＜聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記＞
『ウパスに咲く花』
＜オープニング＞
毒のある花が二輪、黒山羊亭のカウンターに並んで座った。
「わたくしに、マティーニを。ドライでね」
黒いスリップドレスに身を包んだ、黒髪の美女だった。
「リリにはブラッディ・マリィね。とろけそうに甘いやつ」と、赤毛の美女も媚びた声でねだる。薄絹の白いドレスは、目をひそめたくなるほど透けていた。
「リルとリリ。あんた達、男漁りに来たなら、よそへ行ってよ」
エスメラルダの冷たい言葉に、二人は「とんでもない」と肩をすくめた。練習したようにぴったり息が合っている。
「リル姉さまが、ウパス湖に、お母さまの形見のブローチを落としてしまって」
「花の形に宝石がはめ込まれた、立派なものなの」
そう言うと、二人は運ばれてきた飲み物を、同時に手に取ると全く同じしぐさで一口くちをつけ、再び同時にカウンターに置いた。
「リリちゃんもわたくしも泳げないのよ。どなたか助けてくれないかしら？」
確かに、二人とも、水に浸かった途端に胸とヒップの重さで沈みそうだった。
それに、ウパス湖には魔植物が棲むという噂もある。誰かの助けが必要に違いない。
「しょうがないわねえ。若い男の子が来ても、悪さしないのよ？」
そう言うとエスメラルダは、素早く依頼のメモを書いて壁にピンで止めた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「なんで、泳げないのにそんなところへ行ったのでしょう？」
エスメラルダから依頼メモを受け取り、アイラス・サーリアスは首をひねった。
「湖畔に行っただけで、ボート遊びなどをしたわけでは無いそうよ」とエスメラルダがテーブルにアイス・ティーを置いた。
「人目が無いからって理由ですかね？」
アイラスはそれを一口すすり、眼鏡の奥の瞳をうんざりしたように細めた。
「あなたもそういうことに察しがよくなったわねえ。ブローチは、ドレスを脱いだり着たりしていてはずれたらしいけど。一緒にいた男性が痴話喧嘩の末に湖に放り投げたのですって」
「ひどい話だな」と、同じテーブルにいたフィセル・クゥ・レイシズも眉をひそめてビールを口に含んだ。
「男も男だが、姉も姉だ。しかし、何と言っても親の形見だ、大切なものには違いない」
生真面目で堅物そうなフィセルは、緑の澄んだ瞳を堅く閉ざした。古代竜族の生き残りであるフィセルの、両親はすでに亡い。
アイラスとフィセルの潔癖さにエスメラルダの唇は笑みを作ったが、視線は寂しげにテーブルに落とした。
「ベルファ通りのはずれに、看板も出ていない酒場があるのを知っている？非合法の酒と、女と、コインを賭けたカードゲームを提供する店。二人の父親は、そこのオーナーよ。
花が赤く咲くには理由があるのよ。あたしも同じ女だから、少しわかるわ」
エスメラルダの鮮やかな紅からため息が洩れた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ＊
ウパス湖は、外見は、静かで美しい湖だった。聖都側から訪れると、爽やかな高原を抜けた場所に、森林を背景に清い水を湛えそれが広がる。午前の空気は冷たく澄み渡り、水鏡は木々の緑を映し出しきらめいていた。所々水面を覆うオオバコやホテイアオイの緑は鮮やかで、白やピンクのハス達も色を添えて美しかった。
「きれいな所ね。リリ、初めて来たわ」
「わたくしも、昼下りより早い時間に来るのは初めて」
しかし、この二人の香水の匂いで、湖畔の清らかな空気が少し澱んだような気がするのは、アイラスの気のせいだろうか。女性を苦手と思ったことは無いが、アイラスは色香を振り向くこの手のタイプとはあまり関わりたくなかった。関わりたくないのに、困っている人がいるとつい依頼を受けてしまうのも、自分の悪いクセだと思うのだが。
「投げたのは、この辺からかしら。方向は湖の中央に向かっていたと思うわ。でも距離はたいしたことないはず」
