<東京怪談ノベル(シングル)>


『泣き虫ボウズの膝小僧』

「オラオラ、このくらいの傷でメソメソすんなっ!」
 でかい男にでかい声で怒鳴られ、少年は、膝に施された薬品が滲みたわけでも無いのに、火がついたように泣きだした。いや、怒鳴られなくても、長身の体に錦の着物を着流しで羽織ったこの男の容貌は、十分怖い。はだけた胸に覗くタトゥー、人を射抜くような鋭い目つき、不遜に歪められた肉厚な唇。堅気の親父にはどうしても見えない。
「オーマさん、子供が怖がってるよ。脅してどうするのよ」
 棚に並ぶ腰痛用の薬草を物色していた老女が、苦笑まじりに忠告した。少年は生贄よろしく店の真ん中の椅子に座らされ、床に届かぬ足をバタバタさせながら、オーマ・シュヴァルツに今から食われるかのように泣きわめいている。
 オーマは口の端を上げて「ちっ」と舌打ちすると、絆創膏を力任せにちぎった。薬草を煮てペーストにしたものを油紙に薄く伸ばし、少年の膝に密着させる。いびつに切れた絆創膏を貼り付けて、治療は完了だ。この程度は母親にやって貰えと言ったら、うるうるした目で母が早く死んで父と二人暮らしだとのたまった。オーマは『悪い事を言っちまった』と少年に詫び、治療をしてやったのだった。
「ほれ、行ってよし!」
 解放された少年はぴょんと飛び上がり、礼も忘れて、涙をぬぐいながら通りへ出ていった。たいして痛くも無いはずだが、怪我をかばって右足を引きずっていた。
「やれやれ、困ったほどに弱虫のボウズだな。
 さて、ばあさん。いつものじゃなくて、もっと香りがマシな湿布用って言ったっけな?近所の爺さん達もイチコロの、薔薇香油入りで煎じてやるぜ」
 オーマは老婆に向き合うと、大きな口で笑みを作った。
 
 ひと心地ついた頃、店のガラス越しに、通りを全力で走って来るさっきの少年の姿が見え、オーマは苦笑した。
『だから、たいした怪我じゃ無いって言ったろ』
 少年は両手で扉を突き飛ばすように開けると、店に飛び込んできた。
「おじちゃん、父さんを・・・助けて・・・。おじちゃん、お医者なんでしょう?」
 少年の目は、また涙でうるんでいた。
 少年が家に戻ると、庭に父親が倒れていたと言う。父は屋根の雨漏りを修理していたが、足でも滑らせたのか、落下したらしい。息はしているが、意識は無い。少年は既に二軒の医者に駈け込んだが、一軒は休診で一軒は往診で不在だったそうだ。
「血は出ていなくて・・・うつ伏せで落ちたみたいで・・・頭は打ってないみたいで・・・落ちた場所は土で・・・」
 少年は、しゃくりあげながら、必要な事をオーマに伝えた。
「気が動転してるはずなのに、よくそこまで冷静に見たな。おまえさんは泣き虫だが、本当は強い男かもしれん」
 オーマは少年の髪をくしゃっと握った。そしてテーブルの下に置いてあった救急用の医療鞄を抱えた。
「さ、行くぞ。案内してくれ」

