<東京怪談ノベル(シングル)>


RETURN TO INNOCENCE

 雨季――。
 夏が来る前に必ず到来する、ジメジメした湿気の多い時期である。
 辟易する空気、夜は特に寝苦しさを誘う。
「こんな時、なんだか故郷が懐かしく思える俺っ――親爺なのかねぇ」
 基本的に冷房という文明利器はソーンには存在しない。
 それが時折恨めしい。
 仕事を終えて小一時間、オーマは少し涼むために外へと繰り出した。
 別にあてのない、その辺を軽く散策するつもりで。
 だから白衣は着たままである。
「お〜っ、背中がグキグキ言ってやがるぞ。こんなトコ誰かさんに見られたら、もう歳とかいって馬鹿にされ兼ねんな、参った…」
 軽く伸びをするだけで骨の軋む音。まあ、それだけ今日という日を働き詰めたということなのだろう。
 ヴァンサーとしてではなく――医者としての充実感はある。
「おおっし、今夜も良く働いたっ、偉いぞ俺様!!」
 真夜中に自宅前で胸を張り、気分よさげに自画自賛する親爺。
 巨体に白衣姿というのもあってか、これがまた何故かまったく絵にならなかったのだが…。
「さあて、じゃ――良い子はそろそろ寝るかい」
 夜の空気を大きく吸い込むこと一つ、踵をかえそうとする。
 が、その足が自宅へと動く前に、オーマの耳が何処からか近づいてくる足音を捉える。
「………?」
 耳を澄ませば、後方からか。
 足取りは不規則で、どうも頼りない弱さであった。
 靴音の軽さから近づいてくる相手を女性と判断し、そこに微妙の血の匂いを感じ取れば、オーマは素早く走り出した。無論、相手に向かってだ。
「おいっ!?」
 鋭く声をかけて駆け寄ると、人影がふっと揺らめく。
「―――い、いしゃ」
 そう呟いて倒れこむ人影、咄嗟に支えれば濃い血の匂い。重患と看てとり眉を顰めた。
「っ――頼、助け…」
 か細い声と抱きとめた感触は、やはり紛れもなく若い女のものであった。
「無理に喋るな、たくっ――今日の仕事は終わったと思った矢先にこれかよ。お前さんはついてるな、折りよく名医が現れてくれてよ。その分俺はついてねぇが」
 白衣のポケットに持参していた包帯で、一応の応急処置を施すと、女の身体を支えるようにして、自宅に運んだのは言うまでもなかった。
 それから傷跡を縫合し、女の治療を終えた頃には、夜が白み始めていたのだが――。

