<東京怪談ノベル(シングル)>


『オーマと時計うさぎのぬいぐるみ』

 船が港を立って5日。
 今夜が船上で過ごす最後の夜だ。
 頭上に散らばるのは満天の星空。その星空の下では、甲板に集まった乗船客や休憩中の船員たち相手に女の吟遊詩人がリュートを奏でながらバラッドを詠っていた。船乗りと人形の悲恋の物語。
 海で溺れた船乗りを助けた人魚の姫。
 二人は恋をするが、人魚が人間に恋をする事は掟で禁じられている。
 それでもその船乗りとの恋を選ぼうとする人魚の姫の意志を知った他の人魚たちがその船乗りを殺してしまう。
 そしてその時にその人魚の姫が流した涙がアクアマリンという石となったそうだ、とそのバラッドは締めくくられていた。
「このアクアマリンという石は地球というこのソーンとは別次元に存在する世界では、3月という時の誕生石にされている。石の持つ意味は幸せな結婚、聡明、幸福と永遠の若さ、富と喜びを象徴すると」
「地球、って世界でその石の事を語るのだったら、確かアクアマリンというその石の呼び名はラテン語に由来していたな」
 酒を飲みながら横からそう口を挟んだオーマに吟遊詩人の彼女はにこりと微笑んだ。
「おや、そこのお方は意外にも博識だね。ひょっとしてその地球からの来訪者かえ?」
「いや、俺は地球という世界の出身ではないが、まあ、ちと顔が広いんでね、それでちらりと聞いた事があったのさ」
「なるほどね。ならばあなたはこのアクアマリンという石を身につける時に起こる奇跡の事を知っている?」
 グラスの中の琥珀色の液体を揺らしながらオーマはにかっと笑った。
「ああ、知ってるさ。随分と眉唾なモノであったが、確か・・・」と、オーマが目を細め記憶を反芻させながらそれを言葉にして口から紡ごうとしたその横で、今度は商人がオーマが言おうとしていた事をさらりと言ってのけた。
「アクアマリンを一つ口にふくむと、地獄から悪魔を呼び出し、どんな質問にも答えさせることができると云われていて、また、これを神に捧げると、悪魔に打ち勝つ力を授かるとも云われていた。と、言う事です」
 説明し終えた商人はえへんと胸を偉そうにそらした。
 グラスを傾けながらオーマはそんな商人に苦笑を浮かべる。
「しかしこれは意外だな。あんたがそんなに博識であったとは」
 数分前に自分が言われたのと似たような事を言うオーマ。商人は失敬そうに顔をしかめた。
「私はこれでも商人。商売柄色んな異世界から来た人に会いますから博識なのですよ。それにアクアマリンは私自身も身につけていますしね」
 得意げに言いながら商人は首から下げたペンダントを服の中から出してオーマに見せた。
「どうです、これがアクアマリン・・・」と、商人が嬉しそうに言っていたのだが、その声をぷぅっと吹き出したオーマの笑い声が掻き消した。
 グラスを持ってない方の手であぐらをかいて座る自分の太ももを叩きながら笑うオーマに商人は仏頂面を浮かべる。
「なんですか、オーマさん。そこは笑うところですか???」
「だっておまえ、あんたがアクアマリンの石のペンダントを首から下げているから…それが面白く………いや、あんたに似合いすぎていてかわいいから。あはははははは」睨む商人の肩をぱしぱしと叩きながらオーマはけたけたと笑う。
「いや、あんたも何気にロマンチックじゃねーかー。いやいや、男ってのは元来そうあるもんよ。ロマンチックじゃなきゃ、海をまたいで商売なんざできやしねーもんなー」
 ぱしぱしと無遠慮に自分の肩を叩くオーマのでかい手を横目で見ながら商人は照れて顔を赤くした。
 吟遊詩人の彼女も口元に片手をあててくすくすと笑い出した。その笑い顔はあまりにも綺麗で自然なので商人は余計に顔を赤らめる。
 そんな彼の反応を見てまたオーマは意地悪く笑った。
「あははは。照れるな、照れるな、商人殿。んなこっちゃあ、また吟遊詩人ちゃんに笑われるぜ?」
 と、笑いながらそう言ったオーマに的確なタイミングでぴしゃりと吟遊詩人の彼女が言う・・・
「いや、私はロマンチック、などという言葉を口にしたあなたを笑ったのだよ」
 と。
 これにオーマは赤の瞳を大きく見開いて一瞬唖然としたような表情を浮かべると、頭を掻きながらまたけたけたと愉快そうに笑った。
「いや、参ったね。こりゃあ、一本取られたわ」
 酒を飲みながら実に愉快そうに笑うオーマにつられたように仏頂面だった商人も声をたてて笑い出し、そして周りの乗船客や船員たちも声を立てて楽しそうに笑った。
 そうやってこの船で過ごす最後の夜は楽しく過ぎていった。


