<東京怪談ノベル(シングル)>


いつか水になる日まで


 神、天にいまし。
 彼の人、我らを天より見守りて。

 我等の為、御子を下し、その御子、傷を負いたもう。
 十字にかけられし、その傷。
 それらは我等の罪と同じなれば。


 ――神よ。

       ――憐れみたまえ。





 ――出れないの。

(出れないわ)

 外に出たら死んでしまう、命が……削られてしまう。
 美夜に掛かった呪いはそれだった。
 結界のある家の中から、出れない。
 出ることさえ叶わない……絶えてしまう命なのに何故、出て行く事が出来たろうか?

 その中で、許された世界の中で母様が歌う。

「Ave、 ave、 verum corpus、 natum de Maria virgine……」

 不思議な、言葉の歌。
 後に聞くとそれは「ラテン語」と言う言葉で。
 神様の事を教わる時、大概にしてそれらが一緒についてきた。
 祈る時でさえ、一緒に。

 ――綺麗な、言葉。

 自らの中で響く度、浄化されていくような気がする。

 だけど。
 外から楽しそうに響く、皆の声も私は大好きで。

 一緒に、遊びたかった。
 輪の中に入って――、くたびれるまで、駆けてみたかった。

(でも、叶わないわ)

『だって』

(――やめて)

『だって美夜、貴女は』

(――その先は言わないで)

『振り切ったんだもの……皆の声を。母様を、選んで』

 ……それ以外、何が出来たろう?
 同年代の子達の声は耳を塞げば消える。

 けれど。

 耳を塞いでも。
 瞳を閉じても。

 母様の声は消えない、姿は消えない。
 何時でも確かなほどに、「存在」している。

 消えない人。
 私にとって「絶対」の創造主。

 そう――神の勉強をしている時でさえ、母様のような人が神様なのだろうな、と思っていたほど。

 ただ。
 どうしてか。

 時折、怪我をして帰ってくる母様が。

 酷く、霞んで見えた。






 思い出せば思い出すほど。
 様々な風景が落ちてくるものだ。

 美夜は、閉ざされた部屋の中――、いいや、此処はもう閉ざされた部屋ではなく、宿屋の一室なのだが……へと、瞳を伏せた。
 見えては居ないのだから、開けていても閉じていても同じだと……思うのに、何故か「母親」の事を思い出すときは祈る時のように、自然と瞳が閉じられた。

 しゃらん。

 僅かな音を立て、十字架が、揺れる。

 美夜は再び想いを馳せる。
 未来ではなく、過去へ。

 母親が、居た頃へと。




 小さい頃の私は、母様の膝に顔を埋めるのが大好きだった。
 髪を撫でてくれる掌。
 歌を歌ってくれる綺麗な声に込められた優しい響き。

 歌い手だった母様の声は、何処までも高く、空気へと溶けていく。

 だが母様は歌を歌う事を辞めた。
 歌ではなく、母様は晶術を使う仕事を選んだのだ。

 だから、その事が納得できなくて、いつものように膝に顔を埋め、聞いた。
 代価を求め、傷を負いながら、やる仕事なのに。
 辛くは無いのかと。

 ……思いながら。

「母様は何故、歌う仕事を辞められたの?」
「それは――、そうね……大事なものが出来たから」
「大事なもの?」
「ええ……神と同じくらい、いいえそれ以上に大事なもの……命を捨ててもいいと思えるくらい、大事なもの」
「………そんな、モノがあるの?」

 たまらず私は母様へ問い掛ける。
 其処まで、大事に出来るものがあるのだろうか?
 神の勉強をしていて大事にするのは自分と同等に他人を思う事、だったけれど。
 それ以上に。
 自分以上に。
 大事に出来るものがあるとは思えなかった。

 ただ。

 母様は微笑う。

 穏やかに、優しく。

「…いつか美夜にも解るわ、きっと。そうしてね、解る時が来たら」
「うん」
「――幸せになれるのよ、美夜」

 幸せになれるのよ、と言いながら時折「ごめんね」と私の頭を優しく撫でる。
 細い指に髪を撫でられる度、さらさら、さらさらと髪が音を立て、私の首に掛かり、落ちる。

『ドウシテ、アヤマルノ?』

 この一言だけが聞けないまま。
 母様の手を求める。
 母様、と呼べば。
 なあに、と答えてくれ、掌を握ってくれて。
 触れたら――、抱きしめてくれる。

 そう。――いまや、母様の存在自体が、私の世界の全て、でもあった。

 無力な私を抱きしめて、慈しんでくれた、その腕の中……晶術を使い、どんどん深い傷を負い始めている、朱い、傷痕が見えた。






 遠く、此処ソーンの世界でも、鐘が鳴る。

 あれは、何の鐘だろう――と、何も見えない瞳を窓があるであろう方向へ定めぼんやりと思う。

(母様の記憶が途切れた時も鐘が鳴っていた……)

