<東京怪談ノベル(シングル)>


この想いは灰色の空に突き刺さる


 わからないわからないわからない―――どうして、こんなことになってしまったんだろう――――?

 樹の根に引っ掛かり、蔦に足を取られ、つまづき、転び、何度も華奢な身体を打ちつけて傷だらけになりながら、それでも幼い少女はひとり、重い足と尾を引き摺って森を彷徨い歩いた。
 一体自分たちが何をしたというのだろう。
 どうしてこんなひどいことをされるのだろう。
 答えるもののいない問いが繰り返し頭の中で巡る。
 自分を逃そうと抱いて走る両親の背中ごしに垣間見えた光景が網膜に焼き付いて消えない。
 炎がまるで生きているかのように村一面を喰らい、這い回っていった。
 力を持たないはずの人間達に次々と捕らえられていく仲間たち。
 奪われ、崩壊する日常という名の世界。
 悲鳴と破壊音。
 理不尽に降りかかってきた運命に、ただひたすら呆然となる。
 痛みを感じる心は既に麻痺してしまっていた。


 わからない。わからない。わからない。どうして―――どうして――――?


 その日、生まれたばかりの赤子が森に置き去りにされていた。そこが稀少種族・ドラコニオンの縄張りであったのはある意味運命だったのかもしれない。
 人間種族の幼年期は他のどの種族よりもか弱く、脆い。
 そのままであればおそらく一晩と保たなかったであろう赤子の命は、雄々しい竜の尾を持つ男の手によって掬い上げられた。
 そうして彼女はこの時、確かにヒトでありながら他種族の集落で二度目の生を受けたのである。
 赤子は時を経て少女となり、ひとりのドラコニオンの青年と恋に落ちた。心を語り、想いを綴り、2人は恋人から夫婦となって、やがて彼女は子供を生んだ。
 燃えるような赤に彩られ、竜族特有の尾と瞳を持つヒトの子は、アズリィと名付けられた。
 異種族間の婚姻で生まれながら、子供は皆に祝福を受け、愛を注がれ、育っていった。
 幸せだった。
 当たり前のようにそこに在る時間。
 日常は繰り返されるからこそ日常なのだ。
 だが、そんな日々は6年目のある日、唐突に奪い去られてしまった。
 夢にも思わなかった。考えもしなかった。こんな結末が自分を待っているなんて、こんなふうに終わりを告げられる日が来るなんて、そんな予兆はどこにもなかった。

 どうしてこんなことになったの……どうしてこんな…こんな………オカアサン……オトウサン……アズはどうしたら……

 憔悴しきった幼子の体温が、渦巻く疑問と共に雨に打たれて凍えていく。
 半ば混沌とした意識が、暗い森の中で次第に遠退いていくのを感じる。
 引き摺る足ももうほとんど前に進む力を失い、辛うじて尾が地へ倒れ伏しそうになる身体を支えていた。
 だが、懸命に進むための心の拠り所はどこにもない。
 雨が冷たい。
 寒い。
 寒くて寒くてどうしようもなくて。
 もう、何を考えていいのかもわからない。
「何でこんな所にこんな子供がいるんだ?」
 突然降って沸いた声に、反射的にびくりと肩と心臓が跳ね上がる。
 震えながらおそるおそる見上げたその先には、ケモノの匂いのする男が立っていた。
 知らないカタチ。
 見た事もない姿。
 父とも母とも違う獣が狼人という亜種族であることを、彼女は知らない。
「どうした?」
 男が怪訝そうな表情で覗き込んでくる。
 震えが止まらないのは、いまだ降り注ぐこの雨の冷たさのせいだけではなかった。足が竦み、動けない。
 彼は一体なんなのだろうか。
 何を言っているのだろうか。
 自分はどうなってしまうのだろうか。
 混乱し、抱えきれないほどに溢れる恐怖心が圧し掛かってきた。
 逃げ出したくて。でも行く所はなくて。
 泣くことすら出来ずに固まってしまった少女の身体に、青年はゆっくりと手を伸ばした。
「怪我はしてるし、こんなに冷え切っちまってるし……しかたねえなぁ」
「――――っ!?」
「ああ、そんなに怯えんなよ。取って喰ったりしねえから。とりあえず、迷子のお前を拾うだけだ。このまんまここに居たって死んじまうだけだからな」
 苦笑を浮かべつつも抱き上げた彼の腕の中は驚くほど温かくて、肌に伝わるぬくもりに、ふと少女は両親を想う。
 父は、母は、村の皆は一体どうなったのだろうか。
 そんな疑問を最後に、アズリィの意識は深い眠りの淵へと落ちていく。