 +

 こんこん。
 部屋のドアがノックされる音。
 誰だろうか、こんな時間に?
 小さく硬いベッドの上に窮屈そうに身を丸めながら寝ていたオーマは体を起こした。これまでずっと海賊を恐れて夜もろくに眠れずに船酔いと睡眠不足でやつれていた商人は、しかし先ほどのオーマたちと過ごした楽しい時間にすっかりと気持ちがほぐれたのかぐっすりと眠っている。
 その気持ち良さそうな寝顔にオーマは優しく微笑すると、ノックされ続けるドアを商人が目覚める前に開けた。
 そこにいたのは船長だった。
「おお、船長さん、どうしたんだい?」
「夜分遅くにどうもすみません。実はお客様の中に病気の方が出てしまわれて、それでももしもよろしければオーマさんに診て頂けないかと」
 オーマは医者だ。それはこの船に乗っている人間ならば誰でも知っていた。しかし当然この船にも船医はいるはずだ。なのにどうして自分の所へ?
 廊下は暗く、船長の顔はよくは見えなかった。しかし彼の口から漏れる呼吸音はどこか不規則だ。それは果たして乗船客に病人を出してしまった事へのプレッシャーなのか、それとも・・・。
「ああ、いいよ。わかった。俺様は医者だからな。行くさ」
「すみません。オーマさん、こちらです」
 行く先はなぜか船長室であった。
 そしてその扉の向こうからはわずかだが血の香りがしてきていた。
「やれやれだな」
 小さく呟くオーマに、
「本当にすみません」
 船長も小さく呟いた。
 扉を開けるとその扉の隙間から零れ出した光が廊下の闇を陵辱した。
 その光でもすっかりと闇に慣れた目には眩しかった。わずかに両目を細めるオーマ。そして転瞬後にはしかしその光にも慣れた目でその光景を見て、舌打ちした。
 船長室のベッドの白いシーツは血の色に染まっていた。そこに横たわる船員の右腕から滝のように流れる赤い血によって。
 そしてその男の寝ているベッドの傍らに立つ男は幼い女の子の首筋にナイフをあててこちらを睨んでいる。
「おい、船長。どういうことだ。俺は船医を連れて来いと言ったはずだぞ?」
 素早くオーマは事態を理解した。
 こいつはおそらくは密航者なのだろう。海賊対策のために乗船客、積荷、それらのチェックがとても厳しかったこの船にどうやって乗り込んだのかまではわからぬがとにかく船に潜り込んだ。しかしあと数時間で港に着くという事でおそらくは心に隙が生まれ、そして見つかった。
 あの怪我をした船員はこの男を捕まえようとして。
 しかしあの男は偶然居合わせたあの女の子を人質に取って怯んだ船員を傷つけた。もしくは戦闘中に女の子が来てしまい、それに動揺した船員を斬りつけた、か。どちらにしろそういう事で、それで船長によってここに密航者も女の子も、船員も運ばれた。
 機材や薬がある医務室に運ばなかったのは医務室が乗船客用の区画にあるからだ。これ以上騒ぎを大きくするのは上手くはない。恐怖やパニックというものは恐ろしいほどに簡単に人から人へと感染していくものなのだから。
 そして、自分がここに呼ばれた理由……それはもちろん、自分が医者であるという事もあるのだろう。しかし一番の理由は女の子を救い出し、密航者を捕らえる事ができるのはあの老齢の船医ではできないからだ……
 ―――――オーマは肩をすくめた。随分と買いかぶられたものだ。まったく。
「俺はこの船の船医だ。はん、外見がらしくないって? だけどよ、荒くれどもの多い船乗りを相手にするには俺様ぐらいの奴じゃなきゃ船医は勤まらねーのさ」
「とにかく船員の怪我の手当てをさせてやってくれ。頼む」
 懇願する船長に密航者は頷いた。恐怖で顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして固まっている女の子の首にナイフをあてたままオーマに顎をしゃくる。
「さっさとしろ」
「ああ」
 オーマは血でずくずくに濡れた船員の服の袖をハサミで切ると、デスクの上にあったブランデーを口に含み、その傷口に霧状に吹いたブランデーを吹きかけた。
「ぐうぎゃぁー」
「悪いな。もうちぃーっとばかし我慢してくれや」
 どうやら密航者のナイフは船員の腕に走る動脈を傷つけていたらしい。血は止まらないし、それにこの出血量は少々危険かもしれない。片手で船員の右の上腕部を握って止血をしながらオーマは船員の顔を見る。冷や汗でぐっしょりと濡れた船員の顔は蒼白を通り越して真っ白で、唇も紫だ。チアノーゼが出ている。
