<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>
紅蓮鋼牙・前編
【紅竜ファラフレア】
裂けた額から、止め処なく溢れてくる血が、視界を遮り、ひどく前は見にくかった。
腱を切られて動かない右腕が、邪魔だった。どうせ使い物にならないのなら、いっそ、落としてしまおうかと、青年は、考える。腕の一つや二つ、惜しくはない。わずかな時間さえあれば、たちまちのうちに再生する。
不死身に近いはずの、自らの、竜の肉体。
まさか、その自分が、殺されかけているとは……青年は、輝石のような紅い瞳を細め、苦笑とも嘲笑とも付かぬ曖昧な表情で、目の前の女を、見つめた。
「竜狩りの魔女……」
瞳と心臓を寄越せ、と、魔女は、言った。
むろん、それに応えてやる義理はない。
彼には、守らなければならないものがあるのだ。
新しい国を興そうとして、果敢に戦っている、少年。主と認めた。恒久に、命尽きるまで、仕えると。この身も、魂も、その、いずれ王になる少年と、彼が興す新しい国に捧げた。
魔女に奪われて良いものなど、何一つ、無い。
「貴様に、くれてやるくらいなら……」
竜族の青年が紡ぎしは、今は知る者もほとんどいない、竜言語。
古代の秘術「ディダクト」。
生命体を、その意思を宿したまま、物質に変える禁呪法である。わずかな躊躇いさえも、失敗の元となる。自らが、「物」として未来永劫生き続けていく恐怖に、大概の者は耐えられない。
青年とても、恐ろしかった。
この身を、何に、変えるというのか……。
「刃に」
どんなものでも切り裂ける、剣に!
未だ混乱収まらぬ乱世を、収めるために、少年には、力がいる。
紅き竜が、刃となって、彼を助けよう。魔女に殺され心臓と瞳を奪われるくらいなら、「命」の放棄さえも、恐ろしくはない。悔いは……無い。
「我が名は、紅竜ファラフレア。我が命よ。我が魂よ。我が言霊を聞け。その在るべき姿を剣に変え、我が意思を、内に封じよ」
人として、もう、仕えることは出来ない。
やがて王になる少年は、これを知れば、嘆くだろうか。それとも、唯一無二の魔剣を得たと、存外に、喜ぶだろうか。
「ファラフレア……! ディダクトを……ディダクトを使うなどと……!!」
魔女が、歯噛みする気配が、伝わってくる。
してやったりと、竜は笑った。
これで、魔女に、心臓と瞳を奪われることはない。
永遠に、この力は、主のために。
王の、ためだけに……。
【失われし魔剣】
「我が国の魔剣ファラフレアは、即位の証。だが、十年も前に、行方不明のままだ……。何としても、これを見つけ出さなければ……」
二百年前に、トゥリア王国を打ち建てた少年王が、深紅に輝く魔剣を、持ち帰った。
以後、魔剣は、国の王の証となった。
常に、王の傍らに、剣はある。
それが、十年前に、神殿の奉納宮から、忽然と消えた。
剣がなければ、王は生まれぬ。紅き竜ファラフレアの認めた者でなければ、トゥリアの座を受け継ぐことは許されないのだ。
そして、今、剣がないために、即位できない王太子が、いた。
彼は、言った。自分は、トゥリア王家の血を、一滴も、引いていないと。彼は、先の王が哀れに思い拾ってきた、孤児だったのだ。
「私は、王家の人間などという、大層な身分の者ではない。私は、ただの孤児だ。だが、トゥリアを愛している。故国として。私は、取り戻したいのだ。国の宝を。トゥリアの誇る、紅蓮剣ファラフレアを。ここには、一騎当千の強者が揃うと聞いた。剣の探索に、どうか、力を貸して欲しい……」
王子は、よくよく見れば、王子ではなかった。王女だった。
女だてらに、たった一人の従者を連れただけで、旅を続けてきたのだ。
その気概に、エスメラルダは、半ば感嘆とも取れる溜息を、吐き出す。もちろん、と、踊り子は笑った。
「さぁ、誰か、いないかしら? この勇気ある王女殿下を助けてくれる人間は!」
