<東京怪談ノベル(シングル)>


透明な空の向こうの記憶

 激しく空から落ちてきていた俄雨が不意にやんだ。
 シュライール・ヴェルガは足元に出来た水溜りに映る自分の姿に、こんな風に旅を始めてから最後にまともに自分の顔を見たのはいつのことだろうかと思った。前髪から滴り落ちる雫が水溜りに水紋を描く。先ほどまでの重苦しい曇天が嘘だったかのように、雲の切れ間から覗く青空から眩しいくらいの陽光が降り注ぎ、水溜りに煌かせる。
 眩しいくらいに幸福だった日々は遠い。
 二十四年の年月。
 それは長いようで短く、そして軽いようで重たい日々だった。
 改めて振り返ることなどせずに今まで生きてきた。振り返れば総てがまたあの他人に乱された混沌とした日々に引き戻されてしまうような気がしたからだ。
 雲間に覗く空の透明な青。
 その下に佇むシュライールにはもう何も無い。
 残されているものがあるとしたら形の無いものばかりだ。遠い懐かしい風景。そこに宿るものは僅かな痛みを残しながら今もシュライールの記憶のなかに残されている。消えることはない。消す必要もない。ただ密やかに過去の底に幽閉しておきたいと思うだけだ。喪失と別離。嫉妬と羨望。人が持つ感情だけが生々しく澱のように沈殿していた日々。
 それらを振り切るようにして旅することを選んだのは幾つの頃のことだったろうか。
 今はもう思い出すこともかなわない。
 ただはっきりと思い出すことができるのは、十二歳で両親を事故によって失ったことが発端だったということだけだ。
 シュライールは特別大きくもなければ小さくもない国の農家に生まれた。両親と七つ年下の妹と過ごした僅かな時間はとても幸福で、今になって思えばとても貴重なものだった。本当の家族が全員揃ったのはたった数年のこと。些末な思い出ばかりに埋め尽くされ、当時は特に気に留めるようなこともなかったというのに失われた今となってはとても貴重なものである。帰る場所は、と訊ねられたらあの頃に戻りたいと答えるかもしれない。懐かしさは温かく、そして随分前に失われてしまったが故にとても愛しいものへと姿を変えた。
 しかしそれに手を伸ばすには間に横たわる歴史が大きな壁のように聳えたち、シュライールを隔てている。
 両親の死後、シュライールは病気がちな妹と共に親戚中を盥回しにされ、結果一番裕福な親戚の家へと引き取られることになった。しかし両親の結婚が駆け落ち同然なものであったせいもあって邪険に扱われることが常で、病気がちな妹を抱えてシュライールは何度自分の無力さを悔いたかわからない。
 ただ必死だった。
 幼いながらも守らなければならないものがすぐ傍にあったから、世界を知るために懸命に勉学に励み、必死になって剣の腕を磨いた。当時のシュライールの頭のなかには、宮廷騎士となることしかなかったといっても過言ではない。宮廷騎士になれば毎月多額の収入を得ることができる。それを知っていたから、それだけを頼みの綱にしていた。上手くいけば二人だけの生活もできるかもしれない。そこまでできずとも妹にきちんとした治療をさせてやることができるようになると、守ってやれると思った。そして同時に金銭欲の権化のような伯母たちの態度も変わるだろうと思っていたのだ。
 そんな幼い考えがよく現実になったものだと今なら思う。努力という言葉を純粋に信じていられることができた幼い頃。あの頃の自分なら、今の状況をどう思うだろうか。総てを失い、総てを、帰る場所さえも捨てて当て所なく旅を続ける自分を努力し続けていたあの頃の自分が仕方がないことだと笑って許してくれるとは思えない。
 けれど今の自分も紛れもなく自分なのだ。
 どこへともなく日々旅を続け、それだけの自分であっても自分が自分であることには変わらないのである。
 十七で宮廷騎士になった。
 それからの僅かな日々は、両親を失った後のシュライールの人生のなかで充実していたものだった。毎月の収入の額に伯母たちは案の定目の色を変え、それまでの邪険な態度は偽りだったのだとでもいうかのように柔軟なものになった。妹の面倒もきちんとみてくれるようになり、安心して任せることができるようになった。そして何より嬉しかったのが、良かったね、と笑った妹の言葉だ。病気がちで何もできないと嘆くばかりだった妹が、シュライールが宮廷騎士になれたことを誰よりも喜んでくれた。ひっそりと咲く花のような笑みと共に紡ぎ出された言葉を今でもはっきりと覚えている。
 ―――良かったね。大丈夫だよ。
 ささやかなものが嬉しかった。たった一人の血の血縁者にそう云ってもらえることで総ての苦労が溶け出していくような気さえした。
 どうしてそれが続かなかったのだろうか。
