<東京怪談ノベル(シングル)>
生命誕生・世は無常
暑さも本格的になってきたこの季節、そろそろ夏の着物が必要になってきた。
ソーンでは、中つ国風の着物を商っている場所はとてもすくない。たまに見つけても大概の場合高価だ。それらは皆なんらかの偶然で中つ国、もしくはそれに近い文化を持つ異世界から漂着してきた、非常に珍しい品々である。もっとも高価なのはそのためばかりではなく、単純に着物の需要があまりないせいもあるのだろう。
なので刀伯・塵の着ているものは、市場などで似た布地を見つけた彼の愛娘が、手縫いで仕上げたものがほとんどなのだった。
塵がかつて死線をくぐりぬける日々を送っていたころは、着物など何着あってもすぐに汗や血でだめになってしまったけれど、ソーンに流れ着いてからはおおむね平和な日々だ。できるだけ大事に着てやりたいのが親心である。ただでさえ娘には、家事を任せきりで頭が上がらない。
「――衣替えぐらいは自分でやるか」
塵はそう呟いて、縁側からむくりと起き上がったのは必然というものだ。
ここのところ気候が不安定だったので、春物の着物も夏物の服も皆一緒くたにしたまま、まとめて自室の衣紋かけにひっかけてある。だがようやく夏が本格的に訪れたのか、最近は汗ばむぐらいの陽気が続いていた。さすがにそろそろ厚ぼったい木綿の単や、長襦袢の類は仕舞ってもいい頃だろう。
人生三十年、独り身の時代もあったので、長着のたぐいをたたむぐらいはできる。
ついでなので、畳の上に好き放題散らばっている服を回収することにした。塵とて別に好きで着物を散らかしているわけではない。だがきちんと整理しておいても、ちょくちょく侵入してくる怪現象たちにかかれば、部屋の中のなけなしの秩序など砂に描いた絵も同然。片付けては散らかされ片付けては散らかされを繰り返して、いつの間にか諦めた。
「……まあ、こういうのは心がけだ」
どうせ散らかるからと言って、掃除をしなくていいという理由にはならない。ちまちまと襦袢をたたみながら、塵は言い訳めいたつぶやきを漏らす。
理想というものは、理想であるがゆえにいつだってうつくしい。
「さて」
ひととおり片付けると、今度は今後着るはずのものが問題になってくる。
娘が縫ってくれた夏物は、ずいぶん前にどこかにしまっておいたはずだが、はて、どこだったろうか。
「ここか?」
箪笥の引き出しを開けてみると、何故かその中で居心地よさそうにしていたイン……の幽霊と目が合った。
見なかったことにして塵は勢いよくそこを閉めた。
「……いや、こっちだったような気が」
首を振って押入れを開けると、今度は押入れの天井からぶら下がった女幽霊が熱視線を投げてきた。
間髪入れず踵を返して自室を出た。
「一万歩譲ってあれが生きてる女なら、まだ救いがあるんだが」
しかし部屋の主も知らぬ間に、押入れに上がりこむような女である。生きていようが幽霊だろうが、迷惑であることに変わりはない。自分はもしかして疲れているのだろうかと首を振りつつ、塵はそのまま廊下を歩いた。
障子を開けて、住人共同の座敷に上がりこむ。
ここにも押入れがあった。そういえば住人たちが、先日ここを覗き込みながらなにやら話し合っていたのを思い出したのだ。もしかしたら娘は、住人の夏服をまとめてここにしまっているのかもしれない。そろそろ本格的な衣替えの季節だから、住人たちは各自勝手に自分の衣類をここから引っ張り出している……のかもしれない。
というより、いつのまにか怪生物に侵食されている自室よりは、ここに安置されていると思いたい。
「今度こそ」
からり。
押入れの襖を開けると、今度は何とも目が合わなかった。そもそも中にあったものには目がなかった。
積み上げられた座布団の隣、裸の板敷きの上には、大きな卵がふたつ鎮座ましましていた。卵? 目の錯覚ではないかと、塵は目をこすってみる。楕円形の造形物は視界から消えない。頬をつねってみる。しっかり痛い。ということは、これは現実なのだ。
「…………」
ぱたん。
手が勝手に動いて襖を閉めると現実はそれで見えなくなった。完。めでたしめでたし。
◇
「めでたいわけがあるか――ッ!!」
すぱーん! と押入れを全開にすると、やっぱり卵はまだそこにあった。もろい卵を誰が慮ったものか、ふたつの卵の下には濃紺の手拭いのようなものが重ねて敷いてある。かぶりつくようにして卵を覗き込んだ。
やっぱりどう見ても卵だった。鶏の卵よりも、いくぶん大ぶりのようだ。数えてみると、やっぱり数はふたつ。食用でないのは明らかである。この家の料理担当はほかならぬ彼の娘である。彼女ははきょうの夕飯の材料を、間違えて押入れにおしこむほどのうっかりさんではない。
