<東京怪談ノベル(シングル)>


聖都への祈り

「……で、その凶獣のウォズというのは、何なんでしょう? 」
 それまで聞き役に徹していた目の前の男の言葉を、ぼんやりとした表情で、この聖獣界ソーンを統べる王の一人娘である、王女エルファリアはそう言った。
「んー。この場合、なんつったらいいか……いいや、そうじゃねぇだろ。わかんなくなりかけてるが、それは、この俺がしつこいように、さっきから繰り返し言った筈だったんじゃねぇか……? 」
 何時もより多少丁寧な含みを持たせた言葉でオーマ・シュヴァルツはそう言った。
「そっ……そうでしたわね。でも、オーマ、それが全然、分からないの。困ってしまうわ……私どうしたらいいのか。ごめんなさい」
 エルファリアは小首を傾げて、さっきから見せているのと全く同様に、不思議そうな表情を見せた。
 そうして、のんびりとしたエルファリアの指示の元、二人はまた本を片付け始めた。
 その作業に再び、取り掛かったのだ。
 この王女の為に建造された、特異にして未だ謎が多い、ここ『エルファリアの別荘』。
 その名の通り、何もかもをこの娘の為に作られたものである。
 当の本人である王女は、この図書館の蔵書の整理に日々忙しく、至って平穏な日々を過ごしていた。
 もっとも、本人は忙しい日々を送っているつもりではいるが、それはある意味は主観の話であるだけであって、客観視した場合、それが必ずしも同様に通じるかと言えば、確実に否だった。
「何もここの王女さんである、あんたが直々に謝らなくても……そんなコトをされたところでよ、こっちが困るだけだぜ。要するに、何て言いやいいんだ、俺のいた世界じゃ、ウォズは普通だったからよ……人に説明すんのってすごく難しいコトなんだな。俺は思い知った気分だぜ」
 やれやれと言いたげなオーマを前にして、エルファリアは顔を上げた。
「そうですわ! 今、話を最初に戻せばいいんです、きっと。色々話を続けて、難しくなってきたからいけないと思うから。最初から改めてちゃんとして、始めるんです。その……具現能力って……」
「……お前さんの勢いに水を差すようで悪りぃが、既にそれもさっきから、3回目じゃねぇか。俺の記憶だと」
「そんな事、関係ありませんから。元々回数の問題じゃないんです。私、ちゃんと分かるまで、あなたの話を聞くつもりだから。あなたに対して、きちんと礼儀を尽くすわ。私、至らないところが多いかもしれないけれど、それでも何とかしてあげたいんです」
 背筋を伸ばして、そう宣言する目の前のエルファリアに、オーマはがっくりと肩を落として見せた。
 そう、この両者には、人と人が交流する上での、ある決定的なものが欠けていた。
 ―すなわち……意志の疎通である。
 エルファリアの別荘の、図書室の隅で、ふたりは本を片付けつつ、休憩を挟みながらも、向かい合ったまま、もう長い間話し込んでいた。
 そんな中エルファリアは、『めげない、くじけない、諦めない』の典型的な形を、端然と掲げるがごとくにして、至極真面目な顔でオーマの前に座していた。
 それは、いかにもな実直過ぎる王女の姿そのものでもあった。
 きっちりと背筋を伸ばした、エルファリアのその様子に、オーマは思わず苦笑いした。
 エルファリアは、元来、王宮で何不自由無く大切に育てられてきた王女だ。
 その辺りからして、常人との時間に対する感覚がずれているのかもしれない。
 それに加えて、このくだんの王女エルファリアにとって、『時間』は何時もまったりと流れているものらしい。
 それを嫌という程に実感しながら、オーマは先程から延々、前述のヴァンサー、ウォズなどに纏わる事の詳細を話し続けて来た。
 ……が、結果的には会話は平行線の域を出ない事は明らかだ。
 元々戦闘やら、血なまぐさい事に関しては、とんと縁が無く育てられた少女……に外見は見える相手ゆえに、余計にそうなってしまうのだろう。
その両者の会話に対して、流石のオーマも限界を感じたかのように
「こう言っては悪ぃが、もうこの俺に説明させんのは、やめた方がいいと思うぜ……」
そう言い掛けたオーマの言葉を、エルファリアがきっぱりと遮った。
「駄目よ。諦めてはいけません。私はちゃんと分かろうと思ってるの! その気持ちさえあれば、どうとでもなるでしょう? 」
