<東京怪談ノベル(シングル)>
闇からの声
【過去】
かつて、信じた人がいた。
かつて、愛した人がいた。
出会って始めて、安心の言葉の意味を、知った。
自分がいかに孤独であり、寂しい存在であるかを、理解した。
長すぎる生の中で、一番、輝いていた、あの頃。
どれほどの時が経っても、決して、忘れることはない。
想い出は、なお、色鮮やかに。
消えて欲しいと願っても、幾度でも、幾度でも、繰り返し、夢を見る。
腕の中で、事切れた、彼。
抱き締めたその体から、命は、容赦なく、流れて出して……やがて、消えた。
「泣くなよ。俺がいなくなっても」
「泣かない……泣かないから! だから、だから……置いて、行かないで……」
祈りは届かず。
この世界に、神はいない。
幸運は……いつも、すぐ傍らを、過ぎ去って……。
【夢】
白くない肌が、どれほどの迫害を、彼女にもたらしてきたことだろう?
闇に生きると決めつけられて、弁解すら、まともに受け入れられた試しが、無かった。
なるほど、邪悪な者は、一族の中にはいるかもしれない。闇に惹かれ、影を愛でる。殺戮に喜びを見出すような、おぞましい存在がいないとは、ラティスも、決して、否定はしない。
だが、それは、全ての種族に当てはまること。
善だけで築き上げられた生き物など、いないのだ。天使さえも、堕ちることがあるのに。
ラティス自身は、自分が、邪悪でも醜悪でもないことを、知っている。
人を、気遣うことを、知っている。
人を、守ることを、知っている。
人を、愛することだって……。
「私に付きまとうな。お前まで、迫害にあうぞ」
何度言っても、きかなかった。あの男は。ただ、にこにこと、いつも微笑んでいた。
「勘違いしているだけさ。ダークエルフは、別に、邪悪でも何でもない。君自身が、そう言っていたじゃないか」
「馬鹿が。世の中の人間が、みんなお前みたいにお気楽とは限らないのだぞ。迷信は、常識よりも時に強い。お前まで、いつかは巻き込まれて、死ぬことになるぞ」
「突っ張りすぎだよ。ラティス。誰が何と言おうと、俺だけは、ちゃんと、わかっているんだから」
「阿呆! 寝言は寝てから言え! 何をわかっていると言うんだ!? お前に私の何がわかる!?」
「寝てから言えかぁ。寝てから言っても聞こえるくらい、俺の近くに居てくれる気は、無いのかな?」
「はぁ!?」
「いや。一応、プロポーズしてんだけど」
「はい!?」
「いや、そんな、驚かなくても……」
驚くな、と言う方が、無理だ。
ラティスは、常に、他人の排除の目に晒されてきた。
側に寄るなと、謂われのない誹謗中傷を受ける日々。中には、今、目の前にいるこの男のように、お気楽極楽な人間もいないわけではなかったが…………大概は、まるで汚物でも目の当たりにしているかのように、露骨な仕草で彼女を避ける。
ダークエルフは、並のエルフよりも、強い存在。力ある者に対する畏怖が、迷信を、より強固なものにした。
近付くな。
不文律の戒めが、彼女を孤独へと追いやる。
誰も愛さない。誰も信じない。
自分の身は、自分で守る。
助けなど……支えの手など、要らない。
何も……要らない。
「でも、俺は、ずっとお前の傍にいたい」
呆れるほどに素直な、その言葉。
突っ張っている自分が、愚かしく思えるほど。
彼はただの人間だった。いずれは、ラティスよりも、確実に先に逝く。若くいられる時間は恐ろしいほどに短く、別離は、避けられない死を持って訪れる。
「俺じゃ駄目かなぁ……?」
彼が、最後の、一人かも知れない。
種族も寿命も越えて、ただ、そこに居てくれる。見返りは求めず、何の期待も要求もない。
「馬鹿が……」
その馬鹿の言葉に、乗ってみようかと考えている自分がいる。
迷って、悩んで、けれど、ラティスは、その差し出された手を、やがて、取った。
小さな光に、賭けてみようと、そう、思った……。
平穏は、長くは続かなかった。
いや、実際は、長かったのかも知れないが……幸せな時間ほど、過ぎ去るのは、速く感じるもの。
切っ掛けは、炎だった。
魔物が吐き出したのか、あるいは、家々の洋燈から漏れ出て引火したのか。
風が強く、火はすぐにも広がった。熱い息吹に混乱する人々に、火を恐れぬ魔物たちが、残忍な牙を剥く。数は決して多くはなかったが、戦い慣れぬ人間たちは、惑い続けてその犠牲を更に大きなものにした。
ラティス一人では、町を救いきれなかっただろう。町人にしてみれば、ダークエルフのラティスも、魔物と同じ穴のむじななのだ。誤認識も良いところだが、世間などそんなものである。
「守らないと……」
彼は、かつて、傭兵か……あるいは騎士だったらしい。第一線を退いたとは思えない、素晴らしい剣の技で、次々と魔物たちを叩きのめしてゆく。混乱する町人たちを纏めてくれたのも、彼だった。
ラティスが戦いやすいように、常に、背中を守ってくれている。気を付けろ、とは、言わない。存分に戦え、と、笑いながら、彼女を送り出してくれた。
後ろは、振り返らなくても良い。俺が居る。
前だけ見ていろ。
俺が、ここに、いる限りは……。
「これで終わりだ!」
最後の魔物を、斬り伏せた時、唐突に、変化は起きた。
驚異になるものが消えた今、傷つけられた人々のささくれ立った心は、無抵抗の犠牲者を見出さずにはおかなかった。口々に言い募る。
「あの女が呼んだんだ! 不吉な黒い肌のエルフが!」
言われ慣れた言葉だ。だが、何故か、腹が立った。
魔物を呼ぶ? この、私が?