 おそらくは医務室に行けばそこにある機材で輸血なりなんなりして助ける事ができるが、しかしこの部屋では・・・
 オーマは歯軋りした。
「船長、針と糸を」
「あ、いや、それがこの部屋には無いのだよ」
 ―――――この緊急事態にオーマを頼る余裕があったのは見事だが、思考はそれに独占され医務室から機材を持ってくるということまでは気が回らなかったようだ。
 オーマも自分の医療道具を持ってこなかった事を後悔した。おそらくはこの密航者はもう自分がこの部屋から出る事を許さない。オーマを呼びに船長を出した事でさえ奇跡に近いのだから。
「だったらここにある道具でなんとかしなきゃならねーのか。くそぉ」
 諦めない。諦めるものか。オーマは必至に思考する。ここで自分が思考する事を止めればそれはこの船員の死に繋がる。
 オーマは覚えていた。今日の朝に着くはずの港で自分の婚約者が待っていてくれるのだと顔を赤らめながら嬉しそうに話していたこの船員の顔を。この若者が死ねば、泣く者は大勢いる。オーマが背負うのはこの若者の命と、そして多くの人の笑顔なのだ。
 赤い目は素早く部屋のモノを見回し、そしてそれに止まった。
 素早く動いた巨漢の手が持ったのはホッチキスだ。
「オーマさん、そんな物で何を?」
「なに、大丈夫だよ。とりあえず血を止める事が最優先だ」
 そう言いながらオーマはホッチキスで破れた血管を肉ごとホッチキスの針で止め合わせた。
 その光景はわずか10歳ぐらいの女の子には強烈であったのだろう。ぴーんと張り詰めていた心の糸は切れやすい。女の子はその光景に気を失った。
 ぐったりとして倒れそうになった女の子を左腕で舌打ちしながら抱え込んで、密航者はオーマを睨む。
「それでその男は助かるのか?」
「いや、ただの応急処置だ。医務室に運んで、傷口を縫合し、輸血もせねばならん。そして港についたらそのまま病院に直行だ」
 密航者は渋い顔をした。
 その表情にオーマはこの密航者が根っからの悪党ではない事を知る。いや、初めから彼ならば知っていたか。根っからの悪党は船長の懇願を聞き入れる訳が無いのだから。
 オーマはふっと口だけで笑った。
「さてと、それでどうする? あんたは今この男の命を取りあえずは救ったよな。だがこのままで行けば結局はこの男は死ぬ。港で自分の帰りを待ちわびている婚約者を残してな。あんた、それに絶えられるのかい?」
「そ、それは………」
「密航はなぜしたんだい? ん???」
 そんなモノは別に無視するなりなんなりすればいい。しかしその密航者はなぜかオーマのその言葉に応えた。オーマとはそういう漢なのだ。
「………マフィアのボスの女に手を出して、街に居られなくなったんだ。それで……」
「女と一緒に逃げた?」
「ああ」
 オーマは肩をすくめる。
「船に密航したのは何でだ?」
「金が無かったんだ。着の身着のまま…で来たから……」
「なるほどね。どうして船員を傷つけた?」
「港の憲兵に引き渡されるのが怖かったんだ。あそこの憲兵は、マフィアのボスと繋がっていて、だから俺は……」
 オーマは船長を見た。船長は頷く。なるほど、嘘は言っていないようだ。
「わかった」
 オーマはこくりと頷くと、船長を見た。
「船長、こいつらのチケット代は俺様が払う。それで密航ではなくなるのだから、こいつと彼女を憲兵に引き渡さなくってもいいよな?」
 しばし船長はオーマを見つめたが、オーマはにたにたと笑うばかりでその底は彼には計り知れない。船長は大きくため息を吐いた。だが……
「しかしこの船員を……病院に運ぶのなら…その説明をする義務が私には………」
「せ、船長……」
 と、そこにベッドの上から声がかかる。
 皆は船員を見た。
「す、すみません。船長、先ほどこの船に入り込もうとした賊を発見し、取り押さえようと応戦したのですが、その賊、どうやら人外の者のようでして、背から翼を出すと夜空に舞い上がって逃げられてしまいました。ちょうど空も曇り、その賊の顔及び種族も判別がつかず………後日報告書を出しますが、そういう事です」
「おま……わかった。報告書は退院してからでいい。憲兵には私からそう言っておこう。なに、私も少しは名の知れた船乗りだ。奴らには何も言わせんよ」
 何かとても眩しいモノでも見るかのような顔でそれを眺めていたオーマは呆然と立ち尽くす密航者に視線を向けた。
「って、事だ。だからもうお嬢ちゃんを放してやりな」
 からーん、と、足下にナイフが落ち、そのまま密航者はその場に跪いて、女の子を寝かせると、声を立てて泣き出した。