 教会の神父様が、我が家に向けて厚意で鳴らしてくれたのだと言う、弔いの、鐘。
 確か……私が13の時だった。
 物凄く蒸し暑くて、やけに風が吹かない日だったのを思い出す。
 不慮の事故、となってるけど術を使った上での事故だったのを私は、知っている。
 夏だったから――ドライアイスを炊いての葬儀。
 花も、見る見るうちにしぼんでいくから、造花も使った。
 出来るだけ、綺麗な白い花を集めながら、精一杯。

 そんな中、誰かが私を手招いた。
 家の門から少し離れた場所なのに、その人は私を手招き続ける。

 良く、その人の顔を見ると。
 親戚のおばさんで。
 時折、家に来ては母様に何かを言って帰ってた……その度に、母様が考え込むような表情をしていたっけ……。
 だからでも無いけれど、手招きされるまま、導かれるままに私はおばさんの傍らに寄る。
 不思議と、苦しくはなかった。
 呪いが掛かっている筈なのに、ホンの僅かの距離でも家から離れたら、動いたら、命を削る筈なのに。

 ううん、もしかしたら。

 私も母様と一緒に死ねるのかもしれない。
 だから気分がいいのかもしれない、とさえ。

「具合は良さそうね、どう気分は?」
「はい、体調もそうですが、不思議と気分も良いんですよ。母様が亡くなった、と言うのに不思議なものですね……」
 そう、言って笑おうとしたのに。
 笑えなかった。
 何故なら……。
「そうでしょう? 貴方のお母さんが亡くなれば消える呪いだったんですもの」
「え……?」
 上手い具合、聞き取れなかった気がする。
 今、この人は何と言ったろう?
「貴方のお母さんは、凄く悩まれてたわ。自分が生きれば消えない呪いを、けれど少しでも、と貴方の傍に居ることを選んで自らを削る真似をして……」
「………」
「それで漸く、迎えが来たのよ。だから……出来るだけ、何故死んだの、とは言わないであげてね」
「………はい」

 ああ――、そうか。
 おばさんはいつも、この事で母様と話をしていたのだ、と私は気付いた。
 そして、おばさんにとって大事だったのは、きっと母様。

 涙が、零れた。
 家から、ホンの僅か離れた距離。
 なのに、私は生きている。

 母様が居た、家を眺めながら私は、息をしている。

 どうしようもなく涙が溢れる。
 ごめんねと謝っていた意味も、今になって気付くなんて。
 気付かないままに、母様の掌を、ぬくもりを求めていた、なんて。

『ごめんね』

 ……違う、母様。
 ――謝らなきゃ、いけないのは……本当は、私。

 気付けなくて、ごめんなさい。
 何も出来なくて、ごめんなさい。

 母様の思いに一つも、報いる事が出来なくて――、ごめんなさい。

 それからと言うもの。
 私は人の手に触れることを…ううん、手ではない、全てに触れることを躊躇うようになってしまった。

 また、気付かないかもしれない。
 気付けないままで終わるかもしれない。

『そんなのは、嫌』

 弱虫と言われても触れられない。
 ぬくもりを求めてしまうのを、きっと止められない。

『触れるのは悪いことではありませんよ?』

 そう、言われても。
 私にはまだ――許される筈も、無いから。
 だから、どうか。
 どうか、触れないで。

 許されるまで。
 天の神が私に「赦す」と言うその時まで。

 ――それは、まだ叶わぬ願いだろうけれど……何時の日か赦されるまで。




・End・



+ライター通信+

美夜様、初めまして、こんにちは。
今回担当させて頂きましたライターの秋月 奏です。

とても深いお話で、少しでもその雰囲気を出せていたら良いのですが……。
お気に召した部分が一部分でもあることを祈るばかりです。

それとタイトルについてですが。
この国では人は死ぬと火葬され骨になります。
が、その骨も永い年月の末、何時しか水へとなるそうです。
綺麗な、純度のある水へと変化するそうで……赦される事がつまり、彼女にとっての
浄化ではないかと思い、この様なタイトルにさせて頂きました。

それでは、また何処かにてお逢い出来る事を祈りつつ……。