十年前に失われたという、紅蓮剣ファラフレア。
探索は……あるいは、厳しいものとなるやも知れぬ……。
【魔女の探索】
「王子……いや、王女よ。剣を持ち帰って、何とする? 王の名乗りでも上げるのか?」
薄闇の中に、フォルティーナの静かな声が、凛と響く。たゆたう紫煙の向こうに、やがて、声は、吸い込まれて消えた。
王女は、すぐには問いに答えない。ひどく長い間を、何事か考え……そして、半ば独り言のように呟いた。
「王の名乗り、か」
彼女は笑った。それが自分の求めるものであるならば、どれほど気が楽だったか、と。
「興味はない。地位も。身分も。私を王太子に就けたのは、亡き先王陛下……父上だが、私には、どうでも良かったのだ。そんなものは」
さすがのフォルティーナも、あまりにも突き放した返答に、戸惑いを隠せない。地位も身分も要らないと言うのなら、何故、王女は、今ここに居るのか? 故郷すら霞むがごとくに離れた、遙かなる異境の地、エルザード。道のりは遠く、険しかったに違いない。
「戦が起きる」
王女が、今度は、明確な言葉を紡ぐ。
「王のいない国は、揺れる。自分のことしか考えない、愚かしい貴族たち。隙あらばと玉座を狙う、ハイエナのような親戚ども。火種は自らの内にあり、敵は、外の国にも多い。紅蓮剣がある時は、紅蓮剣が、次なる王を決めてくれた。私たちは、ただ、それを受け入れれば良かった。混乱など、起きようがなかったのだ。ファラフレアが健在な時は! だが……もう、頼るべき私たちの竜は、いない」
自分が、王になりたいわけではない。
ただ、紅蓮剣を取り戻せば、あのさもしい宮廷内の混乱が納まるのではないかと、そう思ったのだ。
二百年の長きに渡り、トゥリアには、内紛というものが起きた例がなかった。
紅蓮剣ファラフレアがあったからだ。トゥリアの祖王が定めた言霊が、未だ、滅びず生き続けている。
「紅蓮剣ファラフレアに従え。我が国の王は、彼の竜が選ぶ」
「あの……ディダクト、って、どういう魔法なのでしょう……?」
不意に、遠慮がちに口を挟んだのは、リラ・サファト。
「意思を残す……ということは、その剣には、感情がある、ということなのでしょうか?」
「それについては、僕も気になるところですね」
リラの向かいで、アイラスも同意する。
さして広くもないテーブルを、今、彼らは王女も含め五人で囲んでいた。残る一人は、藤野羽月という少年だ。無口な性分なのか、彼の方は、完全に聞き役に徹している。
むろん、口を閉ざしているだけで、その頭の中では、まるでパズルを解くように、目まぐるしく、様々な状況が組み立てられているに違いなかった。
「感情がある、どころか、あるいは、剣の姿でも魔法を行使することが可能とか……いえ、そうなると、もはや物ではないような気もしますが」
同情や感傷は、とりあえず横に置いておいて、アイラスは、ともかく正確な情報を得たいと考えている。
剣がどういった「物」であるかにより、可能性は全てにおいて、変化する。
あくまでも、自ら何かを為すことのない、「物」なのか。
それとも、竜が化身したというだけあって、「物」を越えた、「命」の領域にまでも踏み込んでしまうような、可不可の代物なのか。
「物は、物だ。紅蓮剣は……。話すでもないし、語るでもない。一般に言われている、魔剣妖刀の類と同じものだ。ただ……紅蓮剣は、それが認めた者でなければ、鞘から抜くことも出来ない。まして、そこから炎の力を引き出せる者は、恐らくは、トゥリアの歴代の王の中でも、五指に満たない数しかいないだろう……」
だからこそ、意思ある剣、と呼ばれる。
主を……王を、選ぶと。
「と、すると、やはり、剣が勝手に消えたわけではなく、盗まれた可能性が高い、ということですよね……。こう言っては何ですが、王を選ぶ剣が無くなってくれれば、喜ぶ輩の方が多いのは確実でしょう。器はないのに、野心ばかり大きいという人間が、この世の中、唸るほどもいるに違いありませんからね」
