<東京怪談ノベル(シングル)>
□ 狭間の夜 □
カゴに放り入れられた修行用の黒のタンクトップとスパッツの上下。
それを先程まで身につけていた少女は、今まさにガラスの扉の向こうへと消えようとしていた。
日に焼けた肌を隠そうともせずに鼻歌混じりで浴室のタイルへと足を踏み入れた時、思い出したようにジュディは顔を上げ、そのまま脱衣所へと取って返す。
「いっけない、せっかくお父さまからもらったのに!!」
半分濡れた手で、脱いだ服の上に置いておいた小さな珠を濡れた手のひらへと乗せる。透明なそれは中に蒼色の炎をゆらゆらと揺らめかせながら、時折ジュディを窺うかのようにちりり、と燃えた。
ジュディは今度はゆっくりと歩きながら改めて浴室へと入り、そして父が娘の為にと作らせた白い石の石鹸入れへと、静かに乗せた。
透けるような白い石と炎の青色が美しく反射するのをしゃがみ込んで眺めながら、ジュディは頬を押さえて嬉しそうにふわりと笑う。
「えへへっ……。きれいだよ、お父さま」
これを土産として手渡した後、再び遠くへ行ってしまった父の後ろ姿を思い、ジュディは呟く。
そうしてしばらくの間少女はじっと球体の中の炎に見惚れていたが、もうもうと上がる湯煙に徐々に身体が冷やされていき、ついには「……っしゅん!!」と可愛らしいくしゃみをした。
「うわ、風邪引いちゃうっ。早く身体洗わなくちゃ!!」
湯煙のせいでぽつぽつと水滴の浮かぶ身体を片手で抱え込むようにしながら、ジュディは慌ててもう一方の手で洗面器を取り、勢いよく身体へと浴びせる。心地良い熱さが冷えかけた裸身が暖められるのを感じ、少女はほうっと息をついた。
石鹸をスポンジにつけて円を描くように身体を撫でれば、純白の泡が面白いように次から次へと溢れてくる。
白いタイルで覆われた清浄な浴室の中、全身を磨き上げたジュディは、再び湯をかぶった。
泡の中から現れたのは、日頃の訓練のせいで綺麗に焼けた肌。少女から次の段階へと進もうとしているしなやかな身体は清廉で、ただ美しいものだった。
「ふう、終わりっ」
ぶるんと一度頭を振り水気を飛ばすと、濡れて視界を塞いでいた金色の髪の毛が舞い上がり、塞がれていた視界が元に戻る。
黒く大きな瞳をぱちぱちと瞬きさせ、明るい浴室の風景に目を慣れさせようとするジュディの何度目かの瞬きで、ふと視界の端に引っかかったものがあった。
それは大きな姿見だった。
ジュディの身長ならば全身を映すのは容易な程の大きさのそれは、今は湯煙でぼんやりと曇り、座る少女の輪郭をおぼろげに映している。
自身の裸体をジュディは黙って見つめていたが、やがて鏡にそっと手を伸ばそうとして、触れるのを恐れるかのように指先を引いた。
「…………………」
やがてジュディは立ち上がり、風呂場の明かりをそっと落とした。蒼い炎を放つ珠を手に捧げ持ち、足先からそうっと湯船へと身体を飲み込ませていく。
その一部始終を姿見は捉えていた。
しかし自分の姿が鏡に映るその度に、ジュディはどこか落ち着きなく視線を逸らす。
彼女は自分の身体が嫌いなわけではなかった。だが、ただ改めてはっきりと見るのが何故か不安だったのだ。
先程までのいっぱいの光に照らされた光景とは打って変わって、炎の明かりだけが弱く輝く中、湯船に肩まで浸かりながらジュディは天井を見上げた。
ガラス張りの丸い天窓の向こうには月が出ている筈だったが、けれど今は雲に隠れているのを見て、自然と肩ががっくりと下がってしまう。
「うーん、今日は駄目なのかな」
こぽこぽ、とついでのように口まで沈んでしまいながら、少女はそっと珠を額に当てて瞳を閉じ、昼間の事を思い返した。
さほど大きくもなく、どちらかと言うと路地裏にあるのが相応しいような店だったが、その筋の冒険者なら誰でも通う店なのだと、物珍しさに辺りを見回していたジュディにそっと父は耳打ちをした。
そして幾ばくかの取引を済ませた父は、娘の手のひらに小さな珠を乗せ、優しく笑った。
『またしばらく帰れそうもないのでね。……これが私の代わりだと思ってくれないか、ジュディ』
『お父さま、これはなに?』
『月のある夜に、その下でかかげてご覧。きっとお前を今よりも素敵にする筈だ』
『それって……』
どういうこと。と続けようとした声は、開かれた窓の向こうから流れてくる旋律によって自然と遮られてしまう。
『ああ、吟遊詩人が来たのだな。ここは広場にも近いからよく聴こえる。行ってみるかい?』
一も二も無く首を縦に降ったジュディは父親に連れられ、広場まで足を運んだ。
広場の片隅、普段ならば誰も見向きもしない石造りの階段。しかし今は大勢の人が足を止め、じっとある一点を見つめている。
