<PCシチュエーションノベル(グループ3)>
リラに添う熱
リラ冷え。
リラの――――ライラックの花咲く頃、落ちる夕陽の赤さの中、急にしんと空気が冷え込むことがある。だから、リラ冷え。
この手の先が、足の先が今も冷たいのは、これもリラ冷えなのかしら、と思う。
まるで夕焼けに染まっているかのように熱を帯びた頬が赤らんでも、リラ冷えの四肢はいつもと変わらず、追憶の残り香をそこに留め置こうとする。
リラは、可憐に香る花。
小さな花を溢れんばかり咲き纏わせて、あなたの世界を彩る花。
あの日リラ冷えの心に触れたのは、あなたの――――。
SCENE-[1] 聖なる場処から。
「……今日も顔を見せてはくれませんでしたね」
高遠聖はそう呟くと、手許に開いていた聖書をぱたんと閉じ、小さく溜息吐いた。
古めかしい造り乍ら嵐にも負けぬ芯の強さを有し、細部まで大切に築かれたのがよく分かる教会。光を透かせて美しく映えるステンドグラスにしても、磨かれるたびに浄らかな光沢を増す柱にしても、時を経るとともに内側から滲み出てくる佳さがある。それは、聖の心に宿る祈りの気持ちにもどこか似ている。この世を生き、大事に思う人が増えれば増えるほどに深みを備え、一層しなやかに天を仰ぐ聖の心気は、この教会の在り方に無理なく添っているようだった。
大事に、思う人。
リラ・サファトもその一人である。
小柄な体躯に、腰まで届く豊かなライラック色の髪を揺らし、好奇心に輝く愛らしい眸を瞬かせる少女。
聖にとって親友と呼ぶに相応しい彼女の姿を、ここ数日見ていない。
以前から三日にあげず教会に出向いて来てくれていたリラであるだけに、何とはなしに心がざわめく。
「たまにはこちらから、様子を見に行ってみましょうか……」
閉じた聖書を軽く胸に抱えると、聖はその紅の双眸を、静謐さの降り積もる聖堂祭壇から外界へと続く扉へ向けた。
今日は穏やかな晴天。
扉の向こうでは、夕暮れ時の微風と淡い花の香が聖を待っているだろう。
そしてきっと、リラも。
SCENE-[2] 紫陽花の季、リラに添う熱。
「んん……」
畳上に敷いた蒲団の中でリラが小さく声を上げ、僅かに身を捩った。その頬が、赤く火照っている。
リラは四日ほど前からどうにも体調が優れず、風邪気味なのかな、と気になり始めた矢先、軽い眩暈を覚えて家の縁側で頽れてしまった。濡れ縁に腰掛けて庭を美しく咲き彩る紫陽花の青紫に暫し見惚れ、そろそろ聖の教会に差し入れでも持って行こうかと腰を上げた途端の眩暈だった。
「リラさん!」
幸い、すぐ近くにいた彼がリラの異変に気付き、縁側から庭へと彼女の体が傾ぐのを抱き留め、事なきを得た。が、その彼の手によってすぐさま蒲団に寝かされたリラは、以来、そこから動けなくなってしまった。
リラを腕に支えた彼――――名を、藤野羽月と言う。
異世界、東京からの迷い人で、常に和装の藍染に身を包んだ、黒髪に空色の眸の少年である。齢の頃、十五。
少し前までこの地の宿屋を巡り歩いていたが、最近、リラと伴に暮らす一軒家を借りた。それが、この邸宅である。自身の出身地でよく見かけたと同じ純和風造りの邸。玄関の格子戸は松、廊下は杉、ところにより檜。瓦屋根に畳敷きの間。床の間には水墨画の掛軸。縁側に面した庭はそれほどの広さはないものの、遣り水や庭石が用意され、季節の花が植えられている。今の時季は、紫陽花が見頃だ。
心から大切に思う人のそばで、他の誰よりその人の近くで、時を過ごしたい。
そう思ったのは、羽月だけではなかった。
リラもまた、同じ思いで彼の手を取った。
一見して普通の人間、羽月と同じ十五歳の華奢な少女にしか見えないリラは、その実、体の半分ほどを機械で補っている存在である。過去、事故で大火傷を負い、生命を維持するために父親によって施された処置がそれであり、その特殊な事情からかリラは記憶に自信が持てないという蟠りを抱えてもいる。
無意識の裡に、欠けた記憶のピースを探し出し、胸に空いた虚を埋めたがってでもいるように――――毎夜、不思議な夢を見る。
春の日の陽炎の如く淡く立ち昇る、夢の中の人。
顔は、分からない。
穏やかな声音も、優しい手の感触も、覚醒と同時に掠れた色彩の向こうに沈み、それが本当に自分の記憶の断片なのかさえ曖昧で、不安になる。
(あなたは……だれ?)