 エルファリアの言葉に、オーマが再びがっくりと肩を落として見せた。
「分かっちゃいるんだがなぁ……その心意気だけは、さっきからひたすら強烈に伝わってるぜ。だがこの場合俺は問題が別にあるような……何でそれに気がつかねぇんだろうなぁ。別の問題ってヤツによ」
 オーマのため息混じりの言葉に、エルファリアがふと思い当たったように顔を上げた。
「……そうだわ、オーマ」
「何だよ? こうなったら俺が何でも答えてやっか、なんでも来いな状態だからよ」
「あの……オーマは、私に何をしてほしいの? さっきからヴァンサーとか、凶獣の話をしてくれてたの? 」
「あぁ?! それさえ伝わってねぇのかよ」
 エルファリアの言葉に、オーマは愕然とした表情で、とうとう頭を抱え込んだ。
 オーマのその様子に、エルファリアが首を振った。
「あら……でも、それは違うと思うんですけど……。確かにさっきから、ウォズ、具現能力、ヴァンサーさん達のこと、そういうあらゆるものの説明は、とにかくたくさん聞きましたけれど……でも、オーマが一体何を望んでいるかは具体的に聞いていない気がして……」
 エルファリアのその何気ない言葉に、オーマがぐっと詰まったように、顔をしかめて見せた。
「そう言われると……そういえば……って、じゃあ、俺達は一体これまで何を、べらべらとしゃべろうとして……結局は俺のせいだったわけか。はぁ」
「やっぱりそうだったのね、私、さっきから薄々そうじゃないかと……」
「気が付いてたんなら、最初からそういってくれよな、いい感じに体力の無駄遣いだぜ? 」
 脱力したようなオーマに対して、エルファリアが更に言葉を続けた。
「そうね。でもオーマがあんまり身振り手振りも使って、一生懸命に説明してくれるんだもの。私、戦闘とか魔物はよく分からない事ばかりだけれど、そこからオーマがどれだけ真剣なのかは伝わってきたわ。私が、本当に口を挟む暇すらないくらいに。だから、出来るだけきちんとした形で、オーマの話を聞こうと思ってたの。あなたは、しゃべり方はほんのちょっと変わってるけど、信頼に足る人物よ。だから余計にそう思うの」
 エルファリアはにっこりとして、そう言った。
 だが、王女エルファリアにとっての最大限のねぎらいとの言うべき言葉は、オーマに更に苦々しい笑いをもたらしただけの結果に終った。
「あの、でもひとつだけ、全然関係ねぇ事言ってもいいか? 」
「どうぞ? 何? 」
 常に周囲の人間に見せる、柔らかな笑顔を崩さず、エルファリアがそう言った。
「今までの話とは全然関係ねぇけどよ……つーか何時まで経っても、この図書室が全然片付かねぇわけが分かった気が……してるぜ、今」
 周辺に山と散らばった本を見て、オーマはやれやれとため息をついて見せた。



 それがエルファリア自身には、殆ど自覚は無いものの、オーマはその姿を見ながら、多少は癒される感覚を味わっていた。
 ―俺のいたあの世界とは違い過ぎるぜ……特に、このお姫さんに関してはよ。噂にゃ聞いていたが……。
 戦闘行為を知らぬという娘。
 何不自由無く育てられ、そのままに成長した。
 オーマにとっての過去の世界は、凄惨で悲痛な道を辿る事をよぎなくされた。
 それは己が選択してきた、道の上に敷かれた未来。
 それをこの世界に措いても受け入れられる事を、今の自分は望んでいるのだから。
 だからこそ、わざわざこのエルファリアの別荘の、主人であるこの娘に直々謁見に訪れたのだ。
 ―もうどんな世界だろうと、そこから『弾かれる』コトはごめんだぜ。
 思い出すだけでも、うんざりするような、苦くなる過去。
 自分がどれほど長い時を生きてきても、ウォズを屠る以上、同属殺しと蔑まれた。
 凶獣ウォズを殺す事は必要とされながら、実際には自分を見つめる人々の眼差しが忘れらない。
 それは羨望でもなく、敬いの念を込めたものでもなかった。
 誰に必要とされていなくとも、確固たる信念を貫けばそれも可能なのかもしれない。
 だが、それでもこのオーマでさえ、時々立ち止まる事があった。
 元々通常の人が生きる年月を遥かに超越した長き時を生きてきたのだから。
 人はたったひとつを護り、それだけを考え生きる事が、理想とされながら、誰もがそれに近づく事すら出来ないでいる。
 ―俺は本当にこの世界で必要なのか?