朗々と響く女性の歌声は時には高く、時には悲しげにある物語を聴き手たちに伝えていた。
それは恋の歌だった。
親同士によって別れを決められた青年と娘が一度引き裂かれて再びめぐり合うまでの、どこにでもあるような話。だが詩人はそれをあくまで澄んだ声で歌い上げる。
それによって何の変哲も無い恋物語は一つの歌として完成し、人々の胸の底から何かをこみ上げさせる。
ジュディも例外ではなく、聴き終えた時には大粒の涙を流していた。
そんな少女の頭に大きな手のひらを乗せ、父がぽつりと言った言葉がある。
『ジュディ。今はまだお前も幼いが、いつかお前も私の元を離れ愛する人を見つけるだろう。その時には、今のように感極まって泣いてしまう程に心を込めた恋愛をしなさい』
その声は詩人の奏でる弦の音に重なり、ジュディの心の奥深くに溶けていった。
漆黒の瞳が、そっと開かれる。
「…………………あいするひと、かあ」
そうぽつりと呟くと、ジュディは湯船から立ち上がり、真っ直ぐに前を向いて姿見の前に立った。
曇った鏡面を手のひらで拭うと、よりはっきりと自らの裸身がさらされる。その光景に頬を僅かに赤く染めながら、けれど目はそらさずに、じっと鏡の中の自分を見る。
濡れた金色の髪からはいつもより元気さは奪われていたが、その代わり大人びた印象を抱かせる。
発展途上の胸から、引き締まった腰へとどんどんと視線は移動する。毎日の訓練は、強さと共に少女に誰にも誇れる身体のラインを与えた。それはあと少し時が経てば花開きそうな、けれどまだ蕾の華を連想させる。
くるりと半回転すれば、適度な丸みを帯びたお尻が見え、その下には引き締まった太股とふくらはぎ。
小さな身体でも十分に威力を持たせられる体術である蹴りの訓練を欠かさずにいた結果、自然とジュディは動物のようにしなやかな脚をも手に入れていた。
もう一度ジュディがタイルの上を回る。
少女の身体が洗いざらい鏡に映された時、変化は起こった。
「えっ?」
まるでカーテンを引くように雲間から現れたのは、非の打ち所の無い満月。月はその光で、生まれたままの姿をしたありのままの少女を一息に天空から照らす。
丸い天窓から射し込んで来るそれは、まるでジュディだけを照らすものであるかのように、輝きを少女の裸身に降り注がせていた。
しかし、突然の事に呆然と天窓を見上げるジュディを、再び驚愕が襲う。
「あ!!」
珠の中で弱々しく燃え続けていた炎が、月に照らされその色味を変化させていた。
海を思わせる蒼から、情熱を思わせる紅へ。そしてジュディの髪を思わせる黄金から、目にも鮮やかな新緑の色へと、炎はくるくると衣装を変える踊り子の如くその身を変え続け、決して休みはしない。
「さっきよりずっと、ずっときれい……。ありがとう、お父さま……!!」
しばらく目を輝かせて珠の変化を見つめていたジュディは、そういえば、と父の言葉を思い出す。
『きっとお前を今よりも素敵に………』
次々と世界を染める色彩は、まるで一流の職人が手がけた衣装のようにジュディの裸身を彩っていた。
姿見は少女の変化を全て映し出し、また新しい表情をとらえる。
色とりどりの世界にゆっくりと照らされ、少女は自分ではない自分を見た。少女としてではなく、一人の女性として羽ばたきつつある自分。様々な色彩を帯びてなお色褪せない魅力を保ち続ける身体。
それを意識した瞬間、ジュディの胸が甘く疼いた。
しかし小さな胸に生まれた疼きには、まだ伝えるべき相手がいない。
ほう、と溜め息をつき、少女は束の間未来を夢見る。まだ姿も知らない誰かに、胸の奥で湧き上がる気持ちを伝えずにはいられなくなる時を。
「あたしもいつか、そういう人と出会えるのかな。……素敵な男の人に出会って、そして」
『いつかお前も私の元を離れ愛する人を見つけるだろう。その時には』
ほんの少しだけ寂しげな笑みを浮かべて、ジュディは再び天窓をあおいだ。
月明かりをいっぱいに受け、色彩のドレスを身にまとった自分の胸元で両手を重ね合わせながら、少女は少女のものではない女性としての笑みを浮かべ、小さく囁く。
「……出会えたら、いいなあ」
未来への期待と不安を込めた言葉は、身体から流れ落ちた湯と共にぽたりと零れ落ちる。
(出会ってからのその先はまだまだよく分からないし、それにまだあたしの世界にはお父さまだけだから)
(だから今は、思うだけ)
そうしてジュディは再び、湯船に裸身をあずける。
耳を澄ませばまたあの恋物語の旋律が聴こえるような気がして、ジュディは幾つもの柔らかな輝きの中、艶やかに微笑んだ。
(終)
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