***

 手術台から隣の個室、ベッドへと移し変えた女は、どうも訳ありらしかった。
 服を脱がせる過程で、出現した大きな袋。堅い皮紐で結ばれた中身を解くと、そこからはびっしり詰まった金貨と宝石の山。また、腰に差していた護身用と思われる短剣には血糊が付着していたし、女自身も自分の血だけではなく返り血も纏っていた。
 ともかく金貨と宝石の入った袋と、付着した血を綺麗に拭ってやった短剣は、女を寝かせたベッドの横に置いておいた。オーマは今、自室の椅子に腰を下ろして溜息を付いている。
「これも性分って奴か」
 訳ありの患者だからといって放って置けないのはオーマの医者としての性。
 とりあえず手術は成功し、患者は安静にして寝かせてあるが、どうも厄介ごとの匂いを感じる…。
「にしても、あの女――只者じゃねぇな」
 申し分ばかり、酒を含んでほっと零す。
 と、一息ついた頃を見計らったかのように、戸口の向から激しい物音と叫び声が響き渡った。
 慌しい感じで複数の声、
 はっ、として直ぐに、また不適な微笑を浮かべるオーマだった。
 やはりゴタゴタが着いて来たか、そんな眼差しを戸口へと注ぎ、ゆっくりと腰を上げる。
 扉の向こう側に居るのは最悪、兵隊さま御一行かもしれない。夜目にもしつこく血の跡を追ってきたとしたら、まことにご苦労なことだと思った。
 激しく叩かれる扉に、恐れ気もなく手をかけて開け放った。
「おう、なんの用だい、こんな朝っぱらからよ?」
 オーマの体躯と野太い声。
 一瞬、気を呑まれたのは数名の男たち。
 彼らは咄嗟には言葉を返すことが出来ずにいたが、オーマの眼差しは油断なく彼らに注がれる。どれもちぐはぐな出で立ち、浮浪者っぽいものから気の良い青年風の男、面々を見回せば、どうやら心配は杞憂であったらしいと肩の力を抜く。そして男たちに囲まれるようにして抱かれているソレへと注がれて。
「…そのお嬢ちゃんは?」
 近づいて訪ねる。
 娘が身にまとう衣装のお蔭で、身分ある屋敷の侍女と直ぐ想像が付いた。もっとも衣装は水に塗れているところから、身投げでもしたのだろうか? 娘は唇から、透明な水ではなく、糸の様な鮮血を滴らせ、顔は蒼白。意識は無いらしかった。
 一見して溺れたってだけではなさそうだ。
 どうやら――また急患が運ばれてきたらしい。
「千客万来って奴かい、ったく」
 頭を掻きながら、それでも機敏な動きで、男たちを促して新たな患者を手術室へ迎えるオーマであった。
 この日――オーマは午前の回診を休む羽目になったのは言うまでもない。

***

 聖都の中心部、天使の広場近く――。
 一代で強大な富を築き上げた豪商の家がある。
 その屋敷は広大で、仕える者の数も下手な貴族よりはるかに多かったが、評判は著しく悪かった。裏では様々な腹黒いことを行っているとされ、随分多くの人間がこの家によって泣かされてきたからだ。
 だからあの日、豪商屋敷で起こったとある事件についても同情の声はなく、民衆の多くが喝采を上げたものである。

 その蒸し暑い夜――そう、ちょうどオーマが訳ありの女を助けた夜、豪商として名を知られる家に、覆面をした盗賊が押し入ったのである。
 要塞のような警備の厳しい屋敷へと忍び込むくらいだから、相当の覚悟と準備をしたのであろう。単独犯と思われる賊の手並みは鮮やかで、屋敷から多額の金貨と宝石を盗み出すことに成功した。
 後に判明したが賊は女。
 自身を義賊と名乗る漂白孤高の女怪盗であり、巷ではそれなりに名を売った賊だった。未だ一度も顔を見たものは居ないらしい。だが逃げる途中に屋敷のメイドと遭遇し、それがもとで警備兵と交戦する羽目となり傷を負った。

 もっとも賊は手傷を負ったものの辛くも屋敷を抜け出し追っ手を撒くことにも成功した。若いメイドは一人責任を負わされて屋敷を追われ、翌日、失意の挙句に、橋より身投げしたと噂が市井にのぼったのが翌朝。

