<東京怪談ノベル(シングル)>
お弁当協奏曲
厨房。
食物を調理する所。台所。調理場。くりや。
いちいち説明も要らないだろう。料理をするための場所である。
そこに決死の覚悟で挑む少女の姿がある。白いエプロンもまぶしいその姿は何故か修行僧を思わせる。
何故か?
何故も何もないのかもしれない。それこそ修行僧のような決意を持って、彼女は厨房に立っているのだから。
彼女――リラ・サファトは。
とんとんとものを刻む心地のよいリズムが厨房にこだましていた。そろそろ夜も明け始めている。宿の厨房は客の朝食のための下ごしらえの時間帯だ。取れたての野菜が綺麗に現れて切りそろえられ、やはり仕入れたての肉に下味がつけられ、魚のあらが取り払われる。小さな宿でも朝はそれなりに戦場である。誰もに朝は平等に訪れて、そして誰もがその日一日を始めるための糧として朝食を求める。泊り客に対してそれを振舞わないわけには行かない。
スープを煮込むとろりとした香り、包丁の音。
心地よいはずのそれらに混じって、どうしようもない不協和音が混じりこんでいた。
音は本来なら使われていない厨房の隅の一角から響いている。香りはやはり普段であれば夕食からその後の酒肴の時間までしか使われない予備のかまどから漂っていた。香りのみならず煙も一緒に。
「……う、うう」
小さく呻いたリラは恐る恐る刻んだばかりのきゅうりを持ち上げてみた。
ずんばらり。
見事にアコーディオン状につながったそれはきゅうりというよりは楽器のように見えた。大きさも不ぞろいであるから楽器にしてもその任に堪えうるかどうかは微妙なところだろう。
「…………12本目」
呟いてリラは新しいきゅうりを傍らの籠から取り出す。
失敗も考えてたっぷりと用意したはずの野菜はいまや殆ど底を突きかけていた。
因みにリラが失敗した野菜の類は、厨房を取り仕切るおかみさんが引き受けて野菜ジュースにしたり、スープにしたりサラダにしたりと無駄のないように処理してくれている。
――というより今にも泣きそうな顔でそれらの残骸を捨てようとしたリラを見かねて、その場で料理してくれたのだ。
「今度こそ……」
勢い込んで包丁を握ったリラに向かってその宿屋のおかみさんが叫んだ。
「リラちゃんチキン!」
「あ!」
慌ててかまどに駆け寄ったリラは通産何本目かもうわからない鶏の足が無残な墨に変わっていく瞬間を目撃した。
宿屋のおかみさんに頼み込んで厨房を使わせてもらうこと数時間。
夜明け前に始めた『お弁当作り』は一品さえまともに仕上がることなく夜明けを向かえ、厨房の使用時間を迎え、宿の客が朝食をとりだしてもまだ状況は好転しない。
殆ど絶望的な気分でリラは天を仰いだ。正確には厨房の天井だがそこは気分というものである。
恋人の為にと張り切ってみたものの、結果はこうである。
苦手だとか不器用だとかそういう問題にさえなっていない。お菓子などはそれなりに作ったこともあったのだが、食事、それもお弁当となると大分勝手が違った。――控え目な表現だが。
「……どうしよう」
これでは食べては貰えない。恋人は自分よりずっと器用で、だからその恋人の話に出てくる従妹もきっと――
思考はネガティブになり、顔はどんどん暗くなる。
現実問題として、サンドイッチに挟む予定のきゅうりがアコーディオンでは慰めの言葉もない。
それでもやっぱりと再び包丁を握れたのは、きっと、それでもやっぱり手作りのお弁当を楽しんで欲しかったからだった。
宿の客の朝食が一段落付いたおかみさんは今だ悪戦苦闘しているリラをみて目を丸くした。
「まだやってたのかい?」
「出来るまでやります」
とことん座った目つきでそう帰されて、おかみさんはやれやれと肩をすくめた。
「そうだねえ、だったら失敗しないで済む方法を伝授してやろうかね」
もう完全に不出来な娘を見守る心境で、期待に顔を輝かせるリラの頭を、おかみさんはぽんと叩いた。
出来上がったのはサンドイッチのみ。
中身はみじん切りにしたきゅうりとハムをマヨネーズで合えたものと、やはりみじん切りのきゅうりとゆで卵をマヨネーズで合えたもの。
みじん切りなら不ぞろいだろうとアコーディオンだろうともう正体はわからない。
完璧とまでは行かないが、そこそこ見栄えのいいそれをランチバスケットに詰め込んで、リラはおかみさんに深々と頭を下げると恋人の下へと走っていった。
とてもとても幸せな気分で。
――後日。
野宿などの時に使う携帯用の調味料にでかでかと『しお』『さとう』などの表示がされるに至ってリラはおかみさんの行為も何も完全に別世界の部分で自分がとんでもない過ちを犯していたことをうすうすながら悟ることとなるが、それはまた別の話である。
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