問いかけても、答えはない。
そんなとき、必ずリラが手に取るのが、『村長』である。
揺らめいて今にも掻き消えそうな輪郭以外持たない夢とは対照的な、きっぱりと眼に鮮やかな黄の体に、円らな眸。得意げに突き出た嘴。そう、リラの『村長』は、いわゆる黄色いアヒル――――小さな子が湯船に浮かべて遊ぶような、玩具のアヒルだ。
以前、羽月と一緒に街へ出掛け、とある小物雑貨店で見かけて、リラが一目惚れをしてしまった相手。棚の上に幾つか同じアヒルが並べられていたのだが、その中の一匹と眼が合った。いや、正確には、眼が合ったような気がした。瞬間、そのあまりの可愛らしさに、リラは思わず羽月の袖を引いていた。
普段、滅多に羽月におねだりなどしないリラだったが、このときばかりは「この子が欲しい」と自分から意思表示をした。結果、羽月の笑顔と伴に黄色いアヒルはリラの掌中に収まり、それ以降、二人の家に身を落ち着けている。リラがアヒルの名を『村長』に決定したときには、羽月は少し頸を傾げた後、肯いて、「宜しく頼む、村長」と言ってリラを喜ばせたものだった。
その村長は、今、病を得て休んでいるリラの枕許に置かれている。
村長の見守る中、重そうな掛け蒲団を顎先までしっかり被せられたリラの華奢な体は、明らかに蒲団の中に埋もれて圧迫されていた。寝返りすら上手に打てない。
水差しとコップ、それから甘い物好きのリラがこのところ好んで口にしている黒蜜団子の皿が、蒲団脇の円盆の上にまとめて載せ置かれ、その隣には羽月がきっちり正坐していた。
「……大丈夫か?」
時折苦しげな息を吐くリラに困惑げな視線を下ろし、羽月は彼女の額に手を置いた。
――――熱い。
自分の額と較べても、否、較べずともそれと分かるほどに熱い。
この邸に住み始めてから、リラがこんな高熱を発するのは初めてである。羽月自身も、まだそれらしい病に冒されたことはない。
「……リラさん……」
羽月は呟くように名を呼び、躊躇いがちに蒲団の端へ手を差し入れると、リラの手をそっと握った。
高熱の折にも、そこだけは、冷たかった。
SCENE-[3] 神父の来訪。
「……これは……」
聖は、リラから聞いていた住所を辿って、とりあえず迷うこともなく彼女とその恋人、羽月の住む家へと行き着いた。
(いつもリラはこの道を通って、教会まで来てくれるのですね)
道々そんなことを考え、自然、聖の眼許に柔らかな笑みが過ぎった。そしてその笑みは、リラの家を視界に捉えたときに驚きの表情に置き換わった。
「……和風邸宅、ですか。それも、随分と立派な」
ひとり言ち、いつもリラが何か知ら差し入れてくれるお返しにと携えて来た、手土産のパンの籠を腕に抱え直した。出掛けに教会のシスターが焼き上げたばかりのパンで、まだ温かく、香ばしい匂いが夕風に舞い上げられて鼻先を擽る。
暫し玄関先に立ち尽くした聖は、いつまでこうしていても仕方ないと、カラリ、格子戸を開け、
「すみません」
家屋奥へ向かって挨拶した。
それに応じる返辞はなく、聖は、主人の留守を感じさせるような静けさだけが周囲に漂っていることに微かな不安を覚えつつ、もう一言。
「すみません、……リラ、羽月さん、お留守ですか?」
玄関から中へ身を乗り出すようにして、声をかけた。
――――と。
バタバタと慌ただしく廊下を駈けて来る跫音が聞こえ、羽月が姿を現した。
「聖か!」
「……こんにちは」
妙に忙しない羽月の出迎え方に、聖は思わず失笑した。
「どうかしましたか? あなたがそんな風に度を失って跫音高く駈け出て来るなんて……」
「熱が」
「……え? 熱?」
「リラさんが」
熱。
リラさんが。
それを聞いた途端、聖はパッと笑いをおさめ、「リラの休んでいる寝室はどちらですか」と羽月に案内を請うた。
羽月は今来た廊下を同じように戻り、蒲団の中で軽く咳き込んでいるリラの許へ聖を連れて行った。
「リラ」
聖は手にしていたパンの籠を羽月の胸に押し付けると、リラの蒲団にすっと膝を寄せた。
