<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


失われる夜と残された一枚の絵画

【T】

 明かりは淡く、心地良い薄闇に満たされた酒場のカウンターで倉梯葵はヴェルダと肩を並べていた。歌姫が細い声で一つ一つの言葉を噛み締めるようにしながら哀しげな唄を紡いでいる。ふわりとした白い毛で躰を包み込んだ子猫のウォッカがグラスを満たす琥珀色の液体を舐めるのを手伝うようにグラスに手を添えて 葵はぽつりと云う。
「異国の歌だ……」
 その声に反応したのかウォッカが葵のほうへと顔を向けて、小さく頸を傾げるような仕草をする。
「今はもうない国の歌だよ。歌だけが遺されてしまったんだね」
「音楽は人の耳に残るからだろう」
 グラスの縁をなぞりながら云ったヴェルダに葵は答える。
 酒場は落ち着いた空気で満たされ、誰もが静寂に耳を傾けるようにしてグラスを手にしている。短い会話が所々から響いてくるが、それよりも大きく響くのは歌姫の声だけである。
 誰もが感傷的になる夜。
 そんな夜もあってもいいのかもしれない。思いながら葵はグラスを満たす琥珀色の液体を口に含む。奪われていくグラスを追いかけるようにしてウォッカが恨めしそうに葵を見上げて、媚びるように小さな声で鳴いた。
「人はどうして失われるものに美しさを与えるんだろうね。この歌も、絵や文章もそうだ。残され、保存されていくのは美しいものばかりだ」
 不意に云うヴェルダの声に感傷的な気配を感じて、ヴェルダもまたこの夜の空気に影響されてしまった一人なのだろいうことに気付く。主がもうアルコールをくれないことを覚ったのか、ウォッカが頬杖をついたヴェルダの腕にしなやかに躰を摺り寄せる。ヴェルダはそれを微笑で受け止め、そっと手にしていたワイングラスをウォッカの鼻先で傾けた。小さな舌が味わうように暗紅色の液体を舐め取る。それを微笑と共に眺めながら、遠い過去の記憶を探るようにして目を細める。
 葵はいつになく過去を懐かしむヴェルダの気配に、蒐集したサンプルをカウンターの上でチェックしながら言葉が紡ぎ出されるのを待つ。敢えて聞く体勢を取ると、辺りに響く他の音が遠く隔てられるような気がした。
「彼がもし五体満足な躰であったら私と出逢うことなんてなかったんだろうね。彼は彼であったからあの絵を描くことができたんだ」
 一歩、遠い過去の水面に爪先を落とすような声だった。
 ウォッカがその声に小さな声を発する。その喉元を指先で擽るようにしながら、偶然だったよ、とヴェルダは呟く。
「姐さんの連れ合いだったという奴のことか?」
 ヴェルダは葵の言葉に言葉で答えることはなく、暗紅心色の液体に満足したのか地良さそうに顎を挙げるウォッカの喉元をグラスを離した指先で擽り続けながら遠い過去を引き寄せるように言葉を紡いだ。
 それは遠い昔に喪われてしまった異国の音楽によく似た声が紡ぐ、ヴェルダにしてみれば過去の一端にすぎない物語だった。