 遠くで彼をお頭と呼ぶ声がした。

「着いたぞ」
 目を覚ました時、そこは見知らぬ森の果てだった。
 彼の腕から降りる代わりに羽織られたマントに護られるようにして、アズリィはそこに続く隠れ家へと案内される。
「今日からコイツも俺ら盗賊団アルメージュの仲間になる」
 ずぶ濡れの自分たちを出迎えた仲間に、頭領たる彼は堂々とそう宣言した。
 祝いだ乾杯だと沸き立つオトナたちもやはり知らないカタチばかりで、アズリィの不安と緊張がまた高まる。
 声も出せずに、少女は自分を連れてきた青年の影に身を潜め、彼の服の端をしっかりと握り締めた。
 そうすることで辛うじてそこに留まろうとする。
 だから気付かなかった。
 背に美しい翼を携えた少年が静かに、そして、まっすぐに自分へと視線を注いでいたことに。
 少年の中に彼女に対する『想い』が生まれる瞬間も、見ることはなかった。
 ありとあらゆる音が怖くて、不安で、自分を拾い上げたこの狼人の体温だけが、いま自分が縋れる全てだったから。
 彼だけが今の自分の全てだった。
 しかし、自分を連れてきた男は何かと留守がちで、代わりに名も知らぬ少年が何かと手を差し伸べてくれた。
「アズ……ほら、ごはん食べなよ……」
 彼の呼びかけに、隠れ家の隅で膝を抱えたままアズリィは無言で首を横に振る。
 食欲なんてない。
 何をしたいとも思えない。
 誰かと話す気力もない。
 怖くて不安で寒くてどうしようもなくて、震える身体を自分の腕と尾で抱きしめるしか出来なかった。
 こうしていれば少しだけ温かくなれるような気がした。
 でも震えは止まらない。
 ふと、やわらかなものがふわりと自分を背中から包み込んだ。
 驚いて顔を跳ね上げたアズリィの視線を、隣に腰を落としていた少年が笑みを浮かべて迎える。
「ここってけっこう寒いし、カゼ引きやすいから……」
 彼の背負う大きな翼が嬉しくて、アズリィは微かな怯えを含みながらも小さく『ありがとう……』と呟いた。
 その口元が僅かにほころぶ。
 もう一度、彼が焼けた肉を勧めてくれる。
 食べてみても、いいかもしれない。
 自分を抱きしめていなくても、いまは少し温かいから、だから――――
「………じゃあ、もらう」
 久しぶりに、アズリィは自分から食事へと手を伸ばした。
 再び2人の間に沈黙が降りてくる。
 聞こえるものは咀嚼音と遠くで交わされる大人たちの声ばかりで、互いにほとんど言葉を交わすことはなかった。
 それでも、こんなふうに過ごすことにどことない懐かしさを感じる。
 忘れかけていた心地よい時間。
 強張っていた身体からほんの少しだけ力が抜ける。
「お、仲良くやってんな、ちびっこども」
 ゆったりとした食事が終わる頃、相変わらずの唐突さで頭上から声が降ってきた。
「……あ」
 顔を上げたそこに彼がいた。
 仕事の成果を問う少年に彼はにぃっと自慢げに笑い、そして大きく優しい手で2人の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫でる。
 それから彼は、今日は宴会だからお前たちも来いと、少年と自分を両腕にそれぞれ抱き上げた。