あと十歩も歩けば水際という感じだが、湖の縁が崖のように切り立っており、足元の草は湿っていない。湖は遠浅でなく、いきなりある程度の深さがあるようだった。
「では、この辺でいいですね」と、アイラスが背負った荷物を地面に降ろした。
そう広い湖では無かった。泳ぎが達者な者なら簡単に向こう岸に辿り着くだろう。水底を探索と言ってもボートを出すほどの広さではない。岸辺から潜って十分捜せるはずだ。
「私も荷物を降ろさせてもらう」
フィセルは長身の男だが、体型はがっちりという感じでも無い。荷物運びは憤懣たる思いだったことだろう。もともと愛想の無い青年だが、アイラス同様姉妹に不快感を抱いているらしく、表情も堅い。
二人はとっとと仕事を済まそうと、荷を解いて敷物やタオルや着替えなどを広げた。武器も、釵のような突くものでは不十分かもしれない。アイラスは今回に限り短剣も準備した。
「足がいたーい」
リリがミュールを脱ぎすてると、縁に腰掛けて靴擦れの踵を水につけた。肩を出すミニの赤いワンピースは、醜悪なほど緑の中で目立っていた。
「足場の悪い場所に来るのに、そんな履物を履いて来るからだ」
背後でフィセルの怒ったような声が聞こえた。
「水辺はやはり冷えるわね。わたくしは、寒くなってきたわ」
「湖畔は涼しいものです。そんな薄着で来る方が悪い」
アイラスも容赦なく糾弾する。姉の方はストラップレスのタンクトップにスパッツという服装だった。
「そうい時は、殿方が率先して自分の上着を脱いでかけてくださるものよ」
「あいにく、僕のシャツでは胸のボタンが止まりませんよ」とアイラスは軽くかわした。
「わたくしたちを軽蔑しているのね。
あの父親の下で。あの店の客が落とす金貨で育てられたのよ。わたくしたちは、殴られる痛さより、脂臭い客の頬にキスする不快さを選んだ。気持ち悪いのはその時だけだけれど、殴られた跡はそのあとも暫くは痛いのですもの。
面白かったわ。わたくしたちが、肌を出して色香を振りまくようになると、男達は暴力を振るわなくなった。わたくしたちの関心を買おうと、酒を奢ったり贈り物をくれたりする奴もいた」
「でも、それは結局・・・」
「そうよ。不快なのは同じよ。でも、殴られるよりネックレスを貰う方がいいわ」
そう言ってアイラスを見上げるリルの目は、氷のように冷たかった。闇と同じ色の瞳には、絶望しか映していない。それは、世界中の男に愛想をつかした目だった。
「・・・。」
アイラスは言葉を飲み込んだ。自分は一生その客のような行為はしないだろうが、しかし、自分と同じ『男』が日常的にそんな卑劣で破廉恥な行いをしている事実を、知らないわけでは無い。
その時「きゃあっ！」とリリが悲鳴を上げた。
サンダルを手に持って泥を洗っていたのだが、何かに食いつかれたらしい。アイラスが振り向くと、大きな魚が水面から顔を出し、ヒールの部分にくらいついている。リリは爪先を両手で握って奮闘し、フィセルがかろうじてリリの体を支えて水に落ちるのを防いでいた。
「アイラス殿、頼む！」
魚はカジカの種類なのか、平べったい顔と筒形の体に大きな鰭が踊っている。アイラスは釵を引き抜くと、魚の鰓近くを突き刺した。水しぶきが散った。致命傷には遠いだろうが、驚いた魚はサンダルを吐き出した。
その勢いでフィセルはリリごと草の上に投げ出された。
「人間の３歳児位の大きさはありましたね」
アイラスは湖を覗き込む。水面近くは水も澄み小さな魚が遊ぶのも見えるが、藻のせいか深くまでは見渡せない。紺碧のグラデーションが湖底を隠していた。
「あの大きさなら人間は食わんだろうが、もっと巨大なヤツがいる可能性もあるな。・・・リリ殿、早くどいてくれないか」
「え。あ、ゴメンナサイ、あんまり寝心地がよかったから」
リリは怒声に慌てるでもなく起き上がった。
とにかく潜るしかない。それがアイラスとフィセルの結論だった。エスメラルダによると、魔植物は水中の巨大藻か淡水イソギンチャク(ヒドラか？)ではないかと言う。二人一緒の方が、危険に対処できる。姉妹だけを湖畔に残すのは心配だったが、魔植物が水中にあるのなら彼女らは大丈夫だろう。