何の卵だ。今度はそれが問題になって、塵は今までになく頭を高速回転させた。
無生物はハナから除外、女幽霊やルドなんちゃらの幽霊も却下だ。幽霊は繁殖しない。万が一したとしても、幽霊の卵はやっぱり幽霊のはずだ。この卵は透けていない。透ける‥‥その言葉で精鋭部隊のことを思い出して一瞬顔から血の気がひいたが、よく考えればこんな小さな卵から連中が生まれるはずはなかった。
ぬるぬるした天使はとにかく見た目は少年である。性別的に無理だと思いたい。
そうすると、可能性があるのは亀か鰐か、それとも‥‥。
ぺたぺたと気の抜けた足音に塵は顔を上げる。
開きっぱなしだった座敷の障子の前に、温泉ぺんぎんが立っていた。
や、とあいさつがわりに片手(便宜上そう呼ぶことにする)を上げて、反射的に手を上げ返した塵の目の前を通りすぎ、ぺんぎんは押入れの中に身をかがめて入り込んだ。短い足の間にふたつの卵をはさんで、よっこいしょとうずくまる。
卵を腹であたためるその姿勢はどう見ても親のものだ。
「まさか」
思わず洩れ出た塵のつぶやきに、ぺんぎんはようやく事の次第に気づいたようだった。きょろきょろと周囲を見回し、隠れ場所がないことに思い至る。
現実を受け入れがたく、塵は無言でぺんぎんを見つめている。しばらく考え込むようにしていたぺんぎんは、やがてぺちん、と片羽の先で額を叩いた。照れ隠しのように。
――この仕草を塵ならばさしずめこんな風に訳するだろう。
『ああン、ついに見つかっちったあ。てへ☆』
ぶちぃっ。
「……お前かあ――――ッ!!!!」
◇
「……まぁ、産んでしまったものは仕方ないだろう」
大人らしくもなく取り乱したことを恥じるように、苦虫をかみつぶした表情で塵はつぶやく。
ともすれば怪現象・怪生物を引き寄せがちな自分の運命を呪いたくもなるのだが、いつまでもぐだぐだ言っていたところで事態は好転しない。ともかく現状という枠の中で最大限の努力をしなければならないのだと、塵はサムライとしての人生の中で学んでいた。こんな『現状』がやってくるとは当時思ってもみなかったが。
「きちんと育てる気はあるんだな? ん?」
塵が問えばぺんぎんはクワ、と鳴くことで返事をする。否定的な意味合いは感じられない。
「しかしこの場所は問題じゃないか? ここには外敵が思いのほか多い」
抱卵の場所として、押入れという目の付け所はまあ悪くない。
しかし塵の自室の惨状を省みるまでもなく、この家は数々の怪生物がひっきりなしに出入りする場所である。ご近所でも評判の怪物件、その実態は人なる身の想像力を超える不思議の宝庫、この家に住めばとにかく退屈だけは決してしないと家主みずからの保証つき、入居したその日から体験するのは驚天動地、奇々怪々、奇想天外、阿鼻叫喚……なんだかわけもなく悲しくなってきたので塵は考えを引き戻した。泣いてなんかない。
ともかく卵をここに置いておいたのでは、いつ何時怪生物たちの危機に晒されるかわかったものではないのだ。
「もう少しだな、子供にいい環境があるだろう。こんな薄暗い場所で‥‥いやいや、明るい場所はもっとまずいな」
外の林には夜な夜なアレとかアレが徘徊する。『島』や鰐のいる池は問題外。庭は精鋭部隊の訓練場所だ。あそこに陣取れば、早朝から彼らの暑苦しくも気息奄々とした訓練風景を見るはめになるだろう。かといって室内に抱卵の場所を設けたとしても、家の中にはところ構わず出現する女幽霊、ぬるぬるした天使……そもそも安全な場所などというものがかつてこの家に存在したことが、一度たりとてあっただろうか? いや、ない(反語)。
「……すまん。俺は無力だ」
考えてみれば、この家ほど新たな生命に対して非情な場所はそうそうなかった。
がくりとうなだれた塵をなぐさめるように、クワ、とぺんぎんは一声鳴く。
「慰めてくれるのか。すまない」
クエ。
「しかしそうは言っても、気づいてしまった以上このままにしておくわけにもいくまい」
思えばほかの住民たちは、ここのところ挙動不審だった。この押入れを時折覗き込んではにこにこ、襖を閉めてはにこにこ。あれはこの卵の存在を知ってのことに違いない。知っていたならばひとこと教えてくれればいいのにと思うが、恨んでも仕方のないことだ。
クワ、クワ、と手足をばたつかせたぺんぎんに首を振り返して、塵は腕組みして思案する。
「かくなる上は、俺の部屋で命に代えても守りぬ……」
言いかけて愕然とする。
今、自分は、ぺんぎんと、とても自然に、非常にさりげなく、素で会話を交わしてはいなかったか?