***

 件の騒ぎから随分と日々が過ぎての早朝だった。
 強い朝陽が照りつける家の前で、オーマの見送りを受けるようにして旅立とうとする女の姿があった。
「色々と世話になったね」
 と、女は言った。
 その腕には大事そうに件の金貨が入った袋を抱え。ようやく癒えた肩口の傷をポンポン軽く叩きながら、
「ところでさ、アンタなんでアタシの名前――訊かなかったんだい? 名乗らなかったアタシもアタシだけどさ、もしかして訊く必要がなかったってこと?」
 言葉の通りオーマは、今に到るまで、この曰くありげな患者の名前を訊こうとしなかった。理由は、女の言葉の通り――訊く必要がなかったからでもある。
「いや、なに…お前さんがうちに駆け込んで来た夜だったか。確か悪名高い豪商の屋敷に賊が一人潜入して、盗みを働いたらしい。俺は後日知ったんだが、これが結構名の売れた女盗賊でな、異名はなんて言ったか。…ああ、思い出せねぇんだが――お前さんが心当たりあるんじゃねぇかと思ってな?」
 いけしゃあしゃあと、言い切ったオーマ。
 女は微かに警戒の眼差しを投げかけていたが…やがて破顔して、
「あっははは――何が思い出せないさ、先生…アンタとっくにアタシの正体に気付いてたね? まっ、それを知っていて治してくれてありがとうよ。一応礼を言っとくさね。そうだよ、アタシがあそこの大悪党から金をせしめた、賊だよ」
「おうおう、やっぱりそうかい。でもまあ、礼を言うのはちいっと早いぜ? ――それで、お前さんはさながら義賊ってのを気取ってる訳かい?」
「気取ってるってのは気に喰わないけどねぇ。ふん、まっ、そんなとこか。あの屋敷にあるのは、どうせ散々にあくどいことをやらかして貯めた金なんだ、アタシが盗んだってどうってことないさ」
「果たしてそうかな?――お前さん、その金は貧しい連中にでも配るのかい?」
「冗談――アタシが傷まで負って稼いだ金だよ? アタシは其処までお人よしに出来ていない」
 にべもなく否定する女。
「わっははは、おいおい、なんだ、義賊ってのは口先だけかよ?」
「…………」
「まあ、俺も噂でお前さんのことは小耳に挟んでいるからな、そんなことじゃねえかと思ったぜ。これまでに施しの類をしたという話は聞いてないしな」
「――なんだい、先生。アンタまさか、アタシのことを治しておいて、あんな悪党の肩持つつもりじゃないだろうねぇ?」
 自分を非難する風向きに、女が穏やかならぬ口調で問う。
「別にそういう訳じゃねぇよ。だがなぁ…俺様としても手術代は頂こうと思っただけだ。払えない奴から奪う趣味はねぇんだが、どうやらお前さんは別らしいんでな」
 と、呟くオーマの手には、何時の間に奪い取ったのか、ぎっしりと金貨の詰まった例の袋。それをぶんぶんと振って。
「――!?」
(アタシの荷物、何時の間に!?)
