<東京怪談ノベル(シングル)>
源
朝、目を覚ますと、天井からぶら下がる女が、お早うと笑いかけてくる。子供達と白ワニと、温泉ペンギンと四十九人にいつのまにか増えた半透明の精鋭達に囲まれて、簡単な朝食を済ませ、ぬるぬるする天使と一緒に顔を洗う。
池から這い出た亀が、庭で日向ぼっこをしていたり、おっさんの像があちこちを徘徊したり、裏の林に住んでいるエイやカニに似た怪物の霊が、目の前を行ったり来たりするのにも、もう慣れた。
「静かな隠居生活の、『し』の字も無いな」
刀伯・塵は素っ気なく言って、煙管を吹かした。
毎日、顔を合わせていれば、すでに家族も同然……と、言うわけにはいかないものの、存在が定着してくるのは仕方が無い。
だが、この増殖は何が原因で、果たして、いつまで続くのだろう。
「もともと、ここに居た連中は良いとして……増えて行く奴らは、土地が呼んでいるのか? まさか、妙な磁場が発生してるんじゃないだろうな」
そう言った後で、もう一つの嫌な可能性が塵の思考を過ぎった。
増えて行く奴ら──その大半は、塵に因縁のあるものばかりである。温泉ペンギンもおっさんの像も、エイもカニも、土地に呼び寄せられたにしては、偶然過ぎやしないだろうか。
「まさか、俺か?」
いやいやと、塵は恐ろしげに首を振った。
だが、その疑惑を拭い払う事は出来ない。
そっと後ろを振り返れば、ぎょっとするほど間近に、黒と白のずんぐりむっくりが佇んでいた。
まるで、塵に呼び寄せられたかのように。
「……やっぱり俺なのか」
家の、土地のせいであって貰いたいのだが。
「これは、一度確かめておく必要があるな」
塵は愛刀をひっ掴むと、総勢六十人近い面々に向かって言った。
「絶対に付いて……憑いてくるな。良いな?」
「はい、おとう様」
「わかった」
どよどよ。
皆が返事をしたのを見て、塵は満足そうに頷き、くるりと玄関へ向かって回れ右をした。
話を全く聞いていない若干一体に、目眩を覚える。
おっさんの像が、付いてきそうな気配満々で、背中を向けて立ち塞がっていた。
「……」
塵は無言で、像を柱にグルグルと縛り付け、やれやれと手を叩いた。
「よし! 暗くなる前に戻る。皆、留守を頼んだぞ」
これで、身の潔白が証明できれば、土地が悪いと諦めもつく──かもしれない。
塵は、後ろを気にしながら歩きだした。
誰もついてくる気配は無い。
妙な足音も羽音も聞こえないし、突然、変なものが降ってくる様子も無い。
足取りは軽くなってゆく。
「ついでに、買い出しでもして帰るか……」
たった一人の開放感に、すっかり気分が良くなった塵は、アルマ通りへと足を向けた。
活気と人の溢れる路地。左右に並んだ店の軒先では、主と客がやりとりに忙しい。
そんな光景を目にしながら、塵は雑貨屋に足を踏み入れた。
狭い通路の両脇には、生活や旅の必需品が木棚にぎっちりと詰め込まれている。うっすらと埃の積もったものもあり、どこか閑散としていた。主の姿も無い。
とりあえず、塵は目当てのものを探した。
「あった、これだ」
雑多に置かれた商品の中から迷わず手にしたのは、何種類かの薬草を煎じた万能薬である。
サムライになった今も、塵には欠かすことのできない一品だった。そろそろストックが乏しくなっていただけに、これで一安心である。
塵はカウンターの奥に向かって、声をかけた。
「おーい、誰かいないのか?」
返事はない。
再び呼びかけてはみたものの、やはり店内から返ってくるのは沈黙だけだった。
「しょうがないか……」
塵はカウンターの上に代金を置いた。
その瞬間である。
甲板の下から黒い鞭のようなものがシュルリと延びて、たった今、置いたばかりの金を奪って行ったのだ。
「なんだ、あれは!」