【U】

 記録者としての自分の立場をわきまえているヴェルダが、一定の場所にとどまることが稀であることを葵は十分に理解していた。その細身の躰のどこにそれほど多くの記憶をとどめておくことができるのかと思うくらいに、膨大な過去と共にヴェルダは現在を生きている。現在を生きれば生きるだけ、多くの過去が忘れ去られることもなくヴェルダの記憶の中に記録されていくのだ。生涯を知識や記憶の蒐集に捧げられた生涯。それを記録し、保管することに長けた記憶力。しかし記憶するということに優れたヴェルダの能力は、それと引き換えるように忘却というものを奪い去った。
 だからヴェルダの紡ぐ過去の言葉たちはいつも鮮やかだ。僅かな翳りもなく、欠損したところを主観によって補われることもない。色褪せることもない記憶が、まるで今すぐ目の前で起こったことのようにして語られるのである。
「最初は興味本位だったんだよ」
 ウォッカの喉元を擽る指とは逆の手の指で唇をなぞってヴェルダは云う。
「不思議な絵を描く人間だと思った。それだけのことで、特別なことなんて何もなかった」
 けれどヴェルダはその男の生涯を見届けたのだと云った。
 記録者として一定の場所にとどまることが稀であるヴェルダにしてみれば、興味本位と呼ぶにしてはそれはあまりに特別な行為だった。一人の人間の、その短すぎる生涯を見届けるなどということが記録者として世界を生きるヴェルダの生涯においてどれだけの価値があるのか葵にはわからない。世界の歴史と一人の人間の生涯を秤にかければ、どちらに傾くかは一目瞭然だった。
「私がどうしてそんなことをしたのかわからないだろう?葵は知らなくてもいいことだよ。ただ云えることは、特別なことなんて何もなかった。それだけだよ」
 云ってヴェルダはその絵を目蓋の裏に鮮明に思い出そうとするかのように目を閉じた。
 長い睫毛が白い肌に影を刻む。
 淡い色彩で画用紙を彩ることのできる繊細な筆遣いを知っている絵描きだったと云う。彼の手にかかればどんな醜い現実も、その内に潜む美しさを際立たせて白い画用紙の上に描き出されたのだそうだ。滑らかな曲線を完璧なフォルムで描き出し、鋭利な刃物の先端にさえも僅かなやさしさを漂わせることができた。その絵にヴェルダは世界の美しさを知ったのだと云う。混沌とした過去が記録され、それを忘却することなく記憶し続けていなければならなという息苦しさから逃れられる術を見つけたような心地がしたのだそうだ。今、それを失ったら永遠に過去になる。そう思った途端、絵描きの生涯を記録しておかなければならないと思ったのだとヴェルダはそっと目蓋を開き、微笑みと共に云った。
「柄にも無いことだけど、救われたかったのかもしれない……。今だから云えることだけどね」
 ヴェルダの言葉に葵は、サンプルをチェックしていた手を止めた。
 救われたかった。
 そんな言葉をヴェルダの口から聞くとは思わなかったからだ。
 過去の重みに押し潰されることもなく自らの職務をまっとうしようとしているかのようなヴェルダが、救いといったような曖昧なものに縋ったことがあるとは考えてもみなかった。
 過去の重みを全身で受け止めて、その職務をまっとうしようとしているようにしか見えないヴェルダ。
 一つ一つを丁寧に記録し続けるヴェルダにとっての過去はあやまちや後悔といった生々しいもので満たされたものではなく、もっと無機質な、完璧にプログラミングされた機械のように淡白なものなのだと思っていた葵にとって、ヴェルダの唇から漏れた救いという言葉はそれまでの意味を失わせるほどに明瞭な音として響いた。
 唇は止まることを忘れてしまったかのように、いつになく滑らかに言葉を紡ぎ出す。
 葵の耳には歌姫の唄声どころか、店内に満ちるヴェルダの声以外の総ての音が聞こえなくなっていた。聴覚はただヴェルダの言葉にだけ収束し、それだけのために開かれる器官になる。
「美しい絵を描く人だったよ、本当に……」
 淡々とした口調でありながら、その端々には懐かしさが香る。
 絵描きを語る口調。
 それはいつになく甘く、いつになくやさしさに満ちたものだった。
 記録を読み上げるようでありながらも、やさしい温かさが感じられる。絵描きの右半身が幼い頃の事故で焼け爛れ、右下半身が不随になっていたということさえも柔らかな言葉に包まれて無粋な想像をさせない温かな強さがあった。
 ただ少しの哀しみも切なさも感じられない。密やかに慈しむようなやさしさだけが総てで、失ってしまった現実は既に遠く葬りさられてしまっているようだった。
「全然しんみりしないんだな」
 グラスを傾け、そのなかで軽やかに鳴る氷を眺めて葵が云うと、ヴェルダはウォッカの喉元から指を離してワイングラスの縁をそっとなぞる。もう片方の手で小さな顔を支えるように頬杖をついて、ふっと細い息を吐き出すようにして笑う。
「そういえば笑っていれば幸せだと教えてくれたのも彼だったね」
 ヴェルダの鼓膜は忘れることなく覚えている。
 絵描きが残した言葉の一つ一つを、つい先ほど聞いた言葉のようにして僅かな緩みも、震えも掠れも何もかもを少しの狂いもなく覚えているのである。目を閉じた闇のなかでは、それがよりいっそう鮮明なものになる。絵描きの声だけを過去の引き出しからそっと取り出し、耳を澄ませる。そうして聴く声は、完成された対数螺旋を内側に描く貝殻を耳元に押し付けて聴く音のように直に鼓膜に響いてくる完璧なものだ。
 笑っていればそれだけで幸せなことだ。
 欠けた躰を持つ彼がどうしてそんな温かな言葉を云うことができたのか。
 それはどんなに年月を重ねてもヴェルダは正確には理解できない。けれど絵描きが残した絵や、ヴェルダのなかに蓄積された記憶の端々から立ち昇る気配が彼にしか云うことのできなかった言葉なのだということを教えてくれる。
「その時の私には上手く理解できなかった。でもね、今なら少しだけわかる気がするよ」
 葵はその言葉を不可解な言葉として聞く。
 笑っているだけで幸せになれるのでればどんなに楽であるだろうかと。笑っているだけで幸せになれるのであれば、世界に不幸や後悔といった言葉が生まれることはなかっただろうと思うのだ。世界はそれほど生易しいものではない。元軍人であったからわかる。争いの醜さ。殺しあう現実のリアル。流れる血の冷たさと残酷さを肌で知っているからこそ、葵には絵描きの言葉が理解できない。そしてそれは同時にヴェルダの言葉を理解できないということでもあった。
「姐さん。俺にはあんたの云うことが理解できない」
 葵が云うとヴェルダはそれでいいとでも云うように答えることなく話しを続けた。
 酒場は矢張り静かで、耳を澄ませばそこかしこから過去が柔らかなヴェールに包まれてひっそりと懐かしい想い出だけが人々の口から零れているような気配がした。