 幾度も昼と夜を迎え、彼らと過ごすうちに、次第に幼い少女の心は盗賊団の仲間たちへと傾いていった。
 酒と宴会が好きで、ここにいる誰とでも家族みたいに笑いあって、仕事をして、いろいろな形がいろいろな形を認めてそこにいる。
 故郷とは違うけれど、もしかすると似ているかもしれない場所。
 あの日、狼人である彼が拾ってくれたから。
 自分を抱き上げてくれたから。
 そして、誰よりも自分を優しく包み込んでくれるから。
 彼が、自分にこんなにも温かいものをくれたのだ。
 アズリィは、それと自覚しないままに、いつのまにか彼に向けて幸せそうな笑みをこぼしていた。


 その日も、あの時と同じ雨が降っていた。
 灰色の空に覆われた、薄暗い世界。
 この人なら大丈夫。この人がいてくれたら大丈夫。きっと、なんとかなる。多分、大丈夫。
 そんな想いを抱いて、アズリィは狼人の寝床をひとり訪れた。
 怖いけれどこの目で確かめなくてはいけないから、だから、怯えていたはずの金の瞳にある種の決意を宿し、まっすぐに彼を見つめて告げた。
 ドラコニオンの集落に、自分を連れて行って欲しいと。
 彼は僅かな逡巡ののち黙って頷くと、マントを羽織り、彼女をその腕で抱き上げた。
 思い思いの時間を過ごす仲間たちの誰にも断らず、2人は森の向こう側へと、降りしきる雨の中、消える。
 森に踏み込み、そこから続く道程は遠く、暗く、怖かった。
 それでも、彼に手を引かれ、アズリィは懸命に自分自身の足で歩く。
 そして―――
「――――あ――」
 待ち受けていたものに、彼女の目が見開く。
「…………や、だ……いや……」
 そこには、幼い少女が受け止めるにはあまりにも過酷な光景が延々と続いていた。
 叩き壊され瓦礫と化した家屋。燃えた樹木の残骸。荒廃してしまった畑。何もかもが、かつてここを居場所とし、愛していた故郷の面影を残してはいない。
 アズリィは、たったひとりで取り残されたドラコニオンの少女は、顔をこわばらせ、きつく唇を噛み締めた。
 ゆらりと、激情の炎が立ち上がる。
 憎悪。後悔。苦痛。怒り。繰り返されるあの瞬間の映像群。
 全身が震えた。
 握り締めた手に爪が刺さる。
 灰色の空から降り注ぐ雨が、焼き討ちにあい崩壊した集落の成れの果てと、そして、そこに呆然と立ち尽くす少女を、冷たく容赦なく凍らせた。
「……アズリィ……」
 不意にぬくもりが戻る。
 肩に置かれた大きな手は、彼女をここへ連れてきた男のものだ。
 ただじっと何も言わず見つめていた狼人の青年は、憎しみに呑まれて身を震わす少女をそっと抱き寄せる。
「アズリィ……お前に名前をやるよ。お前は俺たち盗賊団の一員になるんだからな」
 そうして壊れかけた彼女に、彼は優しく言葉を落としていく。
「アズリィ・アルメージュ……今日からそう名乗れ」
「………アル…メージュ……アズリィ・アルメージュ………」
「そうだ。そして、俺たちがお前の居場所になってやる……お前はこれから家族になるんだ」
 抱きしめてくれる腕が温かくて、心地よくて、全身を駆け抜けて突き動かす激情もゆっくりと鎮まっていく。
 雨は徐々に勢いを増しながらさらに降り続けた。
 だが、痛みすら感じるほどの冷たい水を彼の腕は防いでくれる。
 アズリィの中に、このまま優しいぬくもりに身を委ねてしまいたくなる自分がいた。
 もう一度、あの幸せな日々を手にすることが出来るかもしれなかった。
 彼が自分にその場所を与えてくれる気がした。
 でも、それに甘えることは許されない。
 自身の中で生まれた深い闇色の炎が、まだこの胸の中心で確かにくすぶっているのが分かる。
 自分にはしなければならないことが出来たのだ。

 幼いドラコニオンの少女・アズリィは、この日、家族を、大切な存在を、自身の故郷を、人間たちからこの手に取り戻すために、盗賊団の一員『アズリィ・アルメージュ』となった―――――




END