 男は、前のめりで落ちたらしく、後頭部に損傷は無かった。オーマが顔を近づけると、緩く呼吸を続けている。
「ゆっくり、衝撃の無いように仰向けの姿勢に直す。オヤジの足を持て。腰に力を入れて踏ん張れ」
 少年は頷いて、唇を噛みしめた。膝を曲げると、絆創膏がピンと伸びた。
 姿勢を変えると男は咳き込み、口の端から血の筋を垂らした。
「父さん!」と少年が悲鳴を上げる。
 オーマは男の口を開き「前歯が折れただけだ」と少年を落ち着かせた。
「だが、血が喉に詰まると厄介だ。部屋から枕を持って来な」
 オーマは枕代わりに自分の太股を男の首の下に通し気道を確保した。男の手首を取ると、脈はかなり遅かった。顔色も蒼白で、貧血による震えが出ている。
『ちっ、歯だけじゃねえな。どこか内出血してる』
 少年の持ってきた枕と腿を交換すると、オーマはボタンが飛び散るのも構わず男のシャツ前をはだけさせた。臍より拳一つほど高い場所の肌が、染みのように青黒く変色している。
 肋骨の下に軽く触れると、男は痛みで大きくのけぞった。
「肋骨が折れて胃に刺さっている。腹を開いて、早く骨を取り除かねえとヤバイ」
「ヤ、ヤバイって・・・。父さん、死ぬの?」
 ずっと水の膜が張っていた少年の瞳から、こらえ切れずぽろぽろと涙がこぼれた。
「死なねえように、手術するんだよ。手伝ってもらう。ハラくくれよっ!」
 少年の家は農家で、辺りは畑ばかりで民家は遠い。少年が助手代りの大人を呼びに行く時間は無かった。
 オーマは鞄を広げた。少年にはわからない器具や薬品がたくさん出てきた。オーマは瓶から液体を手に出してジャバジャバと洗い、「ほれ、お前も」と瓶を押しつけてきた。店で少年の膝を拭いた薬品と似た匂い、だがもっとつんときつく鼻に迫った。
「麻酔は・・・。いいか、気絶してるし。時間が惜しい」
 その後、脱脂綿にその液をたっぷり含ませ、父親の腹を撫でた。オーマは片手に収まる小型のナイフを手にした。
「も、も、もしかして、『腹を開く』って・・・。父さんのお腹を切るの?」
 歯も噛み合わぬ口調で少年が問う。オーマはにこりともせずに、一掴みのガーゼと、一本のピンセットを少年に手渡した。
「俺の腕前なら、切ってもそう出血はさせん。だが、骨の刺さった部分からかなり血が出ているはずだ。おまえさんは、俺の指示でこれで血を吸い取っていけ」
「ぼ、僕が?血を?えっ・・・」
「ヒビってんじゃねえ!血が溢れて手元が見えなかったら、俺は作業ができねえだろっ」
 オーマは、怒鳴りながらも、内出血の部分をすっと縦にナイフでなぞった。あまりに軽くて素早い動きだったので、切ったのだと少年が気づいたのは、ピンクの肉が見えたてからだった。オーマの左手がピンセットで肉を摘まみ、氷のような視線が損傷箇所を探った。獲物を捜す鷹の目に似ていた。
 少年は顔をそむけ吐き気を抑えた。胃の中のものがこみ上げて来る。父親の腹が今切られている。作業は音もしなかったが、少年が赤茶の土を見つめて嘔吐と闘う間も、オーマは父の肉に視線を走らせているのだ。
「ボウズ、ちゃんとピンセットを握れ。おまえしかやる奴がいねえんだ。早くしろ」
 オーマの口調は静かだったが、怒声よりも凄味があって、少年の手は震えた。ガーゼが揺れるのは風のせいでは無い。
『そ、そうだ。僕しか居ないんだ。やらなきゃ』
 少年は自分を奮い立たせた。ピンセットを握り直した。
「端を血に漬けただけで、吸い込んでくれる。重くなったら、捨ててすぐ次のに替えろ」
 オーマの言葉が耳鳴りみたいに頭に響いた。だが、意味はきちんと把握できた。
 少年の腕に筋が立った。指に力を入れ、血溜まりの中にガーゼを近づける。すうっと赤い色が白い布を昇って行く。布に重みが増す。それを土に放り、新しいガーゼを掴む。少年は、何度かその作業をくり返した。
 生臭い血の匂いに胸がむかむかした。幾度も涙目になったが、『泣くな!』と言い聞かせた。泣いたら手元が見えない。作業に支障が出る。泣くな。絶対に落ちるな、涙!
「ようし。刺さった骨が見えた」
 オーマは小骨をピンセットで引き抜くと、内臓の傷口に『命の水』の魔法を施した。傷口は瞬時に塞がり、出血も止まった。
「肋骨の方は自然治癒に任そう。・・・ボウズ、よく頑張ったな」
 オーマの言葉を聞いた瞬間、少年はがまんの緊張が切れ、背を向けて土の上に嘔吐した。膝をついて、はいつくばって吐いた。苦しくて涙がこぼれた。最後には胃液しか出て来なかった。胃がきりきりと痛んだ。だが、骨が刺さった父の痛みは、これ以上だったはずだ。
 オーマは苦笑しながら少年を眺めつつ、ピンセットでガーゼを摘まみ、残りの血を吸い取った。「切開の傷は、魔法じゃ無理か」と面倒臭そうにつぶやくと、針と糸で縫合した。縫うと親指の長さ程度の傷になった。
「ボウズ、あとはオヤジさんをベッドに運ぶだけだ。と言っても、さすがにそれは俺とおまえさんの二人じゃ無理だな。
 走れるか?近所の大人を三、四人集めて来い。爺さんじゃダメだぞ。力仕事の得意そうな奴だ」
「うん。大丈夫」と、少年は立ち上がった。
 オーマは笑みを浮かべた。
「おまえさんは、たいしたガキだよ。大人の男にだってきつい作業だった。だが、きっとやれると思ってた」
 少年も微笑みを返した。もう、オーマを怖いとは思っていない自分に気づく。
 自分の背が、少しだけ高くなっているような気がした。

 少年は、大人を呼びに、畑の間の道を勢いよく駈け出した。右膝の絆創膏が剥がれかけ、パタパタと邪魔くさく鳴った。少年は無造作にそれを剥がし捨てる。
 そして再び走り出した。少年の髪がなびいていた。

<END>