<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


Samael・3〜青の螺旋〜

 黒髪を撫でて、行きすぎるのは海風。潮の匂いが、微かに鼻腔を刺激する。
 歩みを止めたアレックスの瞳には、小さな港を埋める漁船の縁の向こう、水平線に沈む夕陽が映った。
 空は、朱金に輝く。
(「景色を気に留めたのは、何年ぶりだろう?」)
 そう思うぐらい、常の彼女にとってはどうでも良かったこと。けれど、近頃、そんな無為なものに気を散らす時間が増えていると思う。
 朝靄の空、鳥の羽ばたき、潮騒、星の瞬き……。気付くのはいつも、とても他愛なく小さなこと。それらは、戦いに身を置く彼女が知らずに来た、静寂と平穏と共にあるものばかりだった。
 賭ける命の重さを振り返ることもなく。戦いの日々に身を置いていれば、明日への思いも、希望も、不安も……アレックスを苛みはしなかったのに。
 今は。
 事あるごとに気持ちが揺れた。
 それに……。『彼』の行方を追い、この港町へ辿り着くまでに、アレックスは気になる『噂』を耳にしていたのだ。
(「溜息の数を数えてみたら……?」)
 アレックスは自戒するように思う。
 己の心が、自分の手の内から離れて行ったのは、熱に浮かされたように、黄砂を越えたあの頃から。だから……今、対峙する『見知らぬ自分』は、『彼』が変えたアレックスの姿に違いなかった。
「なぜ……」
 こんなにも自分は『彼』に揺さぶられてしまうのだろう。
「なぜ……」
 小さな声で自問を繰り返し、アレックスは海へ飲み込まれてゆく太陽から目を逸らした。
 現実へ立ち戻ろうというように……。

 その港町の酒場は、アレックスの雇い主からの伝言が入る場所だった。
 ただ……今日は、言伝を亭主から聞かされる前から、アレックスの心を占めていたものがある。――『噂』だ。
 アレックスが聞いたのは、古代有翼人種の『翅輝人』について書かれた文献が、ある遺跡から発掘されたという話だった。
 滅び行く種族の話は、俄かに人の口の端にのぼり、世間を騒がせようとしていた。それはつまり、『翅輝人』の生き残りが居るのかいないのか、人々の興味が向くことでもあり……『彼』の存在を危うくする種になる。
(「心配する義理などないのに……」)
 アレックスは唇を噛み締める。
 噂は少しずつ広まるだろう。それに、もしもあの夜、他にも『彼』の翼を見た者がいたとしたら……『彼』の身の危険はいっそう増してしまう。
 状況を知ったとて、『彼』は笑みを掃いて見せるに違いない。そして言うのだ。『俺を殺すのはお前なのだろう?』――と。さも当然と言わんばかりの表情で。
 アレックス自身が宣告した言葉なのだ。否と覆すことは出来ない。それなのに……彼女は今、言伝を受け取りたくないと思っていた。
「なぜ……」
 そんなことを思うのか、自分が分からない。自分がただ、答えを直視しようとしていないだけだということにすら、気付けずにいた。
 グッと拳を握り締めると、店の主人から、杯と一緒に紙片が回されてくる。
「……」
 無言で受け取った紙片に書かれていた内容は、アレックスの案じた通り、『彼』を生きたまま捕えよというものだった……。

 アレックスは酒場で時を過ごす。杯をあおるでもなく、揺れる蝋燭の灯を見つめながら、ただじっと深い思索に沈んで……。夜が更けるにつれ酒場の喧騒は増し、酔った客達のハメを外した大声が場を埋めたが、まるで聞こえていないようだった。
 だが、客達が三々五々に家路につこうとし始めた頃。ふと移ろわせた瞳に、青い髪が映った気がして、アレックスは目を瞬いた。
 『彼』だと思った矢先、空の青は外套のフードに隠される。
 立ち上がる長身には、追われる者の張り詰めた空気は無く、だからこそ、今まで喧騒の中に埋没していられたのだ。
 勘定を済ませ、出て行く姿を見送った後、アレックスも追いかけた。