 本当の人という存在は弱く、そうして脆い。
 誰かが必要としてくれなければ、尚更に加速する。
 ―それを左右出来る選択肢を自分が持ってるってコトを、いまいちこのお姫さんには自覚がねぇんだよな……。
 オーマはそんな何とも言えぬ気分で、エルファリアを見つめていた。
 この図書室の蔵書が完全な形で、全てが本棚のあるべき場所に収まるまでには、まだまだ相当な日数と、延々とした道のりが必要なのは明らかだった。
「オーマ、あなたが別に手伝わなくてもいいんですのよ。この私が何とかしようって思ってるんですもの。でも不思議ね、ヴァンサー……ウォズ、具現能力……そんなものが、このソーンに入り込んできていたなんて……」
 足元の本を拾い上げながら、オーマが首を振った。
「それはいいって、気にすんな。……確かにここに収められた本の中にゃ、これだけの数があったとしても、まだ俺達やウォズのヤツらのコトを書いたモンは、ひとつもねぇからな。知らねぇってのも無理はねぇか」
「確かにそうですわね」
「俺の目的ってヤツは、一応その辺りにも関係してんだが……ん……そうか。んじゃ、この場合、お前さんに直に見てもらうのが一番いいのかもな、言わば実演ってヤツかね」
「見る……その具現能力というものを、ですか? この私に見せてくれるの? 」
 エルファリアの問い掛けに、オーマが頷いて見せた。
「ああ、そうだ。今更、ここで、無意味にぐだぐたと長ったらしい説明をするよりかは、遥かにそれの方が説得力がありそうだしな、何で俺はそれに早く気が付かねぇんだろうな。ま、それはいいか。じゃ、エルファリア、お前さん今この瞬間に、何か見てぇモンは無いか? 」
「見たいもの……そうですね。それは何でもいいんですか? 」
 漠然とした疑問を口にしたエルファリアに、オーマは少し考え込むような顔を見せた。
「おう、そうだった。いい質問だぜ。ま、俺の気持ちとしちゃあ、何でもいいと言ってやりてぇとこだが……生きている生命あるものだけに関しては勘弁してくれ。それだけは出来ねぇんだ。一応制約もあるってコトだな。ウォズのヤツ等はそれも可能だが、俺達にはちょいと不都合な点が多くてな」
 オーマの言葉に、エルファリアが再び言葉を続ける。
「では、生き物じゃなければ何でもいいんですの? 」
「ああ、要するにそういうコトだ」
「では……」
 エルファリアがそう言い掛けた時、図書室の扉を乱暴に叩く音が響き渡った。
「何でしょう? 入っても構いませんよ、どうぞ」
 エルファリアが扉に向かってかけた言葉の直後、扉が勢いよく開いた。
「……無礼をお許し下さい! エルファリア王女! 」
 そう叫びつつ、飛び込むかのようにして室内に姿を見せたのは一人の男だった。
 エルザード城の兵士の装束を纏ったその人物は、
「非常事態です、城が……エルザード城が……! 」
 その兵士は、余りに気が動転しているのか、何かを懸命に話そうと試みているのだけが、エルファリアとオーマにも伝わってくるものの、だが何を言わんとしているのかがまるではっきりしないでいた。
「非常事態? なんだよ、えらく穏やかじゃねぇな」
 オーマは兵士の言葉を繰り返すようにして、そう言った。
 そのオーマの横をすり抜けるようにして、エルファリアが兵士の元へと近づいていった。
「落ち着きなさい、大丈夫よ。ゆっくり呼吸して……それから話せばいいわ」
 エルファリアは兵士の傍らでしゃがみ込み、その肩に手を置いた上で、ゆっくりとそう告げた。
 その背に見えるのは、この図書館でのんびりとした調子で本を片付ける、あの娘ではなく、間違い無く王女のそれだった。
 その様子の変化には、流石のオーマも驚いていた。
 ほんの一時、王女の見せた真っ直ぐな眼差しに、兵士はようやく落ち着きを取り戻したかのようにして、頷いた。
「王女! 城が……正体不明の、何と申し上げればよいか……訳の分からない化け物に襲われているんです! 」



「困りましたわね」
 城の兵士の話に、オーマはじっと考え込むようにして、耳を傾けていた。
「……今ここでざっと聞いた限りでも、そいつはウォズだ、ほぼ間違いねぇわな。まさかエルザード城を襲うとはな……考えてもみなかったぜ、そんな派手で厄介な真似をしてくれるとはよ……」
