<東京怪談ノベル(シングル)>


Samael

 ――真夜中。
 『あの日』以来、『それ』はいつもやって来た。枕元に、密やかな気配と冷気とも思える殺気を纏って。
 見えずとも分かる。月影に浮かび上がる6枚の羽根は、きっと、ほんの少しで触れられる距離。
 幾夜も、アレックスは手を伸べようとした。真紅の刃を秘めたその手の平を。
 己の殺意に混じる淡い気持ちが何なのか、分からぬまま……。
 そして、幾度も……虚空を掴んでは目が覚めた。

 今夜もまた――。

 闇の帳に朝陽の気配が近付き、世界は白み始める。天幕の中、身を起こしたアレックスの姿は、影となって薄白の背景を切り抜いていた。
 影は物思うように手の平を見つめ、ひと度握り締めた。やがて、ゆっくりと首を廻らせて天幕を開ける。
 広がる黄砂の海。彼女は今、砂漠を渡る商人とラクダ夫15名からなる商隊の護衛に入っているのだ。それも全て、ただ1人を狩る為の旅。
 『彼』の足跡は、この黄海を前に途絶えていた。
「追われているのだと言っていたよ。だから砂漠を越えるのだとね……」
 聞き込みをした街ではそんな噂が入り、白々しいと、アレックスは顔を歪めて聞いたのだった。
 別方向へ向かう、その為の単純な罠ではない。わざわざ『彼』は言い残したのだ。――そのはずだと、彼女はなぜか確信していた。熱砂を越えて追って来いと、『彼』は口の端に笑みを掃きながら思った事だろう……と。
「命をもらうわ……必ず」
 瞬いた瞳は冬空の青。冷たく凍てついたその奥には、秘められた殺意と戸惑い、そして、何かに飢える心がある。誰も……彼女自身すら知らぬ、心。


 その日の午後。
 いち早く、アレックスは襲撃を予感していた。それに気付いてみせたのは、護衛の1人だった男。
 アレックスを入れて護衛は4人。うち2人は、精々が三下の賊と渡り合える程度の技量だが、彼だけは少し違った。
「来ると思うか?」
 不意に隣りへ並んで問いかけてきた男に、アレックスは無言で頷いた。
 自分の剣技で死線を越えてきた者は、生き残る術を知っている。全ての戦いにただ勝てば良いのではない。それ以前に、予期される危険はどんなに些細でも回避する策を取り、同じ『匂い』を持つ錬度の高い者と組む事だ。
 商隊を護りながら多勢を相手に戦う事は、アレックスの技量でも難度は高い。自分の都合の行きがかりとは言え、仕事として受けたからには失敗するのも業腹だ。
「……組むか? 商隊の護りはあいつ等に任せよう。こっちは斬るのみだ」
 前を行く2人を顎で示し、男はそう言った。
「分かったわ」
 互いに、少なくともこれで、背後の心配はしなくて良い。
「来た!」
 男が商隊に指示を出し、アレックスは緋色の剣を呼ぶ。賊は騎馬で6人。数でもこちらが劣勢だが、やられはしないだろう。
 研ぎ澄まされた刃は、こんなものを斬る為ではない。不快感にアレックスは眉を寄せる。
 『彼』を斬る為だけに、夜な夜な研ぎ備えていた剣。思い出す『あの日』の記憶を、その閃きの中に見ながら……。
 ――蝕まれて行くようだと思った。
 身の内に毒を抱えた彼女の心は、その飢えに侵食されようとしている。飢えの焔に注がれる油は、殺意という名の恍惚。
 賊を薙いでも、飢えは満たされる事は無い。
 人を殺めたいのではない。
 砂漠で水を求めるように、ただ1人を……ただ1つの命を緋剣は欲している。

