<東京怪談ノベル(シングル)>
世界は狭く、ただ一つの温もりのなかに
幼い頃の記憶。
それは琉雨の心の奥底にひっそりと腰を落ち着けて、十八になった今も時折ふと顔を覗かせる。まるで昨日のことのように鮮やかに、けれどふと手を伸ばすとぼんやりと消えてしまうような曖昧な記憶が心の奥底でひっそりと息づいているのだ。淋しさと温かさとが混在するそれは不思議なほどに明瞭に年月を刻み続けている。一つ年を重ねるごとに遠ざかり、懐かしさが増していく。
時々それがひどく淋しいことのように思えることがあったが、今帰る場所をくれた養父のことを思うとそれもまた温かな記憶に変わっていくような気がした。
帰る場所を奪われそうになった齢一桁の時分。まだ世界がどんなものであるかを理解する以前に、琉雨は事情を説明されることもなく物のように売られていくところだった。両親の記憶が曖昧なのはそのせいだろう。銀の髪に黒の双眸。白く滑らかな肌を引き立てるそれらを、妓楼の主はひどく褒めてくれたのを覚えている。妓楼という所がどんな場所であるのかもわからなかった頃のことだ。あの頃の自分はまだ琉雨という名前ではなかった。どんな名前で呼ばれていたのかもわからず、名前があったのかも覚えていない。ただ売られていくということも理解できない幼い少女だったということだけを覚えている。
―――人買いが来るよ。
雨音の隙間を縫うように響いた声が誰のものであったのか。
それは今もわからない。
けれど確かに誰かが幼い頃の自分に囁きかけた。
―――人買いが来るよ。
人買いがなんであるかもわからない自分はただ静かにそれを聞いていた。自分の容貌を褒めてくれた人の所へ行くのだと云われた時は、とても嬉しかったようにも思う。しかし何もかも無知であったから故に生まれた感情であったのだということが今ならわかる。
十八の琉雨は人買いがなんであるかも、妓楼という場所がどんな場所であるのかもわかっている。
それを教えてくれたのは誰でもない養父である。
今日もあの日のように雨。夜の闇のなかにひっそりと雨音だけが響いている。深く寝椅子に躰を預けて、書物に向かう養父は琉雨のほうを見ようともしない。平素と変わらず怠惰な雰囲気をまとって、書物のなかに広がる知識の海を静かに漂っているようだった。腿の上に広げた書物の上に視線を落として琉雨は思う。
知識は世界を知ること。
それは決して難しいことではない。
まだ八つを数えるか数えない頃の自分にそう云ったのは両親ではなく養父だった。どこか眠たげな口調で、云い含めるでもなく他愛も無いことを告げるようにそう云ったのだ。だから学ぶということがなんでもないことなのだということをすんなりと受け止めることができたのだろう。それに学ぶことが心地良いものだということは、養父の姿を見ていればそれはすぐにわかった。学者である養父は知識の海のなかを心地良く漂う術を知っているようだった。書物に向かい、ペンを手にしている時の養父ほど真剣な顔をして、心地良さそうにしている養父はいない。
窓際に寄せた椅子の上から寝椅子に躰を預ける養父に視線を向けて、琉雨はひっそりと微笑む。
こんな幸福が訪れるとは思ってもみなかった。自分の容貌を褒めてくれた人のところへ連れて行ってくれるという人の手はひどく冷たく、どうしてこんな人に両親が自分を預けるのだろうかと恐怖を覚えた幼い自分はこれから終わりのない不幸の道を歩くことになるのだということにはたと気付いた。幼心にも危険を察知するだけの力があったことに両親は気付いていなかったのだろうか。
最後に泣き叫んだのはあの時だったと琉雨は思う。
雨のなか、泣き叫びながら人買いに手を引かれて行く琉雨を引き止めてくれたのは両親ではなかった。彼らはまるで負い目を感じているかのような気配でそそくさと姿を消し、雨に濡れる暗い道に琉雨を弾き出して去った。助けてくれる人などいないとどこかで諦めながらも泣き叫ぶことをやめられなかったのは純粋に恐怖を感じたからだった。
妓楼という場所に容貌を褒めてくれる人がいるのだとしても、そこにはそれ以上の恐怖があるような気がした。だから喉が張り裂けるかのような大声で泣き叫び続けた。
怖かった。
どこへも行きたくなかった。
ここでもないどこかへ行かなければならないとしても、妓楼と呼ばれるそこにだけは行きたくなかった。
それなのに近所の人々は誰一人としてそのドアを開けて琉雨を救おうとしてはくれなかった。残酷なネグレクトだけが総てで、前日にいい子だと云って笑ってくれた隣のおばさんも、美人だと褒めてくれることが常だった斜向かいのおじさんも固くドアを閉ざしていた。声が聞こえていなかったわけでもなかっただろうに、誰一人としてそのドアを開けてくれる人はいなかったのだ。
あの時、泣き叫ぶ琉雨の声を唯一聴き止めてくれたのが養父だけだ。顔も知らない人だった。紙袋に詰め込んだ多くの書物を抱えて、古びた傘をさして、人買いを呼び止めた声を今でも鮮やかに覚えている。
―――その子をどうするつもりなんだ?
