<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


カナリアのtone

 食べ物屋や飲み屋は、大抵どんな街にも村にもある。役に立たないごろつきや小悪党もどこにでも居る。だが、劇場や演芸場など、老若男女問わず楽しめる娯楽場は、どこにでもあると言う訳ではない。
 だから、こんな大きな劇場があるこの街は、平和で豊かなのだろうとラティスは思った。
 勿論、ちっぽけな村なら、例え平和でも劇場などは無いが、これぐらい大規模な街でも、娯楽の欠片も無い所はある。そう言う街は、経済的には豊かでも、住人の心に余裕とゆとりが無く、どこか生き腐れのような雰囲気があるものだ。人が多ければ多いだけ、己へと注がれる好奇の視線もいつにも増して多いのだが、それにももう馴れた。そんな視線を跳ね返す、ラティスのキツい瞳の光に慄く人の姿も、また。これまでこうして生きてきたのだし、これからもこのまま生きていくのだろう。それでいいと思っているし、それしかないと思ってもいる。が、時折、胸にぽっかりと穴が開いてしまったように、そしてそこから冷たく乾いた風が吹き抜けるような気がするのは何故だろう。


 劇場内は、表から見るよりも更に大きく広く、丁寧で凝った作りの細工が為され、職人と劇場経営者の拘りと愛情を垣間見る事が出来た。次々に訪れる観客達の表情も、期待と喜びに輝き、そう言う感情には久しいラティスも、釣られてつい薄い笑みを口端に上らせてしまうぐらいだ。尤も、そんな貴重な微笑みも、すぐに彼女へと注がれる視線に打ち砕かれ、いつもの素っ気無い怜悧な容貌に戻ってしまうのだが。
 劇場の端、酒や飲み物を楽しみながら観劇できるテーブル席をひとつ指定し、ラティスはそこにひとりでショーを眺め見る。銀の細長いフルート型の酒器に注がれた、辛味の強い淡麗な白葡萄酒を喉へと流し込み、何の感慨も無く舞台の上に視線を向ける。ショーはどれも洗練されて技術的にも演出的にも申し分なく、払った代価以上のものを与えてくれているだろうが、それでもラティスが、心からそれらを楽しめている訳ではない。彼女に芸術を解する感性が無い訳ではない、素晴らしいものを素晴らしいと思える感覚はあるが、それが彼女の心の奥にまで届かないだけだ。

 ふっと舞台と客席が暗くなり、ラティスは口元に酒器を運んだまま、己の動きを止めた。次なる出し物の準備なのだろうと言う事は分かった、が、周りの常連らしい客達の一際高いざわめきを聞くと、次の演者はこの劇場の目玉であるらしい。多少の好奇心で持って、ラティスは視線を舞台へと向ける。やがて、広い壇上に登場したのは、その広さを持て余す程に華奢で小柄な少女、だが、彼女は絶対的な存在感で持って舞台の広さを圧倒している。待ってましたとばかりに歓声が鳴り響く客席に向かって、舞台の上の少女――ティアラは、ドレスの裾を摘み上げ、優雅にお辞儀をした。
 ティアラが姿勢を正すと、会場内はあっと言う間に、水を打ったように静まり返る。その様子に、ラティスは少しだけ驚いて、視線を周囲に巡らせた。客の誰しもが、一音たりとも聞き逃すまいとでも言うかのよう、意識を舞台上のティアラへと集中させている。そんな客席をぐるりと一望し、ティアラはにっこりと微笑む。すっと大きく息を吐き出すと、第一声を高らかに奏で始めた。
 歌声だけではなく、ちゃんと楽器の伴奏もあるのだが、それらはあくまで伴奏、ティアラの歌を更に引き立たせる為の添え物だった。ティアラの声は、そう特別に大きい訳ではなく、張り上げている訳でもないのだが、劇場内の隅々まで行き渡り、響いていく。それは建物の内部だけに留まらず、そこに居る人々の心ひとつひとつにまで染み渡り、響き渡っていく。楽しい歌では、うきうきとした華やいだ気持ちに、悲しい歌では、まるで我が身を引き裂かれるかのような切ない気持ちに。それはラティスも例外ではなく、他の観客のように感じたままに表情を変えたりする事はなかったが、いつになくじっと歌声に聞き入り、心に響くその感覚をじっくりと味わった。どうしてこの少女の声に、こんなに興味を惹かれるのか、それはラティス本人にも分からなかった。が、よく伸びるその声を聞いていると、昔の自分を思い出しそうになり、我知らず下唇を噛んで僅かに俯くのであった。