「リラ、僕です。聖です。……分かりますか」
「……ひじ……り? ……あれ……? どうして……ここにいるの?」
僅かに掠れた声でリラが応じ、閉じていた瞼をゆっくり押し上げた。髪と同じ色の、ライラックの花に落ちた雫のような煌めきを有した眸が、聖の前に現れる。
聖はその双眸に向かって肯き、
「このところ、リラの姿を見ていなかったものですから、少し淋しくなったのですよ。それで、ここまで逢いに来たのですが」
そう言って、部屋の襖前で立ち往生している羽月にちらと眼を遣り、小さく溜息を吐いた。
「……事情は大体分かりました。リラは風邪で寝込んでいたのですね。……羽月さん、見たところ、それらしい看病の形跡が見当たらないのですが」
「い、いや、一応体力を付けた方がいいだろうと、雑炊くらいは作ってみたのだが」
「熱が高い間は、いきなり物を食べろと言っても難しいでしょう。それに、真冬でもないのにこんなに重そうな掛け蒲団、リラも苦しいのではないかと思うのですが」
「え? ……苦しい、だろうか」
羽月は籠を抱えたまま、心配そうな視線をリラに送った。
聖は、
「リラ、少しだけ待っていてくださいね。またすぐに戻りますから」
リラにそう微笑みかけてからすっくと立ち上がり、羽月を促して廊下に出ると、後ろ手に部屋の襖障子を閉めた。
「……羽月さん」
「ああ」
「僕は、いったん教会に戻って、色々と準備をして来ますから」
「準備? 何の準備だ」
「リラの看病の準備に決まっているでしょう。必要な物を揃えて来ます。その後、リラの病が去るまで、暫くここにご厄介になりますよ」
聖の宣言に、羽月は数度眼を屡叩かせ、それから曖昧に頸を振った。
縦にでも横にでもなく、――――斜めに。
SCENE-[4] 聖と羽月の攻防。
「では、そういうことで」
聖の微笑に何を問い返す暇もなく、羽月の鼻先で襖障子がぴしゃりと閉じ合わされた。
「……、な……」
一拍遅れて、羽月が眼前の障子に向かって噛み付いた。
「何が……、何が『そういうことで』なのか説明せんか、聖!」
教会から戻るやリラの寝間に消えた聖は、内側から戸に閊え棒を噛ませ乍ら、廊下にいる羽月の焦れた声に応答した。
「リラには休養が必要なんです。羽月さんがいると、気になってゆっくり眠れないかもしれませんから」
「私がいると……? それは、暗に私が邪魔だと言いたいのか?」
「そうは言っていませんよ。ただ、今のリラにはきっと、羽月さんより僕が必要なんです」
「貴様、何をいけしゃあしゃあと……っ」
如何にも気分を害したと言わんばかりの羽月の語調に、聖は軽く肩を竦め、小さく苦笑した。
(今のは少し、言い過ぎましたね)
――――間違ったことは言っていないつもりだけれど。
実際、羽月がそばに付いていても、愛情がケアに還元されないのではリラの体調は一向に良くならないだろう。無論、恋人の存在は精神的な支えにはなろうが、先ずは解熱処置を優先して手を尽くさなければ、リラの体力が無駄に奪われてしまう。
だから、ここは多少羽月に恨まれようと、聖が出張らなければならない場面なのだ。
聖は羽月がガタガタと障子を揺らしているのを後目に、リラの蒲団に歩み寄り、教会から持って来た荷を解いた。
シスターお墨付の、熱冷ましの飲み薬。
保温効果と殺菌効果に優れたジンジャーティ。
美味しいと評判の石清水。
瑞々しいリンゴ。
保温瓶に入れてきた、作り置きの野菜スープ。
タオル。
キルトケット。
氷嚢。
「……リラ、少し……失礼します」
聖はリラに一言断ってから、重い掛け蒲団を剥ぎ、代わりに肌掛キルトケットに羽毛蒲団を被せた。すると、リラの表情がホッと緩んだように見えた。やはり蒲団の重みが胸部に負担を掛けていたのだろう、乱れ気味だった呼吸音にも静穏さが戻った。
氷を詰めた氷嚢にリラの頭を載せ、水に濡らして固く絞ったタオルを額に添える。薬を飲ませる前に何か胃に入れられるようなものを、と聖がリンゴを擂り始めたとき、背後で鈍い音がした。ドン、と何かが襖にぶつかるような音。
