<東京怪談ノベル(シングル)>
黄昏の翼
遠く、遠く、霞む雲間を泳ぐような、鳥の影。
濃い空を背景に、やがて、思い出したように、近付いてくる。
高い天に映える翼は、純白。少しずつ暮れる茜の光を弾いて、留まり続ける…………この、幻想世界の彼方に。
名前は、知らない。恐らくは、ソーンにしかいない鳥なのだろう。
ここの界は、全てのものを無尽蔵に取り込んで、人知れず増殖してゆく、魔物のようだ。
法則はなく、規律もなく、雑多な文化人種が入り乱れ、そして一つの系になる。
人よりかなり優秀な頭脳を持って生まれた倉梯葵(くらはしあおい)とても、理解するのは困難で、けれど、我知らず、感化されてゆく。
ソーンは、魔物。
楽園という名の、魔物。
「あいつも…………」
この空の下の何処かに、いる。
自分の名を、知っているだろうか。
自分の過去を、思い出せるだろうか。
いつも、すぐ傍らに、視界の少し前に、「誰か」がいたことを、覚えているだろうか?
背中に、懐かしいあの気配がないことに、今更ながら、違和感を感じる。
振り返ったその先に、いつも、彼女は、いた。
とろいくせに、何事も一生懸命で。
不器用なのに、手に余ることばかり、引き受けて。
無知で、無謀で、時々、呆れるくらい、無鉄砲で…………だからこそ、どうしても、放ってはおけなかった。
「あれは、何?」
質問に答えるのが、当たり前の、日常風景になっていた。
「あれは……」
時間が巻き戻る。
いつか二人で見た、黄昏風景。
ソーンに来る前の、戻る保証もない、故郷の星で、天を見上げた。
あの時も、鳥が舞っていた。
あの時にも、やはり、答えてやることが、出来なかった。
「あれは、何ていう鳥なの?」
「さぁ……何だったかな」
「…………わからない?」
「わかることの方が、少ないからな」
そう……と、少し俯いて、何かをじっと考え込む。
葵は、黙って、それを見守る。
のんびりと、ゆったりと、何事も真面目に考えすぎる癖のある、彼女。
葵は、決して、彼女を急かさない。答えを、すぐには求めない。十分に、時間を与える。待ち続ければ、彼女の方から、やがて、必ず、言葉は返る。
「名前のない鳥ね」
名を持たぬ故に、縛られない。名を持たぬために、留まれない。
風を友とし、永劫の時を、渡り続ける。宿り木はあっても、巣は要らない。巣がないから……その鳥を知る者も、いないのだ。
「寂しく……ないのかな」
「さぁな……鳥に聞いてみないと」
「鳥と話の出来る薬、作って?」
「鳥と話して、意味があるのか?」
「鳥が、一番、自由を知っているような気がするの……」
教えて。「自由」って、何?
黄昏時の赤色が、炎のそれと、重なる。
彼女の体を焼いた、劫火。悲鳴を呑み込み、全てを駆逐する。人という生き物の無力さを、脆弱さを、思い知らせるように。火の哄笑の向こうに、今でも、助けてと叫ぶ声が、聞こえてくるような気がしてならない。
「熱い……熱いの……助けて……」
この事故が元で、彼女は、自らが人であることを、放棄した。
けれど、機械にも、なれない。
限りなく人に近い、無機の体。赤い血が、未だ流れる。赤い血では錆び付いてしまう鋼の四肢が、不完全な部分を補う。中途半端な、存在。生きるために、彼女の意思とは関わりなく、彼女の父親が、それをした。
「教えて。私は…………何?」
答えてやれない。その問いに。
いや。答えるその日が、むしろ、怖い。
人にも機械にもなりきれなかった、少女。
何ものでもない。誰でもない。
彼女が望む、明確な返答を、葵は、未だに、探し出せずに……。
「私は、何?」
忽然と消えた彼女を探して、この不安定な界を彷徨う。ここの住人は、全てが旅人だ。迷い人だ。
あの娘も、同じく、彷徨っているのだろう。
疲れ果てて、歩くのを止めてしまう前に、何としても、見つけ出してやらなければ……。
「その時までに」
葵は、二度、天を振り仰ぐ。
鳥は、まだ、留まっていた。
ソーンにだけ生息する、純白の鳥。黄昏の一時に、遠くから現れて、今は傍らにいない少女のことを思い出させてくれた、旅人鳥。
「名を」
次に、出会う時までに、名を、調べておこう。あの鳥の名は?と、聞かれたら、はっきりと答えられるように。
何処から来たのか。
何処へ行くのか。
何時生まれたのか。
何時死ぬのか。
知りたいことは、山のようにある。
次に出会える時までに、その全に、答えを、用意しておこう。
「あの鳥は、何て言うの?」
記憶の中の少女が、小首をかしげて、聞いてくる。ライラック色の髪が、想い出の風の中に、柔らかく揺れた。
どれほどの時間が経っても、色鮮やかに、残像は消えない。懐かしい燻りが、心の中に、輪郭を描く。
あの笑顔こそが、刻印となる。
今でも、手を伸ばせば、すぐ近くにいてくれるような気がして、ならない。
思わず、答えを、口に出して、呟きそうになるほどに。
「あの鳥の名は……」
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