 女は慌てて自らの荷物を探ったが、当然の如く既に何もない。
 そして自他共に腕利きの盗賊と自負する女が、信じられない不覚をとったのに動転し、驚愕している最中、
「てな訳で、コイツは俺が頂くぜ?――じゃ、達者で暮らせよ」
 もはや何事も無かったかのように、屋内に戻ろうと踵を返すオーマ。
 幾らかの謝礼は払うつもりであった女だったが、さすがにこの展開はまったくの予想外だった。
「なっ、ちょ、ちょっと待ちなよっ。アンタ、その袋の中に一体幾ら入っていると思ってるんだい。医者の癖にボリ過ぎだろうが!!」
 血相を変えて詰め寄ろうとする女。
 怒りか、興奮か、逆上のためか、彼女の腕は腰に差した自慢の短刀の柄を握り、いまにも白刃を抜きそうであった。
「待てって言ってるだろうが、この泥棒医者っ!!」
 叫ぶように吐き、女は刃を抜いた。
「ああん?――おいおい、放っておけば確実に死ぬはずの命が助かったんだぞ。それに比べれば安いもんだろうが」
 くるりと振り返ったオーマは堂々たるものであった。
 その言葉が女の怒りに拍車をかけたらしい。
 途端、眼前にある程度手加減されてはいたが、華奢な女が扱うとは思えない鋭い刃音が迫った。恫喝のつもりか。
 もっとも医者とは別に、歴戦の戦士というもう一つの顔を持つオーマには、その程度の脅しが通じるはずもないのだが。一秒足らずで女はそのことを知ることになった。
 彼女は逆に、オーマの振るった片手によって、得物を握った手首を簡単に押さえられてしまった。
 並を軽く凌駕する握力である。
「痛――」
 女は苦痛に顔を歪めた。
「そりゃまあ。だけど刺されたらもっと痛い」
「っ――くっ、くそっ!」
 もがく女だが、万力に挟まれたようにびくともしない。
「は、離せ!!」
 言われれば、ポンっと離してやるオーマ。
 女は2、3歩よろけると、軽く地面に尻餅をついた。
「あー、一応忠告しとくが、お前さんは犯罪者な訳だ。傷を負っていたから医者として助けたのは当然だが、その後は――普通ならばどうなるか分かるよな? 俺様は心が広いから、見逃してやろうという訳だ」
「ち――畜生っ!」
 世間ではそれを横取りとも言う。だが女は段違いの力量を悟って唇を噛むしかなかった。 
「ふむ、だから礼は早いと言ったんだが。まっ、元気だしな。生きていればまたやり直せるさ、じゃあ今度こそホントに達者でな?」
 ニヤリと多少意地の悪い微笑を浮かべると、地面にへたり込んだままの女にウィンク一つ呉れてやり、オーマは軋む扉を閉めた。
 取り残される女。
 暫く呆然と、閉ざされた扉を見つめていたものの、陽が高々と昇りきるまでそうしている訳にもいかず、やがてふらふらと立ち上がると何処へとも立ち去った。
 何処かで犬が吠えている。
 そろそろ路地にも、喧騒が広がり始めていた。