 +

「ああ、いたいた、オーマさん。一体今までどこで何をやっていたのですか?」
 ようやく親を見つけた迷子の子どもみたいに泣きべそをかきながらよってきた商人にオーマは肩をすくめる。
「あんたこそ、どうしたんだよ?」
「どうしたんだよ、じゃありません。目覚めたらオーマさんがいないので、それで慌てて探しに来たのです」
「探しに、って、俺はガキかよ?」
「何を言っておられるのですか??? あなたは私のボディーガードなのですよ。そのボディーガードが私の側を離れてどうするのですか?????」
「ふぅー」
 これではボディーガードと言うよりもベビーシッターではなかろうか? 頭を掻きながらオーマは肩をすくめた。
 げんなりとため息を吐きながらオーマは隣にいる密航者に顎をしゃくり、事の詳細はこれまた器用にはぐらかして、商人に密航者の事を上手く紹介し、商人の事も密航者に紹介した。
「って、事で、俺様はこれからこいつの彼女に会ってくるから、あんたは部屋で待っていてくれ」
 散歩中に仲良くなった青年の彼女にこれから挨拶しに行くのだ(本当はようやく手術を終えて、船倉に隠れている彼女を密航者…青年と一緒に迎えに行くのだ)、と言ったオーマに商人はとんでもないと顔を横に振った。そしてなぜか胸を逸らして言う。
「この私も一緒に参ります。夜はまだ深いのです。もしもその闇に乗じて海賊が襲ってきたらどうするんですか??? 私はもう一時もオーマさんの側を離れませんよ」
 ぶるりと身を震わす商人。オーマは呆れた表情が浮かぶ顔を片手で覆って天井を見上げるのだった。


