<東京怪談ノベル(シングル)>


異端という糸の鋭さと平穏な日々の一端




 もし、世界が一つだったならば異端者は異端者として葬られるという現実もまた存在したのかもしれない……―――




 酒の注がれたグラスを片手に同族を屠ることが宿命だったのだとしたら、その宿命を背負ったまま永久に死に至るその時までそれに操られるようにして生きていかなければならなかったのかもしれないとふとオーマ・シュヴァルツは思った。
 自分の能力に気付いたのは果たしていつのことだったのか。
 それは今はもう既に曖昧で遠い昔の出来事のようにぼんやりと輪郭を溶かし、今に直結している。
 ヴァンサーとしての自分。
 医者としての自分。
 果たしてどちらが本当の自分なのか、ふと気を緩めるとわからなくなる時がある。医者である時の自分は確かに誰かを救っている。生態医学の知識や技術が他のどの医者に比べても秀でていることは誰よりも自分がわかっていることだ。しかしそれと同時に、以前自分が身を置いていた世界ではヴァンサーであり、その世界から距離を置いた今でもその能力は躰の奥底に宿ったまま維持され、ウォズが存在し続ける限りそのポジションが揺らぐことはない。
 ウォズを屠ること。
 それにはもう一つの意味がある。
 自らの死。
 リアルなそれが目の前に横たわる宿命だった。
 目を閉じれば総ての過去が現在に流れて込んでくるような気がする。
 この世界に身を置くようになってからも変わらない過去のリアル。逃れたかったわけではない。逃れたいと思ったこともない。ただ自分のリズムを崩さずに生きていたいと思うだけだ。異世界に身を置いていたあの頃は、ウォズを屠ること、同族殺しという言葉はただ自らの死への畏怖の対象でしかなかった。
 封印するにとどまっていられたのは、ただ死にたくなかった。
 それだけだった。
 それが今となっては、僅かにだが変化を帯びてきているような気がする。
 今、オーマが身を置くこの世界においてもウォズは出現する。生態や目的などは未だ解明されておらず、総てを謎に包み込み存在する者。それを封印するにとどめ、衝動的に殺すことをせずに封印することだけにとどめておけるのは、今の自分のなかには確かに守りたいと思うものがあるからだ。
 自らの死によって残されることになる者たちを哀しませたくないと思ってしまう。
 以前身を置いていた世界においても異端者であった自分に笑いかけ、言葉にならない温かさを教えてくれる者たちがいる今を、自ずと過去に流されていってしまう今の一つ一つの刹那を大切に守っていたいと思う。
 異端という言葉を気にしていないつもりでも、どこかで心に引っかかる小さくも鋭い棘のようにしてその存在を主張する。生れ落ちた場所もわからず、自らの種族さえも判然としない。
 自らの位置を、存在を確かなものにしてくれるものがあるとしたら異端という言葉だけである。
 異端。
 それは正統から逸脱していることを指す言葉。
 自分を造る総てがその言葉によって肯定されてしまっている現実。医者である自分も、ヴァンサーである自分をも凌駕して異端という言葉が重く、心に圧しかかってくる。それから目を背けるようにして医者やヴァンサーという言葉に縋っていないこともない。
 だからわからなくなるのだ。
 本当の自分とはなんであるのか。
 そんな瑣末な疑問が異端という一つの言葉によって生じ、行き場をなくして虚空を彷徨う。
 わかるわけもないことを考え出してしまう引き金になる。異端というたった一言。誰がそれを与えたのかもわからないというのに、自我がそれを知っている。仔細に事を考えれば、異端らしいという判然としないものであるというにも拘らず、思考や意識に突き刺さる鋭い棘のようにして抜き取ることができない。
 その痛みを癒してくれるものがあるとしたら、今は家族や友人たちの存在だけである。
 異端視することもなく、当然のように自分の存在を肯定してくれる人々。彼らがいれば今は異端という言葉から少しだけ、ほんの少しだけでも目を背けていられるような気がする。聖獣界ソーンというこの世界で医者として、そして時に薬草専門店の店員としてひっそりと生活していけるような気がする。
 生きていかれるように思える。
 自らを、判然としない自己を追い求めて、自暴自棄にならずにいられるような気がする。
 今はただ守りたいものがあり、慈しみ、愛していきたいものがある。
 それも一つではないのだ。
 その幸福を静かに、飄然とした体を装いながらも守っていきたいと思う。
 自分が朽ちれば、この世界の総てから細胞の一つまで失われてしまえば哀しむであろう存在が傍らにいる日々。
 そのなかでたとえ自分自身が自己を把握しきれずにいようとも、その人々が自分を把握していてくれるだろう。それぞれの意識のなかに自分の存在を認めていてくれるだろう。
 だから異端という言葉が曖昧になっていく。
 彼らの存在が異端という言葉を溶かしてくれる。
 酒を一口含み、グラスを片手に机に向かって頬杖をつくとふと口元が緩むのがわかる。
 脳裏によぎるは家族の肖像。
 手に入れてしまった後には失うことになるかもしれないそれらが恐怖を凌駕して、今はただひどく愛しい。
 何よりも一番に家族が、妻が、一人娘が愛しいと思う
 もし世界を敵に回す日が来るとしても、それだけは守っていきたい。哀しませたくないと思う。緩やかに酩酊感に支配されていく意識のなかでもそれだけは鮮明だ。心地よい酔いがそれをますます鮮明なものにしていくような気さえする。異端とされていた自分を夫と呼び、父と読んでくれる彼らだけは血を流さずに守っていきたいと思う。血の一滴でも流れればきっと彼らは哀しむから、常に勝気な微笑とひっそりとした笑顔と共にいてくれる彼らの顔が曇るであろうから。
 だからそっと静かに守っていきたい、慈しみ、愛していきたいと思ってしまう。
 こんな日が来るとは思ってもみなかった。
 こんなにも愛しい人々が傍らに在る日々が訪れるなどとは、独りでいたあの頃には考えてもみなかったことだ。
 飲みすぎだと嗜めてくれる妻の勝気な声も繊細な心を持つ一人娘も何もかもが今は愛しい。
 だから異端という言葉は姿を曖昧にぼやかし、ひそやかで他愛もない幸福な生活のなかでゆっくりと溶けていく。
 そしてきっと、いつか本当に消えてしまう日もくるだろう。心に触れる棘はきっと柔らかな温もりに変わり、痛みを感じさせないものに変わってくれるだろう。
 今は、ただ守りたいものを両腕で守っていきたい。
 守れる腕があるのだから、守れる自分がここにいるのだから、それを駆使してずっと守れる限り守っていきたい。
 それだけが確かな幸福だと思ってオーマは再びグラスを傾けた。



【ライターより】

初めまして。沓澤佳純と申します。
「ウォズ」を「ヴォズ」と誤って表記していた部分を見落としてしまい大変申し訳ありませんでした。
今後こういったことのないよう十分に気をつけていこうと思います。
不快な思いをさせてしまい本当に申し訳ありませんでした。