塵は叫んだ。
そして、見た。
鞭の先が、ギュッと結ばれた拳になっているのを。
その手が金を握りしめたまま、カウンターの下へと消えた。
「……」
塵は黙り込んだ。
店の主なのだろうか。
それとも、この店に棲みついている『何か』なのだろうか。
(とにかく、代金は払ったんだ。これ以上、関わっているとろくな目に遭いそうにないからな……)
鬱々とした顔で、足早に店を出る。
あの長くて黒い手は、いったい何だったのだろう。
家にいる者達と、勝るとも劣らぬ怪異だ。
「もしかすると、この世界全体がおかしいのかもしれんな。早いところ、食料を買い込んで家に戻ろう」
塵は、軒先に色とりどりの果実が並んでいる、向かいの店へ向かった。
どの実も熟して、甘いにおいを放っている。きっと、子供達も喜ぶだろう。塵は抱えるだけ抱えて、店の奥を覗き込んだ。
「んなっ?」
ボトボトボトッ。
赤や緑が塵の手から転がり落ちる。そこにいる妖しげな物体に、塵は絶句した。
「ウイ。ダァラッシャイ」
壁だ。壁が塵に向かって話しかけてくる。真っ赤な二つの赤い目が、塵に向かってウインクした。荒い鼻息を吐く鼻と、ギザギザの牙だらけの目よりも赤い口が、もごもごと蠢いている。
やがて、それが何かをプッと吐き出した。
コロコロコロ……。
転がったのは、赤い果実である。
プッ。
コロコロコロ……。
今度は緑色だった。
塵が取り落とした果実と混ざり合い、生まれたばかりのものと、軒先に並んでいたものの区別が付かなくなった。
嫌な製造過程を見てしまった。
塵は眉根を寄せて呻き声を漏らし、ヨロヨロと店を出た。
怪異を呼び寄せているのは、やはり自分なのだろうか。磁場が、塵と共に動いているのだろうか。
しくしくと、胃が痛む。
「家に帰るか……」
落ち込んだ分だけ重い足を引きずり、すっかり消沈した面もちで塵は帰途へとついた。
「俺だったとはな……」
溜息も重い。
トボトボと歩くうち、懐かしい我が家が見えてきた。
子供達が手を振っている。
いや、手を振っているにしては、様子がおかしい。早く早くと、手招きしているようだ。
「まさか、『俺が留守でも』何かあったのか!」
言っていて、自分で哀しくなってくる台詞だと思いながら、塵は走った。
「どうしたっ!」
ハアハアと呼吸を乱して辿り着いた塵は、そこに広がる光景にまたもや絶句した。
庭がめくらめっぽうに耕されたような、ひどい荒らされ方をしている。
「だ、誰がこんな真似を……お前達、怪我はないか?」
大丈夫だと頷き娘が指さしたのは、ズリズリと何かが這ったあと。
「良し、俺が行こう」
塵は二人にここへ残るよう命じて、その痕跡を辿った。幅は塵の肩よりも広い。水の張ったタライでも、引きずったのだろうか。ところどころ濡れてもいた。
塵の足は池に向かっている。
「亀か?」
しかし、亀が歩いたにしては、随分と均等な痕の付き方である。四本の足で地面を掻いたようには見えない。ただ、何か平らなものを、ズルズルと移動させたように思えるのだ。
痕は、池の中へ消えている。
塵は鬱蒼とした眼差しで、池の中に浮いている『島』へと目をやった。
「おい」
中央にあったはずなのだが、微妙に右にずれているのは、気のせいだろうか。しかも、丸かった島が楕円形に変わっている。
「つまり……磁場は俺と、この家だって言うのか?」
買ってきたばかりの薬を、塵は水も飲まずに口に含んだ。
その背に降り注ぐ、四十九人の盛大な拍手。
「褒められても、嬉しくないんだが……」
頭痛を抑える為には、もう一含み必要だろうか。
塵は気が遠くなるのを感じた。
終
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