 やがてティアラの歌は余韻を残して終わりを告げる。場内割れんばかりの喝采と拍手の嵐の中、再びティアラはスカートの裾を摘み上げ、観客に向かってお辞儀をする。手を振り笑顔を振りまきながらティアラがステージを降りようとした時、舞台横のテーブル席にひとり座る、ラティスと目があった。ラティスがこの辺りでは珍しい、エルフである事も、目を惹かれた理由の一つだったろうが、それ以上に何か、声も無く呼ぶラティスの声が聞こえたような気がしたからだ。ティアラは微笑み、軽く会釈をする。が、それに対するラティスの反応はと言えば、何も見なかったかのよう、すっと視線を外して席を立ち、そのままティアラの方は見向きもしないで劇場を出て行ってしまったのだ。取り残された感のあるティアラは、その後ろ姿が消えてしまっても、暫くそっちの方向をじっと見詰めていた。

 その夜、場末の安宿の薄っぺらいベッドの中、ラティスは眠りもしないで目を開き、暗闇の中、雨漏りの染みのある天井を見詰めていた。
 今まで、どんなに素晴らしい芸術、或いは美しい自然、素晴らしい言葉など、人の心を動かすと言われているものを目の当たりにしても、心が震えるなどと言う事はただの一度も無かった。いや、正確に言えば、昔はあったのだ。だが、ある時を境に、ラティスの心の一部分は凍り付いてしまった。その氷は未だ融ける事は無い。それなのに、どうしてさっきの劇場で、あの少女の歌に自分の感性は揺り動かされたのだろう。何がどのように感じたのかは分からない、それは、ラティスにとって初めての体験だから分からないのか、それとも余りに久し過ぎて忘れてしまっているのか、それさえも、判断が付かなかったのだ。
 それを確かめたいような気がする、だが、それを知ってしまっては、取り返しの付かない事になりそうな気もする。僅かとは言え、怯えにも似た感情を抱いてしまい、少なからずラティスは驚く。その事実や現実、過去から自分を遠ざけるよう、その青い瞳をそっと閉じた。