その一言だけが鮮明で、どんなやり取りで人買いから琉雨を救ってくれたのかは定かではない。
けれどその時から養父の娘になり、いつの間にかしっくりと馴染んでしまった琉雨という名前を与えられた。
あの日から泣き叫ぶことも怒鳴りつけることも、声を上げて笑うことをやめた。感情を露にすることは、他人の手に渡る時だけなのだと思ったからだ。きっと今ここで声をあげて笑えば、泣き叫べば、きっと養父ではない別の誰かが手を引くだろう。それは琉雨の望みとは反することだった。
今は養父だけがいればいい。
そう思うから学校に通うことも簡単にやめることができたのだ。根底には瞳の色が影響していたとしても、琉雨の本心は学校に通うことを望んではいなかった。養父が学校に通わせようとしたのは、普通の子どもと同じように育てようとした意図があったということを十分に理解していても、学校という場に馴染めなかったということや明らかな疎外感があの場にとどまることを琉雨に拒絶させた。
そして矢張りそれを一番に理解してくれたのは養父だった。
―――琉雨。おまえがそれを望むのならそれを一番に優先しよう。
いつもと変わらぬどこか眠たげな口調だったが、琉雨の真意を汲み取ってくれている言葉だということだけはわかった。まっすぐに自分の存在を見つめてくれる温かな双眸がそれを物語っていてくれた。
養父の瞳のなかにはいつも本当の自分がいる。
琉雨はそれを感じる度に、淡く唇がほころぶのを自覚する。
学校に通うことをやめ、人との関わりを絶ち、養父を師とし、養父だけが世界になった。
その幸福は言葉にはできないものだ。温かく包み込まれるような無言のベール。それはいつも傍にあり、琉雨を抱き締めるように包み、奪われる気配も断ち切られる気配などどこにもない。
今夜のような雨の日も変わらない。八つを数えるか数えないかの頃に感じたあの恐怖はこの夜のなかにはなく、雨の音ののなかに人買いの存在を知らせる声も響かない。ただ安らかな空気が室内を満たして、養父が書物のページを捲る微かな音だけが琉雨の鼓膜をやさしく撫ぜる。
たとえどんなに日々養父が投げやりな態度で琉雨に接しても、その態度の端々に宿る微かなやさしさを感じずにはいられない幸福。ひっそりと日々のなかに腰を落ち着けたそれは意識する必要もないくらいに、琉雨の肌に馴染んでいる。皮膚が、鼓膜が、網膜が総てを受け止め、抱き締める術を知っている。
それを言葉にすることは容易い。
けれど素直に言葉にはできない。
過去がそれを許さない。
過去がそれに恐怖を与える。
感情を露にしたら総てが終わると、どこかで予感している。
世界が養父だけになった日が始まった時、養父を師匠と呼ぶ日々が続けば続く度にその恐怖は肥大する。
だから琉雨は感情を抑圧する。強い感情を押さえつけ、暴れ出さないように制御する。
この日々を守るためなら容易い。
微かに感じることのできる養父のやさしさだけを享受し続ける日々を続けていくための努力だと思えばなんでもないことだ。
二人だけの世界に強い感情は必要とされない。
ささやかな諍いで壊れてしまうものがあるとしたら、それはきっとこの日々だと琉雨は思う。
少しでも大きな声で笑ったら、少しでも大きな声で怒鳴ったら、少しでも大きな声で泣いてしまったら。
そう思うだけで喪失の恐怖が押し寄せてくる。
人買いの手の冷たさを思い出す度に背筋を冷たいものが滑り落ちていく。もうあんな手に触れられたくはない。温かな養父の手だけを、それだけを感じていたいと思う。
「師匠」
云ってそっと書物を閉じて小脇に抱え、寝椅子の養父に歩み寄る。
紙面から上げられる視線。
それはやさしく琉雨の存在を受け止める。
「……これからもずっとここに置いて下さいね」
双眸に映る自分の姿が、何よりも明確な現実だと思った。
小さな二つの球体のなかにだけは自分だけの本当の世界がある。
思うと同時に不意に抱き寄せられた。
冷えた肩を温めるように柔らかく抱き寄せてくれる手はやさしく、背に触れる腕は温かく、肩口に感じることができる養父の顎の重みが総てだった。
幼いあの日。
雨の夜に抱き締めてくれた腕と同じだと思う。
―――おまえの名前は琉雨だ。今日から私の娘になるんだよ。
哀しみと痛みに引き裂かれた心を癒すように響いた言葉が今も耳の奥底で響いている。
忘れられない強さで響き続けている。
淋しさなど微塵も無い生活。養父の傍で知識に触れ、世界を知り、学び続ける日々に苦痛はない。
人買いの手の冷たさなど簡単に忘れることができる。妓楼に売られていく自分を見ないふりで誤魔化した人々の視線の冷たさも、両親が感じていたであろう負い目も何もかも忘れることができる。
今はただここでひっそりと二人だけで生きていたいと思う。
それだけが幸福だと思う。
降り続く雨が世界をいつもより少しだけ、狭くした気がした。
そこにはいつもより少しだけ濃密な幸福だけが満ちていた。
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