「……羽月さん?」
声をかけると、「ああ」と不機嫌そうな返辞があった。
その声の位置からして、どうやら先刻の音は、羽月が廊下に胡座をかいて背を襖に預けたために鳴ったものらしかった。
「……あなたがそんなところに坐り込んでいても、リラの具合は良くなりませんよ」
「だからと言って」
言葉を返しかけて、羽月はふと黙した。
(だからと言って、一人つらい思いをしているリラさんのそばを離れるのは心苦しい)
そう告げたかったのだが、何となく、口に出来なかった。
恋人のそばを離れたくないと我を張ったところで、近くにいても結局物の役に立たないのであれば、聖の言うように彼女の快復を遅らせるだけなのかもしれないのだ。
言えなかった言葉は吐息に姿を変え、床に落ちた。
――――が、しかし。
忍耐力というものにも、限界はある。
羽月にも、それはある。
当然、ある。
始めは大人しくリラの看病を聖に任せていた羽月も、さすがにそれが二日間も続くと、次第に我慢できなくなってきた。
生活を伴にし、毎日身近に見ていたリラの笑顔が消えて二日。
気にならないわけがないではないか。
しかも、襖障子を隔てた室内へは立ち入ることすら許されず、聖が優しげにリラに語りかける声ばかりが洩れ聞こえて来る。
ああ……、よかった、少しは薬が効いてきたようですね。
え? ……いいえ、僕のことは気にしないで。早くリラの元気な顔が見たいだけですから。
喉は渇きませんか? 水分はできるだけ摂った方がいいのですよ、こういうときは。
リラ、汗をかいているようですね。着替えましょうか。
「……っ、聖!」
日に何度もリラの寝間の前を行ったり来たりしていた羽月は、ついに襖に向かって仁王立ちした。室内からは、「何ですか、羽月さん」という素っ気ない返辞が返って来た。
「そろそろ、私も一目くらいリラさんに」
「もう少し元気になったら、いくらでも」
「もう少しもう少しとばかり言われても困る。言ってもらえれば、私にもできることは某かあるだろう? それにだ、貴様、いつまでここに」
「あ、リラ、大丈夫ですか?」
中で聖が身を捩る衣擦れの音がし、羽月は口を噤んだ。
リラを気遣うような言葉を聖が発すると、もう何も言えなくなってしまう。まるで、自分一人リラの養生の邪魔をしているかのようだ。
(……何やら、身の置き処がないな……)
羽月は懐手をして深い溜息を吐き、視線を縁側向こうの庭へ投げた。
先日、リラと二人並んで眺めた紫陽花の花が、緩やかな風に揺れていた。
――――羽月さん。
りぃんと鳴る鈴の音より少し甘いリラの声と、紫陽花より一際輝いて見えるその髪と眸の彩りが、羽月の心にふわり甦った。
SCENE-[5] 逢いたくて。
視界が、音が、熱に滲んで朧に揺れる。
夢を見るほどの眠りには誘われず、かといって覚醒しているとも言い難い、浮遊感の裡にぼうっと天井を見上げるだけの時間。
少し顔を横に向けるとそこに、見慣れた黒の神父服。
「……聖……?」
リラの声に、手許に視線を落として作業をしていた聖が顔を上げた。
その眼に、安堵にも似た穏やかな色が浮かぶ。
「顔色が良くなってきましたね、リラ」
「そう……? そういえば……少し、体、楽になったかも」
「そうですか。それはよかった」
リラは、ありがとう、と聖に向かって微笑むと、急にきょろきょろ落ち着きなく視線を彷徨わせ始めた。その唇から、囁くような声がこぼれる。
「……どうしたのかな」
「リラ? どうかしましたか」
「うん……、ねえ、聖? 羽月さん……は? どこ?」
「ああ、彼なら」
聖は体温計をリラに差し出し、
「暫く席を外してもらっています。リラには風邪を治すことに専念してほしかったものですから。夏風邪は長引くと言いますしね。……風邪が治ったら、すぐに逢わせてあげますよ。そのためにも、頑張って良くならないと。ほら、病は気から」
そう言って笑って見せた。
リラはじっと聖の笑顔をみつめた後、こくんと小さく肯き、
