<東京怪談ノベル(シングル)>


告死天使

 その女に出会ったのは、雨の日だった。
 梅雨ではない。夏でもない。真冬だった。
 凍えるほどに寒い風が、唸るように吹き荒れているのに、天の高いところから落ちてくる無遠慮な水礫は、止まるところを知らず、痛みすら伴って、佇むセフィラスの全身を、相も変わらず、容赦なく叩きつけてくる。
 
「命を……もらうわ」

 女が、言った。
 陰気な女だ。それが、セフィラスの第一印象だった。表情がない。生気がない。顔立ちは整っているのに、生きている若い女特有の輝きが、まるで無い。
 死体が歩き回っているような、そんな気配が、全身から漂ってくる。硝子玉にも似た青い瞳が、じっと、青年の背にあるはずの白い翼を、探していた。
 
「翅輝人……。まだ、生き残りが、いたとはね」

 本人すら忘れかけていた種族名を口にされ、びくりと、セフィラスの肩が、揺れた。
 ほんの微かな動揺を、女は、見逃しはしない。畳みかけるように、言葉を紡いだ。

「その翼を、欲しがる奴が、いるのよ。万金にも値する、とね」
「翼を……?」
「生きたあんたの背にあるからこそ、翼は翼の価値を持つのに……それがわからない阿呆者が、この世界には、多いのね」

 女が、剣を、抜いた。
 既に血を吸ったような緋色の刀身が、雨の帳の中にも色鮮やかだった。女が、すっと前に進み出る。流れるような動きだった。淀みが無く、大気そのものに溶け込んで、あらゆる気配を絶ってしまう。
 狙いは、無慈悲なほどに正確だった。咄嗟に帯剣を鞘ごと盾にしていなければ、間違いなく、喉を切り裂かれていたほどだ。

「さすが。良い反応をしているわね……」

 感情など、何処かに置き忘れてきたかに見えた、女の顔に、ふわりと微笑が広がった。
 死んだ魚の目にも似た、濁った双眸が、生き生きと光を取り戻す。緋色の刃が翻るたびに、影が、存在の濃さを増してゆく。戦いの合間だけ、女は、何かを感じることが出来るようだった。それが、狂気なのか、恐怖なのかは、わからない。
 ただ、思い出す。自らが、人であること。人形ではないこと。傀儡のこの体に、どれほど歪んでいようとも、確かな意思が、芽生え始める。

 あたしは…………。
 あたしは…………?

 凄まじい衝撃が、全身を襲った。
 咄嗟に両腕を交差させ、体を低く身構えて、頭部は守ったが、骨が砕けたような激痛が、一気に視界を暗転させる。
 まともに背中から突っ込んだ古い廃墟の壁が、音を立てて崩れた。両脚を踏ん張って、倒れかかる自らを支えたが、膝の震えを、どうにも止めようがなかった。
 頭上に、ばさりと、風を打ち震わせる、翼の気配。
 はっとして見上げた女の、視界いっぱいに広がったのは…………眩く光を放つ…………天界の景。

「告死天使……」

 それを望む者に、死を与えるという、天の御使い。
 あり得ないとは知っているのに、女は、しばし、終焉の夢を見る。
 世界は、いつだって、残酷で、冷淡で、優しかったことなど、一度だって無かった。過去はただの過ぎてきた道のりであり、想い出という言葉の意味さえも、もう、とっくの昔に、忘れ去ってしまっていた。
 
 だからこそ…………目の前に降りた、死の天使に、望みを、託さずにはいられなかった。

「殺してくれるの。あたしを」
「殺して欲しいのか?」
「終わらせる力が、あるの。あんたに」
「あったとしても…………それを、叶えてやる義理はないな」

 追ってこい。
 天使が、笑った。
 表情の無い暗殺者の女の顔に、束の間の、戸惑いが広がる。

「追ってこい。終わらせて欲しいのなら」
「今、ここで、あたしを殺さないと、いつかは、あたしが、あんたを殺すよ」
「生き続けるのには、少々、飽きた。体は年をとらなくとも、心は、錆び付いてゆくものだからな」
「見逃すの。お優しい天使様。それこそが、命取りだよ。次は、あんた自身に、死を告げることになる」
「お前が、俺を殺すことが出来たなら…………せめてもの手向けだ。一緒に、冥府へと連れて行ってやろう……」

 運命?
 宿命?

 出会った時から、決まっていた。
 対極線にありながら、ねじれの位置に見えながら、少し首を傾けて振り返るだけで、触れ合うほどに、ごく近くに、互いの存在を感じられる。

 殺すか。殺されるか。
 壊すか。壊されるか。
 奪うか。奪われるか。

 全てが、表裏一体。闇の中に張り巡らされた綱渡りの綱のように、先が見えない。

「忘れるな。絶対に、殺してやる!」
「出来るものならな」
「一生…………一生だ。忘れるな。あんたを殺すのは、この、あたしだ!」
「楽しみにしていよう……」

 降りしきる雨の中で、人知れず交わされた、約束。
 二人以外に、知る者も、いない。
 
「必ず殺してやる!」

 これは、憎悪?
 あるいは、執着?

 血の瘴気にまみれていても、今の彼女は、人間らしいと、そう思った。
 明日への不安も、希望がないことの寂寥も、純粋な怒りが、それを遙かに凌駕する。
 忘れるな。
 叫んで消えた、彼女の後ろ姿に、何かが始まりそうな、何かが変わりそうな、予感を覚える。
 
「馬鹿馬鹿しい……」

 ああ……そう言えば、名を、聞いていなかった。
 ただ一人の「宿敵」なのに。
 
「まぁ……」

 何度でも出会う。
 この世界で、ただ一人の「敵」だから。
 そして、何度でも殺し合う。
 どちらかが、どちらかの命を、喰い潰す…………その日まで。



「追ってこい……待っているぞ……」
「忘れるな……いつか、必ず……」