<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


残された言葉と伝えられなかった言葉

【T】

 鋭い日差しが疲弊した躰に突き刺さる。
 空白に満たされた胃袋を満たしてくれるものはもうない。食い扶持を稼ぎながらあてもなく旅を続けてきたが、最早限界かもしれないという予感が脳裏を掠める。そもそもこうして立っていることさえ不確かなのだ。歩いているのが自分であるのだという確証もない。総ての感覚が遠く、今目の前に広がる大地に躰を投げ出してしまいたいような衝動を覚える。けれど同時にそんなことをしたら最後だというのもわかる。朦朧としている頭でも今どうすれば後戻りができないかくらいはわかっているのである。
 せめてあと少しだけ。重たい足を引きずるようにしてシュライール・ヴェルガは前に進む。
 もう、ここはソーンなのだ。もう少し躰がまっとうに動いてくれれば、何がしかの助けを得られる筈だった。まだ死ねないと思う。たとえ帰る場所がなくとも、まだ生きていなければならないような気がする。生きていることの価値などを知っているわけではなかった。
 ただ今ここでは死ねないのだと、そう強く思うだけである。
 重たい躰を引きずるようにして一歩を進めると、不意に柔らかな音が自然の喧騒の合間を縫うようにして響いてくるのがわかった。躰が重力を忘れるような温かで、柔らかな声音。それに導かれるようにしてシュライールは声のするほうへと爪先を向ける。
 心洗われるような声があるとしたら、きっとこんな声のことを云うのだろう。思いながらシュライールがふっと顔を上げると鮮やかな緑を茂らせた木々の下、差し伸べた白く細い指先で小鳥たちと戯れながら眩しいほどの笑顔で唄う少女の姿があった。柔らかな淡紅色の髪が揺れる。青い瞳は微笑みを絶やさず、戯れに髪を撫ぜる小鳥を嗜める時も擽ったそうに深く笑みを刻むだけだ。純粋無垢なその姿に、シュライールは眩暈にも似たものを感じる。
 ―――まるで、そう、天使のようだ……。
 思うと同時に意識がほそくほつれる糸のようにして遠のいていくのがわかる。傾ぐ躰に痛みを感じなかったのはすっかり意識を手放してしまっていたからだった。
 不意に辺りに響いていた唄声が止む。
 そして小鳥たちが少女から離れていく。
 少女は不意に自身の唄を遮った鈍い音の根源を探すかのように、心配そうに辺りを見まわす。そして倒れたシュライールの姿を見つけると、咄嗟に駆け寄り抱き起こした。しかしさすがに少女の細い腕に青年の躰は重く圧し掛かる。少女は、ティアラ・リリスはふと目に止まった通りすがりの男に声をかける。
「あのっ!この人を劇場の医務室に運んで下さいませんか。『セフェイアール』に!お願いします!!」
 声にはたと足を止めた男が一人近付いてくるとそっとシュライールの手首の辺りに触れて、ティアラに向かって微笑みかけた。
「大丈夫だ。心配ない。―――どれ、行こうか」
 云って、シュライールの腕を自分の肩にかけるような格好で抱き上げ、引きずるようにしながら大劇場セフィアールへと向かう。
「……あの、本当に大丈夫なんでしょうか?」
 シュライールを抱えていても変わらない男の大きなストライドに必死になって付いて行きながら、ティアラは問う。すると男はティアラを安心させるように笑って、答えた。
「これでも私は医者なんだよ」
 その一言にティアラはようやく曇らせていた表情に光りを取り戻し、鮮やかな微笑みを見せた。


【U】


 早く目を覚まして。
 祈るような気持ちでシュライールの傍らに付き添って、先ほどここまでシュライールを運んでくれた医者だという男の言葉を思い出す。
 ―――疲れているだけだ。回復すれば自ずと目を覚ますだろう。
 何度も何度も頭のなかで繰り返しすぎて、わからなくなってしまった言葉。
 だから今はとにかくシュライールが目を覚ましてくれることだけを待っていた。医者の言葉でも目を覚ましてくれなければ嘘になるのだ。思って、ティアラはふとどうしてこんなにもシュライールを心配しているのだろうかと思う。初めて出会った、それも行き倒れていた人間を相手にどうしてこんなに落ち着かない気持ちになるのだろう。
「んっ……」
 不意にシュライールの乾いた唇から音が漏れる。それに続いてゆっくりと目蓋が押し上げられた。
 それを見とめてようやく安堵したティアラは満面の笑みを浮かべて云った。
「お目覚めですか?」
 ベッドの縁に両手を突いて、シュライールの顔を覗き込むようにしてティアラが問う。するとシュライールはそっと顔をそらすように俯けて、
「悪いが……何か食べ物をもらえないだろうか……」
と掠れた声で呟いた。
「あっ、はい!気付かなくてごめんなさい。少し待っててもらえますか?今すぐ何か食べられるものを探して来ますね」
 慌てて医務室を飛び出して行くティアラの小さな背中を見送って、誰なのだろうかとシュライールは思う。どうして自分がここにいるのかも判然としない。そもそもここがどこなのかさえわからなかった。ソーンに辿り着いたところまでの記憶は残されている。そして唄を聞いたことも。
 そしてシュライールは、あの少女なのだと思った。
 掠れた記憶が一人の少女の姿を描く。
 ―――助けてくれたのか……。
 上体を起こして少女が出ていったばかりのドアを眺めて、誰かに似ているような気がした。耳の奥に残る声がもたらす錯覚だろうか。思いながらも懐かしさに向かう思考を止めることはかなわない。