アイラスは下はサーフパンツ型の水着だったが、半袖の丸首シャツを着たままで潜ることにした。戦士の傷跡を人にさらしたくないのもあったが、あのお色気姉妹に肌を見せるのが嫌だったのだ。
リルが赤い唇をくっきりと大袈裟に動かしてみせた。「ケッペキさんねえ」
唇の皺がうごめく。溝にまで塗り込めた紅のせいで、蟲が這っているようにも見えた。
アイラスは眼鏡の上からゴーグルを被った。アイラスの眼鏡は視力矯正と言うより明度の調整用だ。暗い水中でこそ必要だった。
縁から水草を避けてゆっくり爪先を入れると、ひんやりと、体が別のものになっていくようだった。潜る前に、ゴーグル越しに水中を観察した。湖の中心部分だけ深くなっているようだが、それ以外は水底が見えた。魚に食いつくされているのか、細かい草は少ない。底にはごつごつとした茶色い岩肌が覗く。側面に近づくほど水草と藻の緑で視界が悪くなったが、ブローチが中央に向かって投げられたのなら水草に隠れている可能性は少ないだろう。
「フィセルさん、行きましょう」
アイラスは短剣を水着のベルトに装着すると、フィセルの返事を待たずに水に潜った。
さっきの巨大魚は見当たらない。銀色の小ぶりの魚達が、時々アイラスの視界を行儀よく横切るくらいだ。掃除モップのような藻がゆらめく。アイラスはさらに深度を下げ、湖底をなめるように泳いだ。岩と土の上に、大きなタニシの背中や、ザリガニの破片と思われる赤い殻も見えた。湖の魚は銀か黒が多く、水中の藻は濁った緑で、潜っていてもそう楽しいものでは無いが、華やかなアクセサリーは見つけやすいかもしれない。
フィセルが遅れて付いて来る。彼は左手に水中トーチを手にしていた。蛍光の石を松明のように握りやすく削ったものだ。アイラスは指で上を差し『一度上がりましょう』と合図した。
水上で呼吸を整えていると、すぐにフィセルの金の髪が水面を破った。
「水中は意外に視界も効く。二手に分かれるか？」とフィセルが提案した。
アイラスはちょっと考え、「いえ、やめましょう。一緒に潜り、息継ぎの時は合図をして一緒に上がりましょう。面倒ですが、すみません」と答えた。水中では悲鳴も上げられない。離れるのは危険だ。
「堅実な男だな」
「度胸が無いだけですよ。・・・行きましょう」
ブローチが光ると言っても、きらりという輝きに目をやると、銀の魚のことが多かった。それは、５回目の潜水でフィセルが見つけた。男の掌でやっと握れるほど大きなもので、光る石がたくさんはめ込まれていたが、水中では濁った深紅や群青に見えた。
上昇しようとした時、水流が変わった。アイラスが振り向くと、フィセルが体を反転させてもがいている。右足首に柳の枝のようなものが絡み付いている。
『ドロソフィルム・・・』
水辺に生息する食虫植物だ。渦巻き状に伸びた蔓に腺毛があり、粘液で虫や小エビなどをからめ取り、窒息させて吸収する。だが、こんな柳みたいな大きなものには初めてお目にかかった。
アイラスは、フィセルの足首に絡まった蔓をナイフで切断した。人間のような大きいものは消化できない。捕獲したのではなく偶然からまっただけだろう。
助けられたフィセルは、険しかった表情を和らげ目で礼を述べた。が、その視線が、アイラスの背後で停止した。
フィセルは、湖の中央、深くなった方向を凝視していた。アイラスも振り返って、そして凍ったように視点を止めた。
人間大のカムルチー(ライギョ)が、半身を巨大なドロセラの口に挿まれてもがいていた。
口と言ったが、花のように赤く開いたものは葉だ。生き物が葉の一枚に触れると、全部の葉が花がつぼむように閉じて、獲物を閉じ込めようとする。獲物の体長が長いので捕まえ切れなかったようで、体半分だけを閉じ込めていた。そして、粘着質の深紅の腺毛がさらに鰓や背びれに手を伸ばす。黒い魚は上半身を揺らして逃れようとしているが、鋸状の葉から外へ出るのは無理だった。ライギョの口から鋭い歯が覗く。だが、そんな武器はもう役に立たない。少しずつ少しずつ吸い込まれていく。