 +

 そうして三人で船倉に入ったオーマはしかしその瞬間に感じた。自分が何かとんでもない場所に入り込んでしまったのを。
 ざわりと肌が粟立つこの感じは何だ?
 瞬間、本能的に能力が発動し……
 そしてそれがその世界からオーマを救った。
「あ、これは???」
 オーマは目を丸くした。なんと隣を歩いていた青年と、自分の後ろを背後霊のように歩いていた商人がその動きを止めているのだ。いや、正確にはその二人が動きを止めているのではない……
「これは時間が止まっている?」
 …のだろう。不思議な事に視界に映る世界は色を無くし、すべてが灰色であった。オーマ自身を除けば。即ち色があると言う事が時間が止まった世界から切り離されている証拠だろうか?
 【ヴァンサー】とは己の思念や精神力を具現化させる事の出来る「力」を持つ異端者の中でも特に特化した者のみがなる事が出来る存在だ。その力はおそらくこれをやってのけた相手の力と匹敵するモノであり、故に互いの力がぶつかりあって、それで相殺されて、オーマは無事であったのだろう。しかし一体誰がこんな事を?
 オーマは全感覚を解放する。銀髪赤目の青年ヴァージョンの彼は先ほどの姿の時よりもすべてが上だ。しかし……
「これは一体どういう事だ? 何も感じない。殺気も敵意も、気配も何も…」
 攻撃されている事は確かだ。しかしそれにしては本当に何も感じられない。
 だがその時に時が止まった世界ではありえない事が起こった。


 かつん


 オーマの耳朶に届いたのは、靴が床を叩いた音だ。それはほんのわずかな音であったが、しかしこの時が止まり故に一切の音も消えた世界では充分に聞こえた。
 床を蹴って、オーマはその音の発信源に着地する。そしてそこにいた人影ににやりと笑って見せた。
 そう、お腹に文字盤のある時計うさぎのぬいぐるみを両腕で抱いた女の前に。


 +

「どうしてよ? どうして、あなたは時が止まった影響を受けていないのよ???」
「そういうあんたこそ、どうして? 見たところ、能力者ではねーようだが?」
 にやりと笑った顔をオーマは小さく傾げさせた。そう、この彼女はオーマのような能力者ではない。もちろん、【ウォズ】凶獣でも。
 ―――――――だったら………
 じぃーっと見つめるオーマの赤い目に彼女は必至に応戦するが、しかしオーマの視線がその両腕に抱く時計うさぎに行くと、慌てたような顔をした。そんな彼女にオーマはぷぅっと吹きだすとけたけたと笑った。
「その時計の文字盤が腹にあるうさぎのぬいぐるみがこの時が止まった世界を作り出したのかい?」
 信じられぬがそのようだ。
 彼女は両腕に時計うさぎのぬいぐるみを抱いて後ろに下がりながらオーマを睨む。オーマは頭を掻きながらため息を吐いた。
「参ったね、こりゃあどうも。取りあえずよ、時間を動かしてくれね―か。そうすればわかるだろうよ、あんたの彼氏さんが説明してくれて。俺様はあんたらの味方で、そしてもうこんな場所に隠れなくっても堂々と客としてこの船が港についたらタラップを降りられるって」
 ウインクするオーマに彼女は目を瞬かせた。