【V】




 病み上がりには軽めのものをと思って厨房で見繕った食べ物を乗せたトレーを戻って帰ると、シュライールは短く礼を云って静かに食事を始めた。
 ティアラはその側を離れようとはせず、シュライールもそれを露骨に煩わしがるようなことはしなかった。
「ティアラ・リリスと云います。この劇場で唄っているんです」
 その一言を発端にティアラは多くの疑問をシュライールにぶつけたが、シュライールがそれに答えることはなくぶつけられた疑問の多くは届く前に空中に溶けていった。淋しげに目を伏せながら、決して卑しくなるというわけでもなく着実に食べ物を摂取していく。こんなにも綺麗に食事をする人がいるなんて、思いながらパンをちぎるシュライールの指先を眺めて云った。
「きれいな手ね」
 笑うとシュライールが不意に真っ直ぐにティアラを見た。それは見てはいけないもの、気付いていけないものに気付いてしまったというような表情だった。そしてそれが消えたと思うと、水底に沈みこむようにして二つの眸が淋しさのなかに沈んでいく。
「……あの…」
 不意に口をついてこぼれそうになる言葉を飲みこむ。
 ―――淋しいの?
 そんなことを初対面の相手に対して云っていいものなのかどうかティアラにはわからなかった。
 シュライールの眸から淋しさは消えない。ひっそりと着実に、眸の奥を支配しているそれ。その原因がわかったところで、どうなるとも思えなかったが遠い昔を懐かしむようなその淋しさがこれからの日々、少しでも癒されればいいとティアラは思う。
「……食事まで用意してもらってすまないが、少しの間、一人にしてくれないか」
 ティアラはその言葉に僅かに躊躇いながらも小さく頷き、ドアへと向かう。シュライールはふと自分の手に視線を落とし、先ほどのティアラの言葉を思い出した。
 ―――きれいな手ね。
 思い出された言葉がシュライールの唇から言葉を綴る。
「ありがとう……」
 その言葉にティアラははっと振り返る。
 そして何に対してのありがとうなのかも確かめることなく、満面の笑みを浮かべて云った。
「どうしたしまして」
 それだけでいいとでもいうような笑顔だった。
 まるで妹がそこにいるような気がした。失われてしまった妹が、そんなことはなかったのだというようにして目の前にいて笑っていてくれるような気がした。
 だから辛かった。
 同じ部屋にいることが、同じ空気を感じていることが、ティアラの存在総てが辛かった。


*****


 医務室のドアを後ろ手に閉めて、そっと寄りかかるようにしてティアラは天井を仰ぐ。
 そうでもしていなければ泣き出してしまいそうだった。自分が答えたたった一言に、どうしてあの人はあんなにも鮮やかに笑ったりするのだろう。どういたしまして、という一言に、何故にもあんなに安堵したような、懐かしみ慈しむような笑みを向けたりするのだろうか。
 ―――淋しい人……。
 声には出せない言葉がティアラの小さな胸を痛める。
 きっと大切な何かを、多くのものを失ってきたのだろう予感がする。
 そんな眸の温度。
 冷たいようで暖かい。
 まっすぐに相手を見ることのできないやさしい眸。
 それを振りきるようにティアラはそっと医務室を離れた。



【W】




 ティアラが再度部屋を訪れると、そこには夥しい空白が横たわっているだけだった。
 ベッドはきちんと整えられ、そこに誰かがいた気配など微塵もない。ただひっそりと走り書きが残されていただけだ。

『世話になった』

 どうして……。
 ティアラは思って窓から身を乗りだし外を確かめ、走り書きを握り締めたまま廊下を書けぬけ劇場の外へと飛び出した。
 しかしどこを見まわしてもシュライールの姿はない。多くの人々はシュライールの姿を隠し、遠くへ追いやってしまったようだった。
 そしてふと、名前を呼ぼうとして気付く。
 名前さえも聞いていなかった。
 思い出せるのは銀の髪と白い肌。
 そしてあの淋しげな眸だけだ。
 もしこのソーンのどこかにいるのなら、思ってティアラは踵を返した。握り締めた走り書きは皺になり、伸ばしても元通りにはなりそうになかった。それでもティアラはそれを大切なもののように抱きしめて、もしこの世界のどこかにいるのならきっといつかまた会えるだろうと思った。
 そしてそれが叶う日が来るのなら、その時は必ず真っ先に名前を聞こうと思う。
 今はただ信じていることしかできないけれど、世界は思っているよりも奇跡に満ちている……―――
 ティアラはそう思って、細い声で呟くように歌を紡ぎながら劇場へと歩を進めた。