赤い腺毛の葉は、男を飲み込もうとする女の口のようだった。腺毛の動きは咀嚼する時の口許の皺を連想させた。カムルチーの尾鰭はもう既に消化液で溶かされて存在しないだろう。
アイラスは気分が悪くなって、顔をそむけた。
フィセルに肩を掴まれ、頷く。アイラスは水面を目指してターンした。オオバコの葉の隙間から差し込む陽が、水中を木漏れ日のように照らしていた。
水上で酸素を補給すると、二人はそのまま水面を泳いで岸へ戻った。フィセルが「このブローチでいいのか？」とぶっきらぼうにリルに差し出した。
「まあ。そうよ。ありがとう、フィセルさん」
リルが媚びた笑みを見せ、リリも「すごいわ。ありがとう」とフィセルの体をタオルで包んだ。フィセルは一度は片手で払ったが、疲れていて面倒だったのか、その後はリリが勝手に体を拭くのにまかせていた。
アイラスは自分でタオルを取り、どさりと敷物に座った。ゴーグルを外すとタオルを頭から被る。気づくと、髪を後ろで縛った皮紐が切れたらしく、濡れた肩や背中に髪が張り付いていた。
「ありがとう、お疲れ様。・・・気分が悪いの？」
リルが髪に触れようとするので、アイラスは思わず後ずさった。
「いえ、大丈夫です。大きな食虫植物を見たので、驚いただけです」
「顔、真っ青よ？それとも、もともと色白さんなのかしら？」
リルの真紅の唇、その動きに鳥肌が立った。
アイラスはただ「大丈夫です」と繰り返す。
「大変だったのね。依頼の報酬とは別に、今夜は黒山羊亭で食事とお酒を奢らさせてね」
「いえ、結構です」とアイラスは即答した。物を喰らうリルの唇など見たくもない。だいたい、饗宴の皿に乗せられるのは肉や魚でなく、自分とフィセルに違いないのだ。
「悲しいわ。随分と嫌われたものね」
少しも悲しくなさそうに、否、かえって笑みをかみ殺した表情でリルが眉をしかめた。アイブローで描かれた眉が、筋肉の意志とは違う動きを見せる。世界を憎み、世界を喰いつくす赤いドロセラ。
陽は高く気温も上がっていた。アイラスの髪はすぐに渇いた。水に潜った疲れと、日差しの暖かさ。眠気が襲う。だが、ここで寝てしまったら、この女達にバリバリと頭から食われてしまう気がした。いや、さっきのカムルチーのように、やはり下半身から吸い込まれるのか。
「少し休憩して、お二人の体が暖まったら行きましょう」
リルの声がもう遠かった。涼やかな風が髪をなびかせて心地よい。膝をかかえたまま、アイラスは舟を漕ぎ始める。
「僕は・・・食べても・・・旨くないです・・・よ」
そう言うと、かくんと首が垂れた。子供のような寝息が聞こえた。
リリが「失礼な寝言ねえ」と顔を覗き込んだ。
「男って、どんな男も寝顔だけは可愛いのよね」とふっと前髪に息を吹きかける。
アイラスの髪が柔らかく揺れた。
＜ ＥＮＤ ＞
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【整理番号 ／ ＰＣ名 ／ 性別 ／ 年齢 ／ 職業】
1649／アイラス・サーリアス／男性／19／フィズィクル・アディプト
1378／フィセル・クゥ・レイシズ／男性／22／魔法剣士
ＮＰＣ
リル(姉)
リリ(妹)
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■ ライター通信 ■
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発注ありがとうございました。ライターの福娘紅子です。
お二人とも潔癖な感じでしたので、こういう作品になりました。
特にアイラスさん、姉妹のような女性が苦手とのことだったので。
アイラスさんの帰路の無事をお祈りしております(笑)。
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