「ぐ……っ!」
 背後で男の苦鳴が上がり、殺気が動く。
(「やられたの……?」)
 賊の剣を打ち払った刀身を後ろ手に突き刺すと、肉を断つ手ごたえがした。
「すまん」
 短い返しは、たった今救った男のものだ。そのアレックスへ、振り下ろされた凶刃は左腕を掠り、血の飛沫が飛んだ。
「ぎゃ……っ!」
「うあっ」
 血を浴びて悲鳴を上げたのは、目の前の賊ばかりではなかった。恐怖に目を見開いて固まっていた、ラクダ夫の1人にも飛んでしまったのだ。ハッとして、アレックスはマントを左腕に巻きつけたが、遅い。
「ちぃっ 退け、退けぃっ!」
 数で押してもなお、襲撃を成功させられなかった敵は、異変と不意に強くなり始めた熱風を察して退散して行く。しかし……。
「何が起こったんだ?!」
 苦悶するラクダ夫に駆け寄った男に見つめられ、アレックスは返す言葉を捜した。
「あたしの所為よ。血が目に入ったのなら洗ってやって。失明するかもしれないから」
「毒でも入ってるって……?」
「もう……ここからは、一人で行く事にするわ」
 問いには応えず、アレックスは言うと踵を返した。
「待て! 無理だっ 1番近いオアシスまでまだ3日もかかる。俺も傷を負ってる! それに……」
 男の言いたい事は、唸りを上げて吹きぬける熱風が知らせた。――砂嵐だ。
 アレックスはマントを引き寄せた。
(「死んだりしないわ」)
 心の中で、そう呟く。
(「あたしを待つ敵がいる限り……」)
 彼女の足跡は、嵐の中へと消えて行った……。

 喉の渇きなど、心の飢えに比べれば苦でもない。
 たとえ蜃気楼がアレックスの目を欺いても、目指すべき場所は本能が知っている。
 熱砂の海を、彼女はひたすらに旅し続けた。宿敵を追い続ける強靭な意志で。
 夜はトカゲを見つけて狩り、マントに夜露を集めて啜る。それが惨めだとは思わない。生きて『彼』に追いつく為ならば。
 いくつかのオアシスの村と、星の瞬きが彼女を支え、導いた。そして、もう1つ――刃を研ぐ度、思い出される『あの日』の記憶が。

 幾夜を越えた時だろう。
 遠く、彼方に、石造りの街が姿を現した時、アレックスは恍惚の笑みを浮かべて呟いた。
「あそこだわ……」


 ――砂漠の街の夜更け。気温は下がり、静けさが満ちる。月影の清けさの中、この街を支える地下からの湧き水の流れすら聞こえる気がした。
 気配を感じたのは、未明。
 いつも見る、あの夢……。『それ』は夜風と共に、静かにアレックスの枕元を訪う。
(「……夢?」)
 疑問符が、彼女の脳裏を巡る。気配に気付きながら、なぜ自分はこんな事を許しているのか。
(「夢だから……?」)
 ――と、『それ』がアレックスの褐色の頬に触れた。指先が頬をなぞり、顎へと滑り……離れていく。
(「…………夢?」)
 もう1度、心に呟き……数瞬の後、アレックスは素早い身のこなしで寝台から身を起こした。手には緋色の剣を構えて。
 けれど……。
 部屋にあるのは、開け放たれた窓と降り注ぐ月光。そして――。
「……?」
 乱れた掛け布の波に、ふわりと1本の羽根。
「……っ」
 どんな毒も耐えられるよう、アレックスは育てられてきた。身体を巡り、蝕む毒と、彼女は共に生きてきたのだ。
 それなのに。今、自分を苛むものは、どんな毒にも勝ってアレックスを飢えさせ、溺れさせ、恍惚とさせる。身の内に焔を灯し、彼女を焼き尽くすまで蝕み続ける予感がした。
「殺すわ……」
 羽根を握り締め、祈りを捧げるように、アレックスは月を見上げる。
 清かな光は、彼女の冷たい瞳に、微かに揺れ始めたものを照らし出していた……。