まぁ、王位簒奪云々が相手なら、まだ良い、と、アイラスは思う。
欲深い人間なら、貴重な紅蓮剣を万が一にも葬り去ろうなどとは、露ほどとも考えないはずだからだ。
それよりも、アイラスの頭の中には、もう一人、この一連の事件にいかにも関わっていそうな女の顔が、チラチラと、実に不快に交差していた。
出来ることなら、二度とお目にかかりたくない女だ。名前すらも知らないが……あの蛮行は、容易に忘れられるものではなかった。
「竜狩りの魔女……」
呟いたのは、ライラック色の髪の少女。その、握り締めた華奢な拳の中で、白い鱗が、光を灯す。
間に合わなかった。
彼女が駆けつけた時、竜は、既に、死んでいた。
闇の中に、屍だけを、晒して……。
「竜狩りの魔女が、仮に、剣を持ち出したとしよう。魔女の真の目的は、何だ? 単純に、紅蓮剣を手に入れることか?」
フォルティーナが、誰にともなく、問いかける。
否、と、羽月が、初めてその重い口を開いた。
「私は、魔女に直に会うたことはない。リラさんから、話を聞いただけに過ぎぬが……竜の心臓と瞳こそが、魔女の真に求めるものなれば、魔女は、まずは、ディダクトを解こうとするに違いない。人の姿に戻ったファラフレアから、改めて、奪い取ればよい……私が魔女ならば、そう、考える」
「……怖いことを、さらりと言いますね」
アイラスが、室温が一気に五度も下がってしまったような雰囲気の中、更に重々しく溜息を吐き出した。羽月の意見に、異を唱えているわけではない。彼とても、それを意識せぬ訳にはいかなかった。
魔女の目的は、竜の心臓と瞳。
魔力の源、と、かつて、魔女自身が言っていた。
恐らくは、自らの若さと力を保つために、必要なのだろう。それは、他者から……つまりは竜族から強引に奪い取るのが、最も簡単だ。
竜族は、抵抗しない。抵抗出来ないのだ。彼らは、ソーンという世界において、強力な制約をかけられている。何時いかなる場合においても、ソーンの民を殺してはならぬと。
制約は、すなわち呪いでもあった。それが成就した時、竜族は、その守護する聖獣を失うことになる。自らだけではない。全ての竜族が、である。
ソーンからの、永遠にして絶対の追放。帰るべき故郷が既に存在しない彼らにとって、それは、即、殲滅を表していた。
初めから、選択の余地など無かったのだ。竜族は、人を、殺せない。相手が、あの魔女であってさえも。彼らは狩られるしかなかったのだ。あるいは、姿を隠して、逃げ続けるのみか……。
「魔女は、その竜族の事情を知って、利用していた……」
白い竜の亡骸の姿が、あの事件に関わった二人の脳裏に、鮮やかに浮かび上がる。
殺しに来た魔女と、殺せない竜。
どちらに軍配が上がるかは、目に見えていた。
あるいは、弱すぎる人間の妻を盾に取られたのか。
白竜は、狩られた。
泥土に沈んだ城を墓標に、今もなお、眠り続けているに違いない……。
「剣の探索のためには、まずは現場を、と、僕は考えていました。神殿の構造、警備体制、内部事情……その全て、実際にトゥリアに行かなければ、わからないことばかりですからね。しかし、魔女のことを考えると、このエルザードでも、やるべき事はあるようです」
アイラスが提案し、羽月が頷く。
「蒸し返したくはないが……魔女について調査するなら、一度、彼女の元を、尋ねてみるべきだろうな」
リラが、はっとして、二人を見つめる。
「レナ、さん」
羽月が、目を伏せた。魔女に竜の伴侶を殺された女に、彼は、会ったわけではない。だが、それでも、一刻も早く忘れたい記憶を掘り返される彼女の気持ちが、理解出来ないわけではなかった。
傀儡師、という、人はおろか人ならぬ物すらも操る、少年。彼自身がそうと思っているよりも、その心は、繊細に違いなかった。繊細でなければ、人形の心など、永遠に理解出来るはずがないのだ。
「大事ない、と、思うが」