 
(「――聞けば、あの『女』は……多分、怒るだろう。『馬鹿にしているのか?!』とでも」)
 思いながら、セフィラスは小さく笑う。
 世界は広く、自分1人が行方を眩ますことなど容易い。それでも、わざわざ『追いかけさせて』しまう。今この時も、――気配は断たれているが――自分を追う『女』がいるのを確信していた。
(「まったく、楽しいとしか言いようがない」)
 『女』がもたらした感情。セフィラスは、それを「なぜ」とは自問しなかった。久しく忘れていた感情の波が、心の水際に寄せるのを、少しばかり意外に思っていたくらいで。
 そして、人気の無い、港近くの小路に入ったところで振り向く。
 果たして、黒髪の『女』は姿を現した。

 自分は囚われるのかもしれない。
 いや、すでに囚われているのかもしれない。

 一方は追いながら。一方は追われながら。――2人は同じことを考えた。


「あんたとその羽は、たいそうな価値があるらしいわね」
 そう言う『女』の口調が重いのを、セフィラスは感じ取る。
「……?」
 対峙する時の、炎を思わせる苛烈な視線も鋭さもなく。『女』は続けた。
「生捕りにしたいと、1部隊こちらへ向かってる。……余程手に入れたいのね」
「その前に殺しに来たのか?」
 問い返すと、僅かに彼女の肩が揺れる。躊躇いが見え、『女』は視線を外した。
「足止めをしろと言われたわ。……でも、あなたはこの手で倒さないと私には意味がないの……」
 眉を寄せた彼女が何を思ったのか、セフィラスには分からない。捕らわれた者の末路か、自分の手で殺せない苦渋か。
「……俺を逃がすと言うのか? お前」
 YESの返事は口にせず、『女』は再びセフィラスを見る。
「あたしはアレックス。あんたを殺す女の名前よ、覚えておくといいわ」
 挑戦的な台詞は、だが、やはりいつもの精彩を欠く。それがセフィラスには残念で仕方なかった。命を賭けてこそ輝く彼女は、今、セフィラスが賭けた命からは、目を逸らそうとしているようだ。
「もう行くわ。いつかもう1度会ったら、それが約束を果たす時。それまで死なないで」
 願う言葉が、強く響く。
「お前は何処へ行くつもりだ……?」
 自分を逃がせば、彼女もここには居られないはずだ。
 絡み合う螺旋の運命から、1人、距離を置こうとするアレックスに、セフィラスは問わずに居られなかった。その衝動は、一体、何に突き動かされてだろう。
「血の匂いからは離れられない……。それだけしか分からないわ」
 彼女にはそれしかなかったのだと、セフィラスは気付く。
 アレックスの魂の輝きは血の海で生まれ、それ以外では、自らを研ぎ澄ます術も知らない。
 不意に、セフィラスは苛立ちと失望感に襲われた。
 アレックスにではない。そうやって生きるしか術の無い、彼女を作り上げた何かに。それは生まれなのかもしれず、環境なのかもしれず……、アレックスの過去を知らぬセフィラスには、想像の域でしかないもの。
「殺戮の中に身を置くな……。自分の未来は自分の手で選び取れ」
 輝きは失われた訳ではない。
 自ら輝く術を知らないのだ。
 その手で切り開く未来を。
「……っ」
 言いながら触れた指先を、アレックスの瞳が追いかけた。まるで、初めて触れた温もりにハッとさせられたかのように。
「一緒に来い。その血の匂い……なんとかしてやる」
 背を向けたセフィラスに、息を呑む気配が伝わる。そして……。
「……セフィラスだ」
 ゆっくり名を告げると、少しの間を置いて声がした。

 鋭くはない。
 けれど、濁りも無い、響き。
 セフィラスは無意識に笑みを掃いた。

「後悔するわよ」


 白み始める空は、2人が共に歩み始めた1日の始まり。