 それから幾日か過ぎ。劇場の休演日でもある今日、ティアラは繁華街へとひとりで買い物に出掛けた。ひらりとスカートのフリルを翻し、腕に抱えた荷物を抱え直す。ふと、その視線の先に背の高いすらりとした女性の姿が目に入った。格好を見れば、剣こそ身に着けてはいないが、傭兵か何かのようだ。その女性が、先日、劇場内で目を合わせた女性だと気付くと、何の衒いも無くティアラは歩み寄り、微笑み掛けた。
 「こんにちは!今日はいい天気ですね!」
 「………」
 不意に話し掛けられ、ラティスは一瞬戸惑うも、少女がこの間の歌姫である事はすぐに思い出した。が、何故彼女が自分に話し掛けてくるのか、その理由が分からない。ティアラにしてみれば、誰かに笑み掛けるのに特別な理由など要らない、と言った所だろうが、人との交わりを拒否され、拒否し続けてきたラティスにとっては、その言動は理解不能だったのである。
 「この間はありがとうございました。楽しめました?」
 「ああ、…まぁそれなりに」
 そんな素っ気無い返事でも、ティアラは嬉しそうに顔を綻ばせ、安心したような息を吐く。
 「良かったー!やっぱり、観に来てくださったお客様には皆に楽しんで貰いたいもの。旅のお方かしら?初めてよね、ウチの劇場に来てくださるのは」
 「……ウチ、の…?」
 疑問形のその言葉に、ティアラはラティスの顔を見上げてこくんと頷く。
 「そう、ウチの。劇場の経営者、パパとママなの」
 「………」
 そうか、この少女の天真爛漫さは、裕福な家庭で何の苦労も無く育った故か。そう、ラティスは何の感慨も無く思う。それでティアラに対して何らかの敵愾心や嫉妬心が浮かぶ訳ではない。ただ、世の中の、努力や気持ちではどうにもならない、摂理のようなものに、ああ、やっぱりかと頷いただけだ。ラティスはすっと視線を逸らしてティアラの横を通り過ぎ、歩き出そうとする。その肩先を追い掛け、隣に並んで早足で歩き、ティアラが瞳を揺らしながらラティスの横顔を見詰めた。
 「あ、あの…何か気に触るような事、言っちゃった?だったら謝…」
 「自分が何もしていないと思うなら、謝る必要など無いだろう」
 ティアラの言葉を途中で遮って、ラティスが淡々と言葉を返す。
 「で、でも…」
 「構うな。私に係わっても何もいい事は無いぞ」
 そう言い放つと、あとは全てを拒否するよう、ラティスは歩調を速めてティアラを置き去りにしようとする。思わずその様子に立ち止まったティアラは、そんな自分を省みようともしない、遠ざかっていくラティスの背中をじっと見詰めた。
 その時ティアラは、何ともいえない寂しさを感じていたのだ。それは、自分自身が寂しい訳ではない、捨てられて雨に打たれる可哀想な子猫や、踏み拉かれて折れてしまった道端の花を見た時に感じるような寂しさだった。その思いを、同情と言ってしまえば簡単だが、それよりももっと、自分の心も締め付けられるように苦しい気持ちがする。自分自身の事ならば、何とか自分で乗り越えていこうと思うが、他人の気持ちにはこちらからは何も手出しが出来ない分、余計に切ない気がする。ラティスの態度や表情は、決して強がっていたり虚勢を張っているようなものではない。普通の人が見れば、ただの冷淡で余所余所しい奴だと思うだけの事だ。だが、ティアラには、その平素な仮面の奥底に潜む、もしかしたらラティス本人でさえ気付いていない、寂しさの種が見えるような気がしたのだ。何とかしてあげたい、そう思うティアラの気持ちは、旋律となって唇から零れ出た。

 不意に背後から歌声が響いてきたので、ぎょっとしてラティスは歩みを止め、振り返って少女の方を見た。その場で立ち尽くし、歌姫の言葉に聞き入る。それは、どこかの異国の歌であるようだ。あらゆる諸国を巡ってきたラティスには聞き覚えがあったが、その言語までは覚えてないので、歌の内容までは分からない。だが、その声はあの夜と同じく、ラティスの心に染み渡り、心のどこか、何かを揺さぶろうとする。己の精神の見えない部分、見ないようにしていた部分を暴かれるような感じもするが、それは決して厭な感覚ではない。ティアラの歌声により、次第に落ち着いていく自分の気持ちを感じて初めて、ラティスは自分が苛立ちを感じていた事に気付いたのだった。
 ラティスが何に苛立ちを感じていたのかは分からない。裕福で大勢の人々に愛されているティアラの無垢さに苛立ったのか、それとも彼女の類い稀なる才能に嫉妬したのか。或いは、無邪気なティアラに、素直に応対できない自分自身が歯痒かったのか。それは分からないが、ともあれ、綺麗に澄んでいく自分の心を感じ、ラティスは極々薄い、淡い微笑をその唇の端に昇らせた。


 「……えと、あの…」
 歌い終えたティアラは、先程までの溢れんばかりのカリスマ性もどこへやら、普通の可愛い女の子に戻って、ラティスの顔を見上げてくる。そんなティアラの表情をじっと見詰め、ラティスが僅かに表情を緩めた。
 「ティアラ・リリス」
 ラティスが、劇場の看板で見た、ティアラのフルネームを呼ぶ。その言葉の響きを噛み締めるよう、ゆっくりはっきりとした発音で。
 「はい?」
 「また聴かせてくれ。劇場に、聴きに行く」
 それだけ言うと、ラティスは踵を返して再び歩き出す。素っ気無さはさっきとそんなに変わらないのに、その背中を引き止めたくならなかったのは、ラティスの銀色の毛先が、どこか楽しげに揺れていたから、かもしれない。