フォルティーナが、立ち上がる。緩く流れる金髪を一振りし、彼女は笑った。
「その女性は、間もなく、母親になるのだったな? この世の中に、母親と呼ばれる生き物ほど、強い存在はないぞ。事情を話せば、きっと、何かしら協力をしてくれるはず……。白竜の伴侶から、思わぬ重大な話を聞いている可能性も、高いしな」
「私は……」
フォルティーナにならい、リラもまた席を立つ。少女は、ただ、素直に想いを告げた。
「私は、会いたいです。もう一度、レナさんに。元気で頑張っている姿を……もう一度」
隣に腰掛けていた少年が、ふっと、気が抜けたように微笑した。
「リラさんらしい……な」
「え?」
「いや……」
「決まりですね。行きましょうか」
アイラスが、促すように、一同を見回す。取り残されたように、やや途方に暮れた顔をしている王女に、青い髪の青年が、安堵させるように頷きかけた。
「僕たちは、まずは、魔女について調べます。どうにも気になりますので。貴女は、一足先に自国へお戻り下さい。僕たちも少し遅れますが、必ず向かいます」
護衛は、必要ないだろう。
彼らの他に、残りの四人が王女への同行を既に決めている。
ダークエルフの魔剣士ラティス。亜種族盗賊団の長アズリィ。癒しの歌姫ティアラ。もう一人は……かなり曲者と思われる、自称魔法少女。
先の二名で、戦力は十分だ。ダークエルフは、一人で並のエルフ十人を軽く抑えると言うし、アズリィの方は、何と言っても、下に数多の子分を抱える身。王女の方は、彼らに任せてしまうのが、得策だろう。
そして、竜狩りの魔女については、魔女のことを多少なりとも知っている人間が当たるのが、筋というものである。
「終わりにしたいものだな。魔女と関わり合いになるのは」
不快そうに、羽月が呟く。
どんな小綺麗な理屈を付けても、それが正しいとは到底思えない、「竜狩り」。相手が竜だから、狩ってはいけないというわけではない。欲のために他者の命を力で奪うというその根性が、そもそも気に食わないのだ。
力が欲しければ、努力すれば良い。
実力で、手に入れてみせればいい。
人から奪うなど、他力本願もよいところだ。
羽月にとって、魔女は、いわゆる「畜生にも劣る輩」だった。常識も、感覚も、違いすぎる。平行線どころか、ねじれの位置だ。理解など出来ようはずがない。
「終わらせればいい……私たちが。そのための、剣だ」
フォルティーナが、身を翻す。
そうかも知れないと、リラが、誰にともなく、こくりと頷いた。
「終わらせたいです……こんな事は」
【竜の子】
狭い部屋だった。
親子二人で住めば、それで身の置き所が無くなってしまうような。
必要最低限の家具と、贅沢とは縁のない、小物の数々。適度に散らかり、温かい生活感がある。カーテンやタペストリーは、手作りだった。端切れを上手く組み合わせて、まるで、手の込んだ手芸作品だ。
「お母さん……?」
その子供は、事態が、まるで、わかっていないようだった。
母親が、何故、震えながら自分を掻き抱いているのか。かつて見たこともないほど怖い顔で、見るな、と、叫ぶのか。
いや、そもそも、いきなり窓硝子を割って無粋に室内に侵入してきた目の前の女は、何者だろう?
長い黒髪に、闇の中の猫の目のように、光る黄金の瞳。死人のごとく肌の色は白いのに、唇だけが、異様に紅い。それに、腕!
片腕だけが、人間ではない。肘の部分から先が、鬼か悪魔のように、あり得ない醜悪な様相をなしているのだ。
魔女、と、子供の脳裏に、覚えたての単語が浮かぶ。
きっと、これが、お母さんの言っていた、恐ろしい、魔女という生き物なんだ……。
「驚いたわね」
魔女が、口を開く。
声の響きは綺麗なのに、子供は、生理的に、嫌悪を覚えた。その体の奥深くに眠る血が、無意識のうちに、危険を知らせてくれるのかもしれない。
「白竜エリュシオンの子……。あれから、一年と経っていないのに……そんなに成長するなんて」
名前は?
