<東京怪談ノベル(シングル)>


うたかたの淵より










忌々しげに眉根を寄せて、ち、とフォルティーナ・バルドは舌打ちした。
依頼を恙無(つつがな)く終えたまでは良かった。だが、身体が思うように動かない。自分の肩に付けられた刀傷を見、フォルティーナはゆっくりと息を吐く。私としたことが──そう思い、じくじくと痛む傷に別れを告げるべく、先ほど煎じておいた薬草を飲んだ。

身体を包む気だるげな痺れ。矢張りあの刃には、遅効性の毒薬が塗ってあったのだ。見抜けなかった自分に腹が立つ。
ベッドに身を投げ出し、もう一度フォルティーナは大きく溜息を吐いた。部屋の前には、きっと月が座り込んで番をしてくれているのだろう。長年連れ添った仲だ、気配でそうと判る。
相変わらず賢い狼だ、とフォルティーナは真一文字に結んでいた唇を緩めた。

飲んだ薬草を所為か、心地良い眠りが身体を包み込む。どうせ回復するまでは時間が掛かるし、急がねばならない依頼を受けても居ない。
暫く眠ろうと、フォルティーナは眠気に揺られて瞼を下ろした。





寝苦しい、夢を見た。
夢の中で自分は、荒野を一人歩いていた。其の手には、一振りの剣を携えて。



呆気無かった。酷く重く感じる剣を引き摺りながら、フォルティーナは只管歩く。身体中がずきりずきりと鈍く痛んだ。だが、自分は痛いと思うことすら許されない、そんな気さえ、した。
何と自分は無力だったのだろう──ふと足を止めて、フォルティーナはぼんやりとそう考える。友好国であった隣国が攻めてくることを、予測することが出来なかったから?戦いが唐突すぎたから?敵の情報が少なすぎたから?否、違う。緩く被りを振って、フォルティーナは唇を噛んだ。歯が食い込む部分が、赤く歪む。

自分が、弱かった。未熟だった。唯、其れだけだ。

毎日の剣術の鍛錬は、貴族の家では当たり前のことだった。子息では無いにしろ、貴族の家の娘として、フォルティーナ自身も毎日鍛錬を積んだ。指南たちのような達人から褒めちぎられ、剣を一振り振る度に喝采を送られ。フォルティーナはそんな中、自分の価値を疑いもしなかった。

「……私が、馬鹿だった」

重く呟いて、ぎゅ、と剣の柄を握り直す。平和な国で剣を振るうことに、何の意義があったのだろう。自分は愚かで、そして弱かった。ならば、強くならなければ。強く、強く上を目指さなければ。
フォルティーナは、もう一度歩き出す。噛み締めた唇には、薄っすらと血が滲んでいた。



ああ──と、夢の中でフォルティーナは理解する。
これは、私だ。心の奥底に巣食い続ける、遠い昔の夢。
あの人と出逢ったのは、何処だったか──フォルティーナは考えるうち、また夢に揺られて落ちていく。



「コロシアムか。楽しくなりそうだ」

力強い声が、楽しげに響く。其の言葉を発した人物は、使い込まれた剣に其の身を凭せ掛け、満面の笑みを浮かべてフォルティーナを見つめていた。フォルティーナも薄っすらと笑みを浮かべる。花のような、優しく柔らかく、そして艶やかな微笑み。

「ありがとう。そう、そして私はいずれ貴方も倒すの」



間違いない、あの人だ。夢の中で自分と会話を交わす人物に、フォルティーナは薄っすらと記憶を探る。
そんな形だけの剣では、剣士としてやっていけまい。落ち延びた旅先で、そう声を掛けて来たのはあの人だったか。
何と懐かしい夢を、自分は見ているのだろう。湧き上がる泉のような記憶に、フォルティーナの意識はもう一度夢の中に引き摺りこまれる。



恩師に向かい、フォルティーナは凛とした視線を向けた。
嫣然(えんぜん)とした微笑を湛えたまま、フォルティーナはゆっくりと唇を動かす。悔しさに塗れてこの唇を噛んだことと、其の時の血の味はきっと忘れないのであろう──そんなことを、考えながら。

「もっと強くなる。ただひたすらに。ただそれだけが私の望みなのだから」

夢は、其処で途切れた。





急浮上する意識の中、フォルティーナはベッドの上でゆっくりと瞼を押し上げた。一体どれほどの間、あの懐かしい夢を見ていたのか。そっと身体を起こすと、既に毒は抜けていたようだった。
懐かしい、本当に。フォルティーナは、緩やかに息を吐く。



「守るものも守りたいものも、何も……」

要らない。





■■ うたかたの淵より・了 ■■