<東京怪談ノベル(シングル)>
蝕
我が生きるは、闇。
我が食らうも、闇。
怠惰な自らの時の流れに、暁の鮮烈な光は、要らない。
手が届かぬものは求めず、求めれば得られるものであっても、身を縛る枷ならば……斬る。
光は我を苛む。
光は我を蝕む。
捨て去る何かに、寂寥を、覚えたことは、ない。
彼の手の中は、いつも、空洞だった。記憶の一つ、想い出の一つすらも、そこに、残しておきたいものはない。
未来も要らぬ。生命も要らぬ。己が存在さえも、地上に落ちる影と、全く同質のもの。
見えてはいるが、掴めない。
確かに在るのに、擦り抜ける。
闇が色濃くなればなるほど、溶けて、紛れて……やがて、消えてしまうように……。
「相容れぬ。決して」
守るために、あの男は、この場に居た。
王族などというくだらぬ者を守るために、命を賭けて、佇んでいた。
古びた廃墟の塔の、門。守るは、少ない手勢の雇われ傭兵。
よくある話だ。珍しくもない。
ある国で反乱が起き、年若い王子が落ち延びた。反乱軍は、これを追いかけ、死んでも惜しくはない傭兵を、最前線に送り込んだ。その中に、夜都がいた。
けれど、王子もまた、簡単に命をくれてやるわけにはいかない。王子もまた、軍を募った。守るべき兵を、同じく傭兵に求めた。その中に、彼がいた。
血生臭い気配の中に、そこだけ光を纏ったように、場違いな……青銀の剣士。
蝕の闇の中にも浮かび上がる、白く輝く翼を垣間見たのは……一瞬のこと。
間違えたか。
夜都は、思う。
天の住人が、何故、このような死の匂い立ち込める堕ちた場に、好んで居るのか?
「皆殺しだ!」
攻める側の傭兵たちが、狂気にも似た声を張り上げる。それに、決して、追従するわけではない。あくまでも淡々と、夜都もまた刀を抜く。いや、刃を顕すと言った方がよいだろう。
腰帯から無造作に抜いた鞘ごとの太刀が、身の丈もあろうかという大鎌へと、不可解な変化を遂げる。夜の中にあっても、なお暗く、漆黒の色に沈んでいた。より多く、より簡単に、ただ敵を屠るのであれば、この鎌の方が絶大な効果を発揮する。
夜都は払う。
死の芳香の立ち込める、禍々しき凶器を。
風が唸り、鮮血が飛んだ。芦草のごとく、刈り取られてゆく、首。紙のように、切り裂かれる。硝子のように、砕ける。屍の群の上に君臨し、けれど、そこには、一切の感情がない。どれほどの返り血を浴び、どれほどの悲鳴を聞いても、彼には、何ら、感慨をもたらすものではなかった。
戦っている時の夜都は、いわば、機械だった。
心が無いから、残忍にも、冷酷にも、なれる。
心が無いから……極限を知りながらも、限界を……越えない。
「死神か」
「かも知れぬ」
「失せろ。ここには、死神は相応しくはない」
「戦場に、これ以上相応しい神はない」
「夜明けまで……ここは、通さぬ」
問いかけるのは、王子の傭兵。
答えるのは、反乱の死神。
光と闇の対比にも似た二人が、対峙する。黒き大鎌を、太刀に変えて、夜都が鋭く踏み込んだ。闇の住人に相応しく、音がない。青い髪の傭兵が、それを受ける。雷光が散った。
「良い腕だ」
「貴様もな」
「死神の太刀を誉めるは、危険だとは思わぬか」
「さて……死神だからこそ、と、答えておこうか」
「似つかわしくない……その背にあるのは、光だろうに」
「見えるのか」
「この目には、眩しいほどに」
一合、二合。太刀が、剣が、金属の悲鳴をあげて、交わる。ぎりぎりと交差した瞬間に、互いが互いの目を覗き込む。力は、互角。技も、互角。剣筋は恐ろしいほど違うのに、何故か、馴染む。あまりにも異なる故に、反発が、かえって磁力を生み出しているのかも知れない。
これと、刃を競うのは、嫌いではない。
二人ともに、そう思った。
荒ぶる界に生きる限り、決して無視し続けることは許されぬ、自らの中の戦神の意識が、目覚める。
剣こそ、我が命。
剣こそ、我が定め。
星の軌道のように、未来永劫、変わらない。
どれほどの時が経ったのか……。
暁は、まだ遠い。
けれど、砦を取り巻いて、ざわざわと無数に蠢く、人の気配。
鬨の声が響き、馬蹄が大地を揺るがせる。近付いてくるのは、王子を守るために現れた、正統なる王家の軍。
反乱軍が、敗れたのだ。夜明けを待たずして、正軍は、逆賊どもを根絶やしにした。そして、ただ一人の王子を迎えに来た。城壁には、今頃、愚かな反乱の首領の首が、見せしめとして飾られていることだろう。
運命は……光に、味方した。
「さて……斬るか。我が身が朽ちるまでも」
「馬鹿なことを」
「そう……全ては、愚かなことなのだ。私という存在も含め」
「決着は付いた。王の勝ちだ。ここにお前がいる意味が、どこにある?」
「意味か。面白いことを言う。意味など無い。全てには。同じく長く怠惰な時を生きながら……なぜ、未だ、気付かぬのだ」
「意味はある。必ず……」
「信じればよい。聖も、邪も、ただ、過ぎ去る時の瞬きに過ぎぬ。なれば、聖を信じるも良し……」
「お前は、邪を信じるか」
「私は、何も信じぬ」
夜闇の太刀が、低い唸り声を発した。ふわりと、舞うように、その主が後方に飛び退く。一瞬の跳躍で、二人の間には、既に槍でも届かないほどの距離が空いていた。何事もなかったように、死神が、刃を納めた。
先に問いを発したのは、青い剣士。
「名を、聞いておこうか」
「夜都……葛城夜都」
「夜都……か」
「なれば、私も、名を、聞いておこうか」
「俺は……」
いよいよ迫ってきた無数の兵士らの声に、最後の言葉は、掻き消された。
聞こえたかと、確認する暇も与えず、夜都が身を翻す。
夜気が、瞬く間に、死神を包んだ。
闇の帳が、懐深く、立ち去る背中を隠した。
「また、会おう……」
呟いた声は、どちらのものだったのか。
未だわからぬままに……蝕の時間は、終わりを迎える……。
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