***

 簡素な病室のベットの上でその娘は意識を取り戻した。
 危うくなくす筈の命を取り留めたその表情は、しかし何故か暗い。
 手前にある看護用の椅子に腰を下ろすオーマが、翳りがある娘の横顔を眺めていた。
 今日は丁度、女怪盗が出ていた翌日の朝に当たる。
「あの、先生――」
 連日に渡る強い日差しを避けるため、遮光カーテンをひいた部屋だったが、そのためか涼しさには恵まれていた。そんななかで続いていた沈黙だったが、娘の方がそれを破った。
「なんだいお嬢ちゃん?」
 優しく応え返すオーマ。
「あの、私の身体、治してくれてありがとうございました…」
「おいおい、俺は医者なんだから当然のことをしたまでだよ。だがなぁ、お前さんあんまり嬉しそうじゃねぇな?」
 苦笑に近い表情でオーマが問いかけた。
 暗い表情の奥に潜んでいる理由に、大体の見当が付いているからである。
「……………」
「図星か――」
 娘は無表情だったが、一瞬言葉に詰まったのがよく分かる。
「あの…私」
「骨折の具合から見て――お嬢ちゃん、自分から飛び降りたんだろ?」
「――!!?」
 今度はあからさまな動揺。図星も立て続けに指されると溜まったものではない。
「まっ、そう驚きなさんな。こっちは医者だ、そのくらいのことは傷と、患者の顔色を見れば判るもんだ」
 それに治療に当たる際にオーマの顔を顰めさせた、娘の身体に幾重にも刻み付けられた虐待の痕。生々しい記憶が蘇ると、彼は相手に気付かれぬように溜息を吐く。
「……………」
「んで、お嬢ちゃん、あの『悪名高い』豪商屋敷のメイドさんだろう?」
「ど、どうしてそれを?」
 震える声で娘が目を見開く。
「あのなぁ、お嬢ちゃんが此処に運ばれた時に着ていたメイド服をみりゃ一目瞭然だぞ。おおかた先日の盗賊騒ぎが関係しているのも直ぐ分かった。その余波かなんかでお嬢ちゃんにも難儀が降りかかったのも顔色で見当が付くし、傷の具合でお嬢ちゃん自身が飛び降り自殺――まあ未遂か、を図ったのも想像ぐらいはつくさ」
「…………」
「まったく、あそこの家は悪い噂が絶えねえからなぁ。どうせ騒ぎの責任でも押し付けられたんだろう?――と、すまん。お嬢ちゃんもあの屋敷で暮らしていたんだったな」
 噂では騒ぎの場に居合わせて賊を目撃したメイドがいたらしいが、どうもこの娘であるらしい。まあ、奇しくも同じ屋根の下で養生していたのだが、どちらもそれに気付かなかったのはオーマの配慮か、どちらも重病人だったためだろう。
「はい…私にも責任はあったから。いえ――それは構いません。お屋敷が世間でどう言われているかは知っているつもりです」
 娘が小声で名乗ると、オーマは微笑と供に頷き返した。
 そしてまた沈黙。それはそっと相手の言葉を促すことに通じた。娘が小さく喋りだす。
「私――あの夜、屋敷に侵入した盗賊を見たんです」
「…………」
「でも、怖くてどうすることも出来なくて…」
「…………」
「当然旦那様は私を――許してはくれませんでした」
「…………」
「いえ、違うんです、本当は…私が、私が盗賊を逃がしたんです…」
「…………」
 それきりまた無言。室内に静寂が訪れた。
 震えた声で紡がれた言葉の意味を、オーマはどう解釈しどう読み取ったものか。
「まっ…俺はお嬢ちゃんが、どうしてあんな屋敷で働く羽目になったのか、どんな目に遭ってきたのかも知らねぇ。俺とお嬢ちゃんの関係もあくまで医者と患者にすぎねぇ。けどな――そんなに簡単に死のうなどと思いつめんなよ。何処かで悲しむ奴は必ず居るもんだ」
「私には――」
「居ねえってのかい?――おいおい、少なくとも俺は悲しいぞ? なにせ折角必死こいて助けたんだし、少なくともこの後でまた自殺でもされたら後味悪すぎる」
「…………」
「だから生きな。安易に死を選ぶなんてことは厳禁だ」
 オーマの言葉は何処までも明るい調子だが、有無を言わせない迫力と重みも持っていた。
 娘は静かに、項垂れるように頷いたのだった。