魔女が、尋ねる。緋色の唇を、壮絶な笑いの形に、歪めた。
竜が、居た。混血だけれど、その身は、極めて、竜に近い。
しかも、弱い。まだ。恐ろしく。手こずらせてくれた父竜とは、わけが違う。魔法の一発で、確実に、殺せるだろう。
最高の獲物だ。
「私は運が良い……。ファラフレアを探して、こんな思わぬ獲物に辿り着くとは」
声を立てて、魔女は笑った。母親が、盾となるべく、子供を抱き締めたまま、魔女に背を向ける。逃げなさい、と、彼女は言った。
お母さんが、時間を稼ぐから。
逃げなさい。死んではいけない。貴方は、あの人の命そのものなのだから!
「悪運も、そこまでですよ」
絶体絶命と思われたその状況に、ごく静かに、割って入った者たちが、いた。
細い体からは想像も付かぬ強靱なバネを活かして、アイラスが、一気に魔女の懐に飛びこむ。異形の腕を左の釵で受け、右の釵を閃かせた。
幸いにして、彼は、一度、魔女と対立している。魔法に対しては無敵に近くても、この女は、接近戦が苦手なのだ。でなければ、ああも容易く片腕を切り落とされるはずがない……!
そのスピードこそが、釵の使い手の最大の特徴。リーチが全くと言っていいほど無い代わりに、接触の瞬間に、爆発的な攻撃力を発揮する。逆手に持った釵の先端を、迷うことなく、魔女の体に叩き込んだ。
かつて、暗殺術をも学んだことがある。人間の急所は、知り尽くしていた。それは、確かに、致命傷になるはずだったのだ。
「傀儡……!」
魔女の体が、塵のように飛散して消えた。
「傀儡だ!」
たった今殺したはずの女が、少し離れた場所に、悠然として立っている。間髪入れず、魔力の奔流が放たれた。いち早く傀儡の存在に気付いた羽月が、咄嗟に、持参した人型を盾にする。辛うじて防いだが、魔女は、それも予期していたようだった。
秒単位のこの僅かな時間に、彼女の化け物の手は、小さな竜の子供の腕を、血流が止まるほどに強く、既に掴んで引き寄せていたのである。
「さぁ……おいで」
「しまっ……!」
「させると思うか? 私が居ながら」
第三の刃が、風を巻き起こす。
魔女とても避けようのない速さで、フォルティーナが、渾身の一撃を繰り出す。魔物の腕を切り落とし、子供を解放すると、返す刃で、的確に心臓を貫いた。手応えは弱く、鮮血も跳ね上がらない。フォルティーナは、驚きもしなかった。この魔女も、傀儡だ。身代わりの、影。
知っていた。気付いていた。気付いていたからこそ、背後から、躊躇いもなく、斬ったのだ。
でなければ、剣士としての誇りが邪魔して、武器を持たない相手を背中から斬り付けるような真似は、きっと、出来なかったに違いない。
「影で良かった。お前が。斬りたくはない。お前など……。斬る価値もない。刃が、汚れる」
二つの傀儡が消えて、辺りに、急速に静寂が訪れる。
重苦しい沈黙を、真っ先に破る勇気があったのは、手練れの剣士でもなければ優れた魔術師でもない、この中においてはあまりにも平凡な、ライラック色の髪を持つ少女だった。
「もう大丈夫ですよ。魔女は追い払いました」
何の他意もなく、微笑みかける。半年前には、まだ母親の腹の中にいたに違いない、異様な成長を見せる男の子に対しても、何ら、感じるところはない。無事で良かったね、と、心から、言った。その事実さえあれば、リラにとっては、他はどうでも良かったのだ。
生きていることこそが、全ての、前提条件なのだから。
「どうやら、ファラフレアは、魔女の元にはないようですね」
釵を納めながら、アイラスが呟く。いきなり戦闘になったのには驚いたが、来たのはやはり無駄ではなかった。恐れていた最悪の事態は、まだ、起きていない。少なくとも、紅蓮剣の消息不明には、魔女は直接的に関わってはいないのだ。
「我々も、トゥリアへと向かうか」
かなり激しく壊れてしまった狭い室内を、やや申し訳なさそうに見回しながら、フォルティーナが提案する。魔女が関わっていないのなら、聖都に長居をするのはどう考えても無駄な行為だ。トゥリアの大神殿で消えてしまった紅蓮剣が、まさかユニコーン領域の街中にまで流れて来ている可能性も低い。
「でも、レナさんとお子さんを、このままにはしておけません」
リラが、いつになく強い口調で主張する。羽月が、ほんの少し小首を傾げて考え……やがて、言った。
「私の知人に、預けるとしようか」
