、私には払うものがありません」
そう言いながら、女性の目には涙が溢れていた。ラティスは改めて受け取った鎖を見た。それはリングを通した、どこにでもある何の変哲もない鎖だった。
ラティスの視線が一点で留まり、眩しいものを見るように瞼が伏せられると、瞳は深く優しい海の色に変化した。
鎖から目を離せず、はらはらと泣き続ける女性をそっと抱き寄せると、ラティスは自分の剣を抜いた。遠巻きにしていた人々が、むき出しの刀身に息を呑む気配が伝わってくる。
羽毛が舞うような優しさで刃が光の軌跡を描くと、ラティスはうって変った荒々しさで彼女を突き放した。
「では、こちらを貰おう……まだ金になるからな」
驚いて自分の髪に手をやる女性に鎖を投げかえすと、流れるような黄金の束を手にラティスは不敵に笑った。
人々の間からは女性が斬り殺されなかった安堵の声と、髪を切ったことに対する非難の声がもれ聞こえたが、それは二人の耳には届かなかった。
女性の表情が歓喜に染まり、先ほどとは別種の涙が頬を伝った。鎖を宝のように胸に抱き膝をつくと、ラティスに春の芽吹きを思わせる微笑みを返した。
そののち女性の唇がなにか伝えようと開いたが、ラティスは関心もないといった風情で踵を返すと、光の届かない闇にその姿を消した。
一度も振り返らなかったラティスの背を追いかけて、女性は届くことのない短い言葉を口にした。
暖かい涙の雫が鎖に通されたリングに落ち、血の曇りをかすかに拭い去る。ラティスに捧げられる言葉を聞いたのは、永遠の誓いをかたどったリングだけだった。
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