馬鹿馬鹿しい。身を守る術も持たぬ愚かしい人間たちに、わざわざ制御出来るかどうかも知れぬ低俗な魔物どもを、けしかけたりなどするものか。
ダークエルフである前に、ラティスは、誇り高い一人の剣士だった。自負がある。自信がある。
馬鹿な真似は、しない。どれほど、目の前にいる人間たちに、詰られようとも……それをした瞬間に、自らが、唾棄すべき腐った輩と同類になる。
「くだらない……」
ラティスは、相手にせず、背を向けた。
くだらない。本当に、その一言に尽きたのだ。
そのくだらない人間が、時に、どれほど不条理な牙を隠し持っているか…………認識の甘さが、取り返しのつかない悲劇を呼んだ。
「ラティス!!」
ひゅ、と、風を切る音。
振り返ったラティスを庇うように、青年が、覆い被さってくる。いきなりのし掛かってきた重みを支えきれず、ラティスはどっと倒れた。抱きかかえた彼の背に、矢が突き立っているのに気付いたのは、次の瞬間のことだった。
「ちぃ! 外した!! ダークエルフでも一瞬で殺せるように、毒の量をわざわざ調整してあったのに!!!」
毒?
ダークエルフでも、殺せる、毒?
彼の体から、もの凄い勢いで、命が抜けて行くのを、ラティスは本能で感じた。
いかに鍛え抜いていても、所詮は、人間。体力には限界があり、不死でもなければ、無敵でもない。
「う……そ」
しっかりしてよ、と、彼に語りかける。
猛毒に身を苛まれつつも、彼は、即死はしなかった。信じられない力で、怒るな、と、ラティスを抑える。大丈夫だから、と、最後まで、笑った。
「嘘」
「怒るな」
「どうして」
「弱いんだ。人間ってのは……どうしようもないほどに」
「お前だって人間だろう!」
「俺は、特別製だから……」
ダークエルフであっても、なくても、関係なかった。
ただ、ラティス・エルシスという存在に、惹かれた。
冷淡を装って、実は激しくて。不器用なくせに、本当は優しくて。突っ慳貪な中に、時々、思い出したように、艶やかな微笑を浮かべる。
その何処か寂しげな影さえも…………ただ、守って、やりたくて。
「嘘……いや」
「ごめん」
「やめ……。謝るな!!」
「ごめん」
「聞かない……そんな言葉!」
「ごめん……」
いつの間に、泣いていたのか。
止めどなく溢れてくる涙を、一生懸命拭ってやっていた彼の手から、急速に力が抜けた。
ゆっくり、ゆっくりと、沈み込むようにして、彼の手が、ラティスの肌を離れる。地面に落ちて、軽く弾んだ。まるで、何かの荷物のように。
再び落ちて、そして、二度と、動かなくなった。首が、微かに、傾いた。
「あ……あ。いや……いやあぁぁぁぁぁ!!!!」
先に逝くことは、知っていた。
彼は、人間。
寿命短き、弱き種族。
けれど、別れは、あまりにも唐突すぎて。
心の準備など、あるはずがなかった……。
【名残】
跳ね起きたそこは、宿の一室だった。
真夜中だ。
恐ろしく静かで、人の気配もない。
ラティスは、着替えもせず、旅人服のまま、ベッドに寝転がっていた。
消し忘れた洋燈の火が、ほんの微かに、名残の揺らめきを、見せていた。
「夢……」
荒く、二度、三度、息を吐き出す。
背中にじっとりと汗を掻いていた。きつく握り固めた拳も、湿気を含んで、気持ち悪い。
「なんて……夢だ……」
彼が亡くなったのは、私のせいだ。
消えることの無い罪悪感に、また、心を蝕まれる。
私が油断したから。私を庇ったから。避けようと思えば、避けられたはずなのだ。私さえ……私さえ、彼に、出会わなかったら。
「う……」
涙すら、出ない。
絶望が深すぎて。
あんな人は、もう、二度とは現れてくれないだろう。最後の最後まで、笑っていた。大丈夫だから、と。人間は、弱い生き物だから、仕方ないのだと……。
「けれど、お前も、人間だった」
憎みきれない。人間を。
愚かしくも、美しくて。脆いのに、強くて。
「教えてくれ……お前が。私に。夢に出てきてくれるなら……せめて」
闇の中に、問いは響く。
けれど、答える声はない。
恐らくは、この先も……永遠に、答えは…………。
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