<東京怪談ノベル(シングル)>
片羽
声は出なかった。
ただ、唇が動いただけだ。助けてくれと、命を乞う。その動きに乗って、吐息が漏れた。
何を怖っているのか。
苦しいのは一瞬だ。
貼り付いている壁から、ほんの一歩踏み出せば良い。
この緋色の刃を、喉に沈めるだけで終わるのだ。
男は、壁に背をつけたまま膝を折った。ズルズルと頽れ、喘ぎ、囁く。
「助けてくれ……」
突きつけた切っ先の向こうで、上下する喉。
逃がしはしない。逃げられもしない。咎も同情も感じない。
女は、無慈悲な眼差しで男を見下ろしたあと、寝かせた刃を走らせた。刀身と同じ色の液体が飛び散り、男の体が傾ぐ。その目から光が消えるのを見届け、女は踵を返した。
開け放たれた窓枠に手をかける。月明かりの世界へ身を躍らせようとしたその時、背中に暖かで重い衝撃を受けた。
何が起こったのか。
倒れたはずの男が笑っていた。女は、背の激痛に眉を歪めた。そして、理解した。見下ろした胸に、ギラリと光る鋼の先端が生えていた。
アレックスは、そこで目覚めた。
苦痛は、夢から覚めた今も消えずに残っている。いや、残っているのではない。この痛みが、あんな夢を見せたのだろう。
「……つ」
もたれかかっていた壁から、身を離す。
青白い月光と、立ちこめた静寂。外壁と柱だけが取り残された廃墟には、アレックスのほか誰もいない。唯一、割れたガラス窓の向こうに、明かりの主が浮かんでいるだけだ。
アレックスの足は、部屋の隅で原型を留めている、石造りの階段へと向いた。ゆっくりと歩を進める。二階、三階部分を通り過ぎ、屋根裏部屋に辿り着いた。
正面に窓が一つ。天井はやけに低い。手を伸ばせば、肘を曲げた状態で触る事が出来るほどだ。圧迫感を感じながら、アレックスは窓に近づいた。
街だ。月明かりに照らされた建物の群れが、眼下に広がっている。
アレックスは掛け金を外し、桟を軽く押しやった。キィと軽い音がして、外側にガラスが開く。
今、この世界を染めているのと同じ色の夜気が、アレックスの顔を撫でた。
窓から身を乗り出し、頭上を振り仰ぐ。さっきより、少しだけ月が近い。窓枠の下部を踏み台にして、アレックスは屋根に飛び移った。
ズキリ、と、背に痛みが走る。
肩に手を回すと、その先にある痣の発した熱に触れた。それはまるで、アレックスの感じない良心の呵責を、代わりに感じて泣いているかのように。殺戮の夜には、必ずこうしてやって来た。
鈍く、時に鋭く。
血の流れに呼応して、アレックスを苦しめる。
この痛みを消せる男が、この街のどこかにいる。
アレックスは、月を背に腰を下ろした。そして、あろうことか──
「!」
自らが揺らした自分の影に、ハッとして振り返った。空には、淡いクリーム色の球体が浮かぶ以外、何もない。
──ナニヲキタイシテイル──
想像の中で、六枚の翼を持つ者が言った。
「期待など、していない」
不意の孤独が、アレックスを襲った。
愛される事もなく、愛する事も知らず。感謝は狂気と卑下、それに畏怖さえ含んで、金と共に投じられる。恐怖に震える声と、泣き濡れた顔を向けられる毎日。
感情など、ずっと昔に殺してしまった。いや、殺されてしまった。
暗殺者として生きる術が、剣を振るう度に流れる深紅の液体と同じ量だけ、アレックスの身に染みついていた。
だが、『死を与える者』が望んでいるのは、『誰かの』ではなく、他ならぬ自分の『死』なのかもしれない。
この殺伐とした暮らしと、誰が気付いてくれる事も無い、哀しい孤独に終止符が打てるものなら。
それが出来る男。
死を望む者に終焉を運ぶ、天の御使い──
彼が残していった『彼の断片』を、アレックスはそっと取り出した。
月と同じ淡い光で包まれたそれは、一枚の羽。
落とした欠片を、彼自身が呼び寄せてでもいるかのように、羽に導かれるまま、アレックスはこの街へと流れ着いた。
「わかる……」
頬に当て、目を細める。
「お前の気配がする」
冷たくて、優しい顎のラインが脳裏を過ぎる。
狡すぎる微笑。
殺す、と告げた唇に、追ってこい、と笑う、その余裕がアレックスの神経を逆撫でする。
「殺してやる……」
と、アレックスは呟いた。
殺気のこもらない、抑揚の無い声で。
同情と憐れみを微かに乗せた、彼の眼差しを思い出す。それは、アレックスの持つ苦しみの色にも似て。
何故、そんな眼で見るのか。
少しでも、この運命を哀れと感じるなら、浚ってくれたら良い。全てが終わる。
だが、彼はそうしない。そうするつもりもない。
近づく気配は、殺気を宿していない。
揺らぐ事を知らなかった水面が、舞い降りた一枚の羽にかき乱される。
狩られる者の身でありながら、彼は毎夜、アレックスの前にやってくる。
夢の狭間を漂っている間に現れては、触れてゆくのだ。労るように、そっと。アレックスでさえ気付かない、心の脆さに。
つ、と、何かが頬を伝った。
視界が揺れて滲む。
拭う指先に、ひとしずく。
「……涙……。泣いているのか? 私が……?」
あり得ない。
泣いた事など、今の今まで無かった。その感情さえ、失せたはずなのに。
「悲しくない。あいつを討てないのが、悔しいだけだ……」
アレックスは、絡め取った涙ごと、ギュッと拳を握りしめた。
慣れたはずの、孤独が痛い。
青白い月光の町並みを見つめ、この街のどこかにいる、天使に向かって囁く。
「必ず、殺してやる……」
静寂が、それを浚った。
返してくるものの無い、月の刻。
彼は、現れない。
背の痣が疼いた。
まるで──
見えない羽が、彼を求めて飛びたがっているかのように。
終
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