<東京怪談ノベル(シングル)>


森羅の乙女[しんらのむすめ]
 ――…落ちる。落ちる。
 …離された手は、拒絶の証。
 落ちていく――ゆっくりと。ゆっくりと。
 絶望と言う、重石を付けて。
 その時空が何色だったか――今も、思い出せずにいる。

 気付けば、
 森の中に居た。
 自分が捨てられたのだと、要らなかったのだと…理解するのに時間はいらなかった。
 ぼろぼろの身体が、――それ以上に傷だらけの心が、痛みを訴えていたから。

*

「―――」
 今も、落ちて来たあの日のことを夢に見る。そして、目覚め――柔らかな苔に横たわった身体を、実感する。
 ここに来てどのくらい経ったのだろうか。時間の感覚も、季節も無いこの『森』の中では、時間などというものは存在していないようだった。
 ここなら自分の心を騒がせる物は何一つ無い。
 極めて穏やかな日々は、感情も感覚も鈍く融けて大地へと吸い込まれていきそうだった。
 だが…自分が異端だと言う事も判っていた。
 いつかは、出て行かなければならないことも…。

「長老さま。お呼びでしょうか」
『来たか。――ここへ』
「はい」
 ヒトが訪うことの無い、深い森の更に奥――伝説では魔の領域とされる、森の主。幾年の月日を此処でこうしてきたのか、どっしりとした身体に青々とした葉を湛えた老樹は、低い穏やかな『声』を『少女』に向けた。
『まだ、迷って居るのか』
「――」
 その言葉にちいさく、唇を噛む。
 ――さわさわ。さわさわ。
 森を通る風の挨拶に答えるように、上空で枝をゆすり、葉を鳴らす音が聞こえて来る。
 それは、ゆっくりと…『少女』の背を撫ぜ、そして穏やかに促した。…こくり、と、小さな喉が鳴る。
「わたくしは…怖いのです」
『怖い、とな』
 この『世界』へ落ちて来た時に、森の一枝、風の一息、花の微香…それらで包み、迎え入れた老樹がゆっくりと言葉を繰り返す。――はい、と頷き、少女は続け、
「外へ出て行くことが――再び、他のものと交わることが…何より、怖いのです」
 語尾を濁らせ、そっと俯く。さら…と、柔らかな髪が頬に滑り落ちた。――いつかの昔に、綺麗だと言われた…その髪も、今は光を必要としない森に在って輝きを失っている。
「長老さまには、私のような者など却ってお邪魔になるのでしょうけれど…」
『わたしも、お前を、捨てると?』
「いいえ!」
 びくりと顔が跳ね上がる。良く考えもせずに否定してしまったが、それと同時にずきりと無意識に押さえた胸が痛んだ。根本はその通りだと知っているから。なのに否定したのは、“このひとには自分を捨てて欲しくない”その願望があったがためだ。
 それは、この、森の父であり母である主を信頼している故の言葉ではない。
 自分自身が何よりもそのことを良く分かっていた。
『――娘よ』
 不意に、老樹が重々しい声になる。
『娘よ――だが、このままでは、森の掟に従わねばならぬ。この森を訪れた者はいつかは去らねばならないのだ』
「どうしても、ですか?」
 少女の声が震えた。
「わたくしは…迎えられたと思いました。とても、とても穏やかな毎日でした――でも…やはり…ここでも」
 捨てられてしまうのですか。
 最後まで、言葉を続ける事は出来なかった。――老樹に顔を向け続けることも。
『…娘よ。違うのだよ』
 さわ、さわ。
 何かが――少女の目に触れ、その涙を拭い取る。
『森には、役目を持たぬ者の居場所は無いのだ。…森に吸い取られて、消えてしまう』
 吸い取られる。
 身体から何かが滲み出て、大地へと染み込んで行く。毎日、ほんの僅かずつ…何かを、奪われていく。
 とうに気付いていた。朝、目が覚める度に重くなっていく体に。
 ああ、でも。
 このまま、溶けていけるならと。
 それも――きっと、心地よいと――思ったから。
『森を出るのは、嫌か』
「…はい」
 ゆっくりと、頷きながら顔を上げた。
『………』
 何故だか、その時老樹は何かを言いかけて――そして、森の主、植物の主たる大樹は、少女が来てから初めて躊躇う様子を見せた。――ざわ、と葉が鳴る。老樹の葛藤を表すように、数枚の葉が少女の肩を撫で落ちた。

*

「長老さま」
 再び少女が老樹を訪れる。やや硬いその声には、何らかの意思が込められており…不思議そうに、木々がさわさわ…と葉を穏やかに揺らした。
「森を出ることと、森とひとつになること…わたくしが取ることの出来る道を2つ言われましたね」
『……』
 言葉は無いが、肯定の意思は伝わってくる。どうするつもりなのかと、人であれば息を呑んでいるだろう、気配。
「もうひとつ…我侭を聞いていただけないでしょうか?」
 今にも透き通ってしまいそうな、細い体。それでも声は伸びやかに、今までに無く朗らかで。
『…何かね』
 対する老樹も穏やかに問い掛ける。
「お役目を下さい。――森で、暮らしていくためのお役目を」
『―――』
 黙した木が、黙ったまま葉を揺らす。
『――その言葉の意味を理解しているのか、娘よ』
「判っています。変わってしまうこと…そして、戻れなくなる事」
 必死に語りかける、少女。
 しん、と『森』が息を止めた。主の言葉を待って、息を潜めている、そんな感じがする。
『わかった。――役目を与えよう。森の主たる我の命によって。そなたの命を契約の証として』
 やがて迷いも無くなったのか、おごそかな声が決定を告げる――その言葉は、森に、空に、水に、地に――全ての植物に、響いていく。
『この者を“花守り”に任命する。それは、森の花嫁、森の血族、我が一族に連なる者…』
 ふわり、と。
 少女の髪が舞った。
 森から新たな命と役割を与えられ、その姿も――質も、変わっていく。そして気付いた。森が、『光』に満ち溢れていることを。それが――命の輝きだと言う事を。
 不思議そうに自分の指先を見つめる少女を、今までは見えなかった風の精霊がにこりと笑い、その唇に甘い香りの口付けを贈った。
『おめでとう。お前は今日、生まれたのだ――“我が娘”よ』
 ごく穏やかな、老樹の声。そして更に告げる。
『ふむ――そうなると、もう1つ必要になるな。良い名を贈るとしよう』
 少女の口が、ゆっくりと笑みの形を描いていく。そのすんなりとした立ち姿を見たか、木はゆっくりと告げた。


『アンフィサ・フロスト――白い花のような我が娘に』


-END-