 +

「この時計うさぎのぬいぐるみが時間を止めてくれるのがわかったのは、彼と一緒に屋敷を逃げ出す時よ。その時は何が起こったのかわからなかったわ。だけどしつこい追っ手に追われて港に追い込まれた時にこのうさぎに向って、『時間よ、止まって』って祈ったら止まって…、それでさっきも足音が多くって彼じゃないと想ったらそしたら怖くなって、それで時間を止めたの。この時計うさぎのぬいぐるみに頼んで」
「なるほどねー」
 オーマはこくりと頷きながら手の中にある時計うさぎのぬいぐるみをじぃーっと見つめた。
「でさ…」
「はい?」
「いつになったら時が動き出すの?」
「それがあたしにもわからないの…」
「はい?」
「や、いつも時は勝手に動き出して、それの時間はバラバラで……」
「はぁー」
 オーマは大きくため息を吐いて、時計うさぎのぬいぐるみを眺める。
 と、ぴくりとオーマの片眉があがった。そして何を想ったのか突然にぬいぐるみをくすぐりだす。
 彼女はそんなオーマに目を大きく見開くのだが、
「やや、くすぐったい。くすぐったい。やめて。やめて、くすぐったいよ」
 と、時計うさぎのぬいぐるみが身をよじって笑い出した。
「やっぱりおめえさん、意志があったんだな?」
 にやりと笑うオーマ。そんな彼にぬいぐるみはだれていた両耳をぴしっと伸ばした。どうやら驚いているらしい。
「さあ、時間を動かしてもらおうか? 聞いてた通りだ。俺様はこの彼女と彼氏の味方だ。だから時間を動かしても心配ない」
「あ、いえ、そのぉ〜〜」
 ・・・。
 その時、オーマのうなじの産毛がちりとざわめきだった。なんだかものすごく面倒臭そうになる予感がしたのだ。
 そして案の定・・・
「や、実は僕にも時間の動かし方がわからなくって〜。てへぇ(ハートマーク)」
 ―――――オーマは真剣に今すぐにでもこの時計うさぎのぬいぐるみを海の底に沈めたい衝動にかられた。
 だがそれは今は出来ない。耐えねばならない。
 頭の中で自分がこの重石を巻きつけたぬいぐるみを海の底に沈めている光景を想像しながら、オーマは紳士的な笑みを浮かべた。
「んじゃあよ、過去2回、どうして時は動き出した? それにこの彼女はどうしてこの時が止まった世界で………」
 ―――――いや、待てよ。
 オーマは彼女をじっと見つめた。
 彼女は気持ち身を後ろに引いて訊く。
「なによ、オーマさん。いくらあたしが綺麗だからって、そんなにも見つめなくたって…」
 と、彼女が言ったところでオーマは声をあげた。悔しそうに頭を掻きながら、
「かぁー、俺様も焼きが回ったもんだぜ。おまえさん、上手に化粧でごまかしているが、まだガキだな?」
 化粧の化とは化けるという意味、とはよく言ったモノだとオーマは妙な納得をした。
「え、あー、いや…その、ねー。っていうか女性に年齢を訊くのはダウトよ!!! うん、だから黙秘」
 そう言ってそっぽを向いた彼女にオーマはものすごくいい笑みを浮かべると、取り出したハンカチで無理やりに彼女の顔を拭った。すると厚化粧の下にあったのはやはりオーマの見立て通りに少女の顔であった。見たところ15,6。
「ったく、さっきまではどう見ても20代前半だぞ。これだから女ってのは」
 要するにマフィアのボスの女に手を出したとは、愛人ではなく娘という意味であったのか。紛らわしい。
 少女はふんと顔をそらした。
「そっちが何か勘違いをしていただけなのでしょう? だいたいこの時が止まった世界とこの事と何が関係あるってのよ?」
「ああ、大有りだよ」
 オーマは少女にウインクすると時計うさぎのぬいぐるみを指差した。
「この時計うさぎのぬいぐるみはただの方向性へのイメージだ」
「はぁ?」
 一体何を言い出したのだろう、この男は? 呆れる少女にオーマは生徒に化学実験の結果を話す教師の顔で説明を始めた。
「あんたぐらいの思春期の少年少女にはその精神の不安定さ故か時折能力者でも無いくせにしかし能力現象を引き起こす事がある。いや、元来人間には不思議な力はあるもんさ。ただ大抵の人間のそれが眠ってるっていうだけでな。能力者ってのはそれの使い方を生まれた時から本能的に知ってるだけだ。で、何が言いてぇかって言うと、先ほども言ったように思春期の少年少女はその不安定な精神によって能力者でもないのに、その不安定な精神が作用して超常現象を引き起こす。つまりあんたはそれだ」
 少女は自分を指差し、オーマは頷いた。
「この時計うさぎのぬいぐるみの時計は止まってるな。つまりこの止まった時計を見ていたあんたは無意識に自分の能力の方向性を【時間】に向けてしまった。この時計うさぎのぬいぐるみが心を持ったのがそのいい証拠だ。つまりそれは能力の具現化の象徴であるのだから」
「あー、えっと、難しい事はいいから、とにかくどうすればいいの?」
 オーマはにこりと笑った。
「簡単だ。だったらあんたの暴走した能力を上手く制御してやればいい」
 そう言うが早いかオーマの手が少女の額に触れて、そして・・・