「そうよね。……羽月さんに、風邪、うつしたら大変だし……」
呟いて瞼を閉じ、蒲団の中できゅっと両手指を組み合わせた。
指の間に感じる、硬質な感触。
それは、羽月と揃いで嵌めている指環の持つ硬さ。
彼と自分とを繋ぐ大切な一環。
(……羽月さん、今、何してるのかな……)
聖の言うことは正しいと思うし、羽月に風邪をうつしたくはない。
でも。
それでも。
逢いたい、と。
そう想ってしまう気持ちは消えない。消せない。
体調を崩したのは自分なのだし、これだけ聖にしっかり面倒を看てもらっておいて、その上こんな風に思うのは、
(贅沢、なのかな……)
そんな気もするけれど。
――――羽月さんに逢えないのは、淋しい。
声にしないリラのその想いは、蒲団から手を伸ばしてアヒルの村長を胸に抱き取る行為に昇華された。村長は、横たわったリラの胸の上で、元気よく嘴を突き出した。
「……ん。早く、元気にならなくちゃ、ね」
リラはくすっと笑い、指先で村長の頭を撫でた。
SCENE-[6] 聖の居ぬ間に。
「では、そういうことで」
聖の微笑に何を問い返す暇もなく、羽月の鼻先で襖障子がぴしゃりと閉じ合わされた。
先達てはリラの部屋から追い出されたが、今度はリラの寝間の隣室に羽月が閉じ込められる羽目になった。
「貴様、いい加減にせんか! 私をこんな処に押し込めて、一体どういう了見だ? そこへ直れっ」
「そろそろ買い置きの物が尽きましたから、少々街に買い出しに出て来ます。今、リラは眠っていますから、その間騒ぎ立てないようお願いしますね」
声を荒げる羽月に事の次第をそう説明すると、聖は閊え棒で襖を固定し、その場を後にした。聖がリラの間を出たことで、襖が開かぬよう内側から細工できなくなった代わり、羽月の方を閉じ込めておく計画に変更したらしかった。
普段衣裳部屋として使っている一室に軟禁された羽月は、遠離って行く聖の跫音を聞き乍ら、何気なく部屋の壁を見遣った。
壁一枚隔てたそこに、リラが眠っている。
「……体の具合の方は、多少良くなったのだろうか」
呟いて、壁から襖障子へと眼を移した。
この襖さえ開けば、リラに逢えるのだ。
別に、逢ったからといって、眠りを妨ぐようなことはしない。
顔を見て、穏やかに眠っている彼女の様子を目の当たりにしたなら、それで安心できるから。だから、一目。
(……閊え棒くらい、どうにかならんのか)
羽月は、睨み付けるように襖に眼を据えて引手に指を掛け、ぐいっと、力任せに横に引いた。
瞬間。
スパァンッ
「……え?」
高い音を上げて襖障子は滑り開き、羽月は眼を瞬かせた。
廊下にひょいと顔を出してみると、そこに閊え棒の用を為していたらしい木刀が転がっていた。どうやら聖は、羽月が部屋を出ようと力を込めて襖を引けば開く程度に、軽く木刀を立て掛けて出掛けたらしかった。
『そんなに逢いたければ、僕の留守に少しだけどうぞ。けれど、リラに無理をさせたら、今度こそ本当にしっかり閉じ込めますから』
聖の、そんな声が聞こえた気がした。
まるで、聖に何もかもを見透かされているようだ。
「……まったく」
羽月は苦笑し、木刀を拾い上げた。
そして、今の音でリラが眼を醒ましはしなかったかと気にしつつ、彼女の休む部屋の戸を引き開けた。
「……あ……」
眼前に伸べられた蒲団。
仰向けに眼を閉じたリラの姿。
戸を開ければ必ずそこにいると分かっていた人ではあったが、羽月は言いようのない感慨に暫し浸された。
「……リラさん」
静かに近寄り、枕許で膝を折る。
その場で跪坐し、羽月はそっと、リラの髪を撫でた。
リラの寝顔をみつめる羽月の双眸は、深く柔らかな光を宿し――――その光を受けたリラの頬に、不意ににこやかな笑みが浮かんだ。
覚醒したわけではない。
リラの意識はまだ浅い眠りの中。
髪に触れる恋しい人の掌の温もりが、その心まで届いただけのこと。
夢も結ばぬ眠りの裡で二人の絆が触れ合った、ただ、それだけの。
ただそれだけの、優しい、ひととき。
[リラに添う熱 / 了]
|
|