 今、過去を振り返ったところで何も変わらない。永遠に帰ることのできない場所があるように、永遠に変えることのできない事実もあるのだ。
 宮廷騎士になってしばらくの間は安定した、平穏な日々を過ごすことができた。騎士としての才能をかわれて順調に出世することもでき、その出世がシュライールの地位を安定させたのか大臣の姪との婚約を果たすまでになった。
 あの問題が浮上してきたのはちょうどその頃のことだ。
 次の王位の問題。
 今までにあれほどまでに人の愚かさを目の当たりにしたことはない。誰もが地位や名誉に目の色を変え、自らが属する派の者を王位につかせようと躍起になっていた。
 もしあの時、どちらかの派閥についていたら何かが変わっていたのかもしれない。
 けれどあの頃のシュライールにはそれができなかった。伯母たちの醜さを見ていたから、伯母たちの姿から地位や名誉、権力や財力の無意味さを知ってしまっていたからなんと云われようとも中立の立場を守ろうと思っていた。
 一言で云えば若すぎたのだ。
 今ならつまらない正義にしがみつかずに、有力だと思われる派についていたかもしれない。けれどどちらについても結果は同じだと諦めていたあの頃のシュライールにはそうした妥協ができなかったのだ。
 だから双方から睨まれることになり、自ずと立場的にも危ういものになった。そしてありもしない罪を擦り付けられ騎士の職を辞さなければならなくなったのである。
 それからの日々は本当に坂道を転げ落ちるようなものだった。掌を返したように親族たちは以前のように態度を冷たくし、婚約者からは婚約破棄を云い渡された。それまで手に入れたと思っていたものが、総て指の間をすり抜け落ちていく砂の粒子のようにしてさらさらと零れていってしまった。掬おうと足掻いてももう戻らず、どうすることもできずに途方に暮れ、そして絶望に身を浸す日々が続いた。妹だけがいつも傍にいてくれた。苦しいのは今だけだと云ってくれた。そう云う自分の病状が悪化する一方だというにも拘らず、妹だけはいつも絶望にくれるシュライールをどうにかして励まそうと必死になっていてくれた。
 どうして、あの時。
 たった一言。
 本当にたった一言の言葉を云ってやれなかったのだろう。
 その小さな命の炎を消してしまうその刹那までずっと、大丈夫だと云い続けていてくれた妹にたった一言を云ってやれなかったことだけ悔やまれる。
「ありがとう……」
 今ならこんなにも簡単に云えるというのに、総てを失ってしまった直後のシュライールにはそれができなかった。ただ総てに絶望し、神を信じることもできず、努力など無駄なのだと思い込んでいた。妹の笑顔一つで癒されるものだというのに。苦痛も努力も何もかもが妹の笑顔で癒されることを知っていたというのに、頑なに口を閉ざし、自分の殻に引き篭もっていた。
 それでも妹は最後まで大丈夫だと繰り返していてくれた。
 いつも哀しそうだった。
 絶望にくれるシュライールを見ているのさえもつらそうなくらいに哀しげに目を伏せながらも、絞り出すような細い声で大丈夫なのだと繰り返していた。
 そんな妹が息を引き取ったのは、今日のように透明な青空が広がっていた夏の昼下がりのことだった。
 俄雨が過ぎ去り、雲が晴れ渡った青空の日に妹は逝った。
 遠く、手の届かない両親のもとへ独り旅立っていった。
 そうしてようやくシュライールは気付いたのである。とどまっていてはいけないのだと。動かなければならないのだと。半ば自暴自棄になっていたのかもしれない。あんなにも簡単に総てを捨ててしまうことができるとは思ってもみなかった。そしてあんなにも簡単に総てを捨てて、今ここで生きていることができるとは思ってもみなかった。
 シュライールを突き動かしていたのは、妹の残した一言。
 最後の言葉。
 ―――大丈夫、今だけよ。
 日々、何度も繰り返されていた言葉だというのに、最後の言葉だけが鮮明だ。
 笑っていた。
 もう自分は駄目だけれど、大丈夫なんだと笑っていた。
 痩せ細って弱々しい手でシュライールの手を握って、何度も強く握ろうとして、できなくて、それでも強くシュライールの存在を確かめようとするかのようにして手を握って離さなかった。
 その時の笑顔が、目に焼き付いて離れない……―――。
 シュライールは水溜りに映る自分から視線を引き剥がし、空を仰いだ。
 透明な青い空のどこかで妹が呟いた気がした。
 笑ってくれている気がした。
 宮廷騎士になったあの時のように笑っていてくれるように思えた。
 透明な青空の向こうにある記憶だけが鮮明。
 そしてそれだけが当て所ない旅の道標。
「ありがとう……」
 呟いて、シュライールは一歩を踏み出した。