「ご迷惑がかかるのでは?」
アイラスが、いささか不安そうに眉根を寄せる。魔女のあの様子では、幾度と無く親子を狙って襲いかかってくる可能性が高い。その知人に多大な迷惑がかかるのは、火を見るよりも明らかだ。迷惑で済めばよいが、命にまで関わる大事に発展しかねないのだから、全く持って始末が悪い。
「いや……大丈夫だろう。魔女などに遅れを取るものではない」
「うん……そうですね」
羽月と、リラと、二人の頭の中には、同じ人物が浮かんでいるようだった。
その表情から、何となく、わかる。
穏やかな人。優しい人。そして、恐らくは…………誰かを守る力に、長けた人。
「では、その知人とやらに、彼女のことは任せるとしようか……」
その知人が誰か、何者か、を、フォルティーナは具体的に尋ねない。彼女は、藤野羽月ともリラ・サファトとも今回初めて出会った人間だが、何故か、この二人が信頼を寄せる人物なら、そのまま、たとえ盲目的にでも、委ねてしまって良いと感じた。
人を見る目には、自信がある。
多くを語らなくとも、同じ戦いの場に立ったことがある人間なら、それは、間違いなく、同士だ。
「魔女ではなかった。ファラフレアを奪い取ったのは」
人と竜の親子を伴って、彼らが、小さな家を、そっと後にする。
夜の闇の中に、アイラスの溜息が、吸い込まれて消えた。青い髪の青年の声には、確かに、安堵の想いが揺れているようだった。
「なんかね、嬉しいんですよ。客観的に見れば、宛てが外れた、ということのはずですのに……ファラフレアが、まだ、無事でいてくれるような気がして、ならないのですよ」
竜は、眠る。
未だ、古き呪縛の言霊に縛られて。
されど、竜は、見てきた。
主と定めし少年の建てし、祖国トゥリアを。
竜は、あるいは、望みを捨ててはいなかったのかも知れない。
何時の日にか。
人の姿を、取り戻さん。
何時の日にか。
祖国の大地を、この足にて、踏み締めん。
「行きましょう。トゥリアに」
全ての鍵を握る王国。
澄んだ湖を、深い森を、水豊かな川を、広大な野を、幾つもその胎の内に眠らせる、東の雄。北に荒海を臨み、西には狭隘な峰が壁のごとくそそり立つ。その峰には、古くから、翼竜が住んでいる。エルザードではワイバーンの名称で知られるこの翼竜は、トゥリアの軍事力の要でもある。
大きな畏怖と、少しの憧憬をもって、他の国々は、トゥリアをこう呼ぶのだ。
紅蓮の真竜の加護を受けし、竜王国トゥリア、と……。
トゥリアで、何かが起こる。
予感がある。
予感は、すぐに、現実へと転じた。
古代の遺跡である転移の門……離れた場所同士を繋ぐ、瞬間移動の古代遺物とされている……を潜り抜けたその先が、直接、トゥリアへと繋がっていた。
街は慌ただしく、遠目から見ても、混乱が容易に見て取れた。
何かがおかしいと、とりあえず、顔色の悪い住人に、問い正す。
予期せぬ答えが、返ってきた。
事態は、彼らが考えていたよりも、もっと、ずっと、激しい変化を迎えていたのだ。
「ラガートの大軍が、トゥリアに攻めてきたんだ! 戦が、始まっちまうんだよ!!」
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1386 / フォルティーナ・バルド / 女性 / 18 / 剣闘士】
【1879 / リラ・サファト / 女性 / 15 / 不明】
【1649 / アイラス・サーリアス / 男性 / 19 / フィズィクル・アディプト】
【1989 / 藤野 羽月 / 男性 / 15 / 傀儡師】
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■ ライター通信 ■
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大幅な納品遅れ、本当に申し訳ありません。
しかも、危惧したとおり、前後編物語に別れてしまいました……。
何とか、一話完結を目指したかったのですが、無理でした……。
本当にすみません。
また、紅蓮鋼牙の後編募集については、しばらく未定です。
今回は、お申し込み、ありがとうございました。
そして、納品遅れ、本当にすみません……。
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