 +

【ラスト】

 ものすごい数の憲兵たちが港を出回っていた。
 しかしその誰もが大きな麻袋二つを軽々と片腕で持つ大男に驚いたような表情を浮かべている。
 その視線の真ん中にいる大男はそれがさも悪くはないと言わんばかりの笑みを浮かべながら港から離れていった。
「はぁー、緊張しました」
 大男…オーマの後ろにいた商人は大きくため息を吐いた。
「もういいだろう」
 オーマは抱えていた袋をおろした。その中から青年と少女が現れる。
「ここまで来ればもう大丈夫だろうよ」
「はい、ありがとうございます、オーマさん」
 二人はオーマに頭を下げた。そしてハンカチで顔の汗を拭っている商人にも頭を下げている。
「あの、本当によろしいのですか?」
「ああ、構わないよ。ほら、私からの紹介状だ。これを持って私の妹夫婦がやっている宿屋に行きなさい。そこで住み込みで働かせてくれるはずだから」
「「はい」」
 二人はにこにこと笑いながら手を繋ぎあった。
 と、何かを思い出したようにオーマは時計うさぎのぬいぐるみを両腕で抱く少女に手を差し出した。
「そのぬいぐるみとはしばらくの間お別れだ」
「え? どうしてよ」
「ひゃぁ」
 少女と時計うさぎのぬいぐるみがそろって声をあげた。
「どうしてよ、って。その時計うさぎのぬいぐるみは条件なんだよ、あんたが時間を止めるな。昨夜だって俺様がいなければどうなっていた事かわからないだろう? あんたは感情が高ぶると能力を発動させてしまう。しかしその能力の発動には条件がある。このぬいぐるみさ。この時計が止まったぬいぐるみがあんたの能力の方向性を決めてしまうのさ。その道標を取りあえずはあんたの中で中途半端に目覚めた能力が再び眠るまで、俺様が預からせてもらうよ」
 しゅんとする少女と時計うさぎのぬいぐるみにオーマは苦笑いを浮かべた。
「なに、お嬢ちゃんの中の能力が再び眠るまでさ。彼氏と仲良く平和に暮せれば、それもすぐだよ」
 そして青年と少女は旅立っていった。
 そう、青年と少女は。
 オーマは小首を傾げながら、商人を眺める。
「で、あんたはいつまで俺といるつもりなんだよ?」
 そう言ってやると、商人は大仰に驚いた仕草を見せ、そして唾を飛ばしながら情熱的に演説し出した。
「や、なんと水臭い事を。私はいつまでもオーマさんと一緒にいたいと。はい、ですからできれば商談をする相手がいる街まで、付き合ってもらえませんか?」
 右手の人差し指立ててにこりと笑った彼にオーマは苦笑が浮かんだ顔を片手で覆って、大仰にため息を吐いた。
 彼の左腕に抱かれた時計うさぎのぬいぐるみはくすくすと笑う。
 オーマに商人、そして時計うさぎのぬいぐるみ、そんな不思議な取り合わせのパーティーが進む先には果たして何が待ち受けているのであろうか?
 もう少しオーマの受難は続きそうだった。


 ― fin ―
 
 **ライターより**

 こんにちは、オーマ・シュヴァルツさま。いつもありがとうございます。
 このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。

 今回は【ウォズ】凶獣は無しで、こんな感じです。楽しんでいただけましたでしょうか?
 次回はオーマさんには時計うさぎのぬいぐるみのために苦労してもらいます。^^
 もしもまた窓を見つけた時によろしければ、どうぞよろしくお願いいたします。もちろん、お任せではなく、PLさまのプロットも大歓迎ですので。^^


 そして何やらオーマさんと商人さんがいいコンビに。
 何気に書いていてこの二人のやり取りは楽しいです。


 それと少し補足説明を。
 前回、船の乗船客は甲板に全員いたという事でしたが、青年と少女ももちろんそこにおりまして、二人はとにかく上手い具合にそこから船倉に戻って、その後であれこれとその現象について悩んでいたという設定です。
 青年は19歳。少女は16歳。

 あとは、時計うさぎのぬいぐるみは白で、お腹の部分に文字盤のあるかわいいタイプのぬいぐるみを想像してやってくださいませ。^^


 商人は背が低く小太り。53歳の穏やかなおじさんです。


 それでは今回も本当にありがとうございました。
 またよろしければ書かせてください。
 失礼します。