【V】

 歌姫は唄う。
 失われた異国の歌を。
 ヴェルダは語る。
 過去にその身を横たえた絵描きの話を。
 葵は聴く。
 今、目の前で紡ぎ出される過去の物語を。
 サンプルのチェックも済み、手持ち無沙汰な両手を組み合わせて顎を乗せる。傍らには程よく酔ったウォッカが寄り添って丸くなっていた。白い毛がふわりと揺れる。
 総てが今、この酒場のそこかしこで過去へ過去へと流されていくのだと葵は思う。そして同時にヴェルダのなかに蓄積されていくのだとも。時間の流れは思いのほか速く、気付いた時にはもう過去になり、未来はすぐ傍に来ている。現在という時間の脆さと弱さ。それが今はいつにも増して強いものとして感じられた。
「彼は最後まで微笑みを絶やさない人だった。思うように満足な絵が描けない時も、古傷が痛む時も、躰が思うようにいかない時でさえ苛立ちや苦痛に顔を歪めるようなことはなかったよ」
 気分転換と称して散歩に出かける。何をするでもなく書物を読む。他愛も無い会話を交わす。そうした日々は鋭さもなければ、怠惰な緩みもないただ温かなものだった。やさしく静かに流れていく時間。そのなかでは過去も未来も、現在さえも意味を失っているようだった。ただここにあればそれだけでいいのだと、すんなりと信じることができた。
 ヴェルダは微笑みを湛えたまま、絵描きの最後の作品を思い出す。
 柔らかな水彩の滲み。透明な色彩。透き通るほど純粋な絵描きの心がまっすぐに溢れる一枚の絵を、目蓋を閉じることをしなくとも脳裏に再現することができる。言葉などいらなかった。ただ一枚の絵が残されただけで良かった。それだけれ長き時間を生きていかれると確信できた。
 あの時ほど、自分に与えられた能力に感謝したことはない。パズルのピースを手探りで求めるようにしか再現できないような微弱な記憶力ではなく、完璧に総てを記憶しておける記憶力を持つことが出来て良かったと思えたのは後にも先にもあの時だけだと思う。
 忘却を許されない。
 覚えていることを強要される。
 けれどそれに苦痛を感じずにいられるのは、一枚の絵が今も明瞭なものとして永遠にヴェルダのなかに刻み込まれているからだ。
 絵描きは最後に一枚の絵を残した。
 それだけで十分だった。
 そこに託された想いだけで、それだけで長き時を生きていかれると思った。
「私は忘れないから寂しいなどと思ったことはないんだよ」
 云って、ヴェルダはグラスを手に取り残っていた暗紅色の液体を飲み干した。
 そしてひどく柔らかな笑顔を刹那見せると図々しくも、葵の奢りで、と云ってカウンターの向こうでひっそりと佇んでいた店員に空になったグラスを差し出した。
「姐さん……」
 嘆息混じりに云った葵の言葉は過去へと消えた。
 酒場を満たす歌姫の唄もまた過去へと消えていく。
 しかしヴェルダは忘れない。
 一枚の絵の、それが描かれた紙の端が僅かに折れていたことそれさえも忘れることなく記憶している。
「お待たせしました」
 丁寧な口調と共に差し出されたグラスを満たす暗紅色の液体に、ヴェルダは絵描きが見ていた自分の瞳の色を見た。
 それは深く慈愛に満ちた、温かな赤だった。
「相変わらずだな」
 呟く葵の声を過去に流して、ウォッカの目覚めの一声をヴェルダは微笑みで受け止めた。