***

 それから何事もなく平穏無事に三日が過ぎ去ると、娘の退院の日が訪れた。
 娘は屋敷に引き取られた時点で既に天涯孤独の身であったらしい。詳しい事情は訊かなかったが、両親を知らない娘であることは確かであるようだった。屋敷内での彼女に対する扱いも、身体に刻まれた虐待の痕を見れば察しがつく。
「で、――これからどうする?」
 先日、女怪盗を見送った場所に立ち、今度は肩ほどもない娘を見下ろして、オーマはそう訪ねる。
「屋敷に…戻ろうかと思います」
「おいおいおいっ、今更戻ったところで良い事なんてねぇんじゃねぇか?」
「…ええ、盗まれたお金も犯人も見つかってないですから――本当なら屋敷には戻れません」
「……………」
「戻ったところで、どうなるかも分かっています。でも、私には他に行くところもありませんし。あっ――大丈夫です、先生…オーマさんに言われたとおり、自分から死ぬような真似はもう、決してしませんから」
 力なく、それでも見上げるように微笑みを返す娘。
 そんな儚い仕草を見ると、オーマはついつい腰に片手を当てて親父くさく嘆息する。
「そうか。色々と大変だろうが…それじゃあ、まあ俺から餞別を贈ろう…」
「…餞別…です、か?」
「おうよ、ちょっと待ってな」
 軽く笑ってから、オーマは家の中へと消えた。言葉通りに彼は直ぐにまた姿を現したが、右手にはずっしりと重そうな袋を提げていた。
「これだ、これ」
 と言って、娘に手渡そうとする。
 怪訝な様子で首をかしげながらも、とりあえず受け取る娘。
「あ〜、確か…お嬢ちゃんが運ばれた日の翌日だったか、これが家の近くに落ちててな、まっ開けてみな」
 あの女怪盗から巻き上げた件の袋、中身は言わずと知れていた。
「――――えっ!?」
 言われたとおり袋口を開いて中身を覗いて、一瞬凍りついたように驚く娘。その折、それはもう、オーマはかな〜りわざとらしく、
「おうっ、その驚きよう、もしかして中身は盗まれた品物だったとかいうオチか?」
 しゃあしゃあと尋ねて見せた。無論エリサは驚愕の余り、それと気づかない。
「あの、これ――はい…でも、でも一体どうして?」
 金貨だけではなく盗まれたとされる宝石、屋敷の家紋入りの指輪まで揃っている。当然驚きは隠せなかった。
「さあなぁ? 詳しいことはまったく知らん。俺は拾っただけだし。まっ、落し物は落とし主に返すのが当然だろう。良かったな、――これでお嬢ちゃんも堂々と屋敷に戻れるかも知れねぇ」
「え、ええ…、は、はいっ。あ、ありがとうございますっ!!!」
「なあに、まあ、礼は神様にでも言ってやんな。ソーンの神様も偶には粋なことをするもんだって、実は俺も感心してるところさ」
 内心はそのまったく逆の心境であったのだが、そんなことはおくびにも出さずに爽やかな笑顔で、深々と頭を下げて礼を述べる娘に頷く。
「あの、本当に――」
「だから礼は要らねぇよ、お嬢ちゃんが瀕死でここに運ばれたのも神様の廻り合わせだと思っときな、盗まれたものがまたかえって来たのもな。俺はただのおっさん医者だし、拝まれるほどの上等な人間じゃねぇ」
 自由になった右手で頭を掻くと、今度は娘を促した。
 娘はもう一度深々とオーマに頭を下げると、日差しの強い雑踏の中へ足を踏み出した。
 徐々に遠退いて小さくなっていく華奢な背中、オーマは視界から消え行くまでじっと見送っていた。
「――いけねぇよなぁ、あんなお嬢ちゃんの不幸を黙って見過ごせねぇよ」
 腕を組んだまま苦笑染みた彼の呟き。だがそれは今まで抑え続けていた感情が滲み、まるで獰猛な唸り声を思わせた。
 とある屋敷の主に対しての、怒り――であった、

 それから一ヶ月余り。
 聖都中央に屋敷を持つ悪名高い豪商の家が、理由不明のまま没落の憂き目にあっていた。
 そう、あくまで理由は不明であり、様々な憶測と噂が流れたが、今まで煮え湯を飲まされてきた多くの民衆は喝采を上げた。それも時の流れと供に直ぐに忘れ去られたが、
「あ〜、そうそう、ソレだ、その端にある縫合糸っ」
 オーマは変わらずに日々を暮らしている。
「はいっ、先生――これですね?」
 彼の側には何時ぞやの娘の姿。
 身寄りのなかった彼女は、豪商の家没落後にオーマに引き取られる形で雇われたのである。今では彼の知人の家に住まわせているが、オーマの下で看護婦の修行中でもあるらしい。
「おう、ありがとさん、っと…そろそろ飯のしたくしなけりゃならねぇ頃合か」
「先生――じゃ、今夜は私が」
「おいおい、そろそろ帰らねぇと拙いだろうが…それとウチは今、生憎食材を切らしてるんで凝った料理は無理だ」
 そういって医療器具の整理に勤しむオーマが、部屋を出掛けた娘を呼び止める。
「ええ? じゃあ今晩はどうするつもりだったんですか?」
「勿論外食だ…」
「あっ、またあの居酒屋さんですか?」
 其処はオーマ行きつけの店の一つ。
「おう、何だったら一緒に寄って何か喰ってくか?」
 彼の言葉に考えるような素振りの娘。それを笑いながら半ば強引に連れ出したオーマ。
 陽の暮れた路上の喧騒に二人して影を従え歩く姿。見るものにまるで娘と父親のような印象を与えただろうか。
 オーマの隣で栗色の髪を靡かせ、笑顔を自然と零す娘の表情には、もう何処にも影は潜んでいなかった。