クワ。
そうだよ、とぺんぎんが言ったように思えて、寒気を感じた男は勢いよく立ち上がった。
「いかん」
このままではいかん。ぺんぎんと会話する三十男。あまつさえ無数のぺんぎん「だけ」に囲まれて、家の縁側でさみしく余生を過ごす自分の姿すら思いうかんだ。三十歳男性、独身、友達は物言わぬぺんぎん。寒すぎる未来予想図だ。非常にいかん。危険信号だ。俺は隠居人生を孫に囲まれて過ごすと決めているのに、このままではぺんぎん語を解する変なおっさんになってしまう。俺が女ならば、ぺんぎんと昼夜ちちくりあう男と付き合う気になれるだろうか? 答えはもちろん「否」だ。
心の平穏のためにも、俺は常識の岸に立っていたい。
キュ? とぺんぎんが驚いたように声を上げた。クワ、クワと両手をばたつかせて騒ぎ始める。まるで、塵がこの場から立ち去ろうとするのを引き止めるようだ。いや引き止めているのだろうと塵は解釈した。しかし。
「安心しろ、卵は守ってやる。だがこのままでは、俺の常識があやうい」
(クワックワックワックワックワックワッ)
「せめて俺だけでも正気を保たなければ、この家の化物たちから誰が子供たちを守るというんだ」
かつてその子供たちと肩を並べ、命を賭して戦ったのだから、(クワックワックワックワックワックワッ)すこし考えれば彼らがただ守られるだけのタマではないことはわかりそうなものなのだが。
「そうだ、娘か息子のところに卵を預ければ」
(クワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワッ)
「そうだな。名案かもしれない。それならば安全だろう。少なくともあいつらは俺ほど奴らに好かれてはいないし」
あまり(クワックワックワックワックワックワックワックワッ)自慢できたことではないが、(クワックワックワックワックワックワックワックワッ)幸い今の塵には自分で言ったことに自分で傷つくほどの余裕は(クワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワックワッ)なかった。
すでにぺんぎんの鳴き声は耐え難いほどになっていた。いつ息継ぎしているのか疑わしいくらいの勢いで鳴き続けている。耳を聾する鳴き声で思考が先に進まない。返事をすれば、砂の城のごとき自分の常識が崩れ去る気がしてあえて背を向け無視しつづけているのだが、さすがにこれはもう限界だと塵は感じた。放っておけば騒音公害だ。
「おい、少し黙……」
クワーッ!
自分の常識にもう一度だけ蓋をして振り返った途端、ひときわ大きな声が室内、いや、家中に轟き渡った。
ぱき。
ちいさな音を塵は確かに聞く。
ぺんぎんの足元から、なにか黄色いふわふわした、小さくて丸いものが這い出してきた。まさか。ぱき、ぱきぱき。もう一度同じ音が聞こえて、布団の上に卵のかけらがぽろぽろとこぼれた。これはまさか。
ぺたぺたと聞き覚えのある足音がして、走ってきたらしいもう一羽のぺんぎんが現れる。新たに現れたほうのぺんぎんはすぐに事態を理解したのか、一直線に夫だか妻だか(塵は彼らの区別がいまだにつかなかった)の元へ走った。卵を抱いていたぺんぎんは喜びの声をあげ、その腹の下からはぴいぴいと甲高い鳴き声が聞こえてきている。
ぺんぎんが騒いでいるのは塵を引き止めるためなどではなかった。もう今にも卵が孵りそうだということを、その腹で感じていたのだろう。そのときを知らせるため、家のどこかにいる伴侶に呼びかけていたのだ。
「う」
生命、誕生。
塵はかくりと膝をついた。唖然、呆然、愕然、悄然。あんぐりと開いた口がふさがらない家主を前にして、ぺんぎんたちは新たな家族の誕生を喜び合っている。
確かに誕生はめでたい。
しかし、塵にしてみれば、怪生物が増えた、つまり、夢の楽隠居が遠ざかったことでもあるわけで。
「生まれてしまった……」
しかも気がついてみれば、卵の下に敷かれていたのは手拭いなどではなかった。
塵の気に入りの、紺色の麻の単が丁寧にたたまれた姿であった。確かに大きさといい厚みといい、抱卵には申し分ないといえる。だがこれの置き場所を知っているのはもちろん。
彼以外には、彼の愛娘しかいないのだった。
こうして、塵の同居人ならぬ、同居ぺんぎんは二羽増えることになった。
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