 オーマの言葉に、エルファリアが頷く。
「やはりそうなんですね。でも、さっきオーマは、凶獣を殺す事は通常の人間では出来ない……穢れを負うと、そうも言っていたでしょう? では、現れたのがもしも本当に、あなたが言うように凶獣だった場合……」
 表情を幾分曇らせたエルファリアがそこまで口にした時、オーマがその言葉を遮るようにして口を開いた。
「そうだ。その辺の殆ど全部が、お前さんの言う通りさ。……おっと、そういや、何だかんだ言いつつ、俺の説明もどきを、一応理解する為にも、記憶してくれたってコトか? だったら、さっきまでの時間がまんざら無駄にはならなかったってコトか」
「無駄になんかなっていないんです、最初から。いまいち実感がわかないだけで……。元々説明自体は、言葉通りに解釈すればいいわけですし、それは分かっていましたから」
 エルファリアの言葉に、思わずオーマの肩が、がくっと沈み込むかのように下がっていった。
「な〜んかどうやったって、やっぱり変な感覚が抜けねえな、全く……。だが、悠長なコトを、のそのそ言ってやられる状況でもねぇからよ、仕方ねぇな、行くか。おうおう、な、お前さん、ここはひとつ浪漫はちきれそうな城への案内頼むぜ? 」
 そう言いつつ、オーマが兵士の方へと大股で近寄っていった。
「私も参ります! 」
 エルファリアがそう言って、オーマに続いて歩き出そうとした瞬間、
「やめとけや。どうやったって、ロクなコトにならねぇ」
「それでも構いません、あなたに凶獣を殺す目的があるように、きっと私にだって自分にしか出来ない事があるから……」
 エルファリアの毅然とした姿勢に、オーマは多少面食らった様子だった。
「そうか。そこまで言うんなら、ついて来い。だが、もう引くなんざ、そんなコトは言わせねぇからな、その覚悟があるのか? 」
 オーマは冗談混じりに、にやりとして見せたが、肝心のエルファリアは至極真面目くさった表情を見せたまま口を開く。
「勿論……それに私、オーマとの先程の約束もまだまだ果たしてはいませんもの」
 エルファリアの言葉に、オーマは怪訝な表情を見せた。
「『約束』だぁ? そんなモン、この俺が何時、誰に対してしたって? 覚えがねぇ」
 オーマのまるで分からぬと言いたげな言葉に、エルファリアが答える。
「確かにしましたよ。先程、直接目で確かめた方が分かり易い筈だと、私に具現能力の一端を見せて下さると、ついさっきそう言ったばかりだったでしょう? あれもひとつの『約束』だと思ったの」
「何だ、お前さんが言う『約束』ってのは、そのコトなのかよ。んなモンは却下だ、脚下。そんな『約束』は最初から有効にしたつもりじゃねぇからな」
「どうして? それが有効かどうかを決めるのは私自身でしょう? それに私がまだ見せてもらっていないって事は、嘘じゃありませんから」
 エルファリアのきっぱりとした言葉に、オーマはがりがりと髪をかき上げた。
「……ぼんやりしてんだか、そうじゃねぇのかよく分かんねぇな」
 そうしてオーマがぼそりと呟いた言葉に、エルファリアが顔を上げた。
「え……何……? 今のはよく聞こえなくて……」
「ま、何でもねぇから、気にすんな。……俺と行くんだろ? 」
 オーマはエルファリアにそう告げてから、
「仕方ねぇか。じゃ、この際実演しかねぇかな……ま、こんな状態を予見していたわけでもねぇし、多少以上に不本意ではあるがな」
 諦め混じりのオーマの言葉に、エルファリアは深く頷いて見せた。



 その日のオーマは、とりあえず絶好調だった。
 勿論これは、本人談の話である。
 だが、今ここでその気力と活力を生かす場が、全くと言っていい程に無かったならばと仮定してみようか。
 しかもそれが現実になる事も、稀に起こりうるという事を……。
「はぁ? 」
 エルザード城に到着したオーマとエルファリアを待っていたのは、予想外の事態だった。
 オーマはあんぐりと口を開けたまま、即刻、城の城門を警備する兵士に詰め寄った。
「で、ウォズは……? あっさりと? 」
 オーマのその問い掛けに兵士が頷いて見せた。
「ええ、あっさりと、でしたよ。それ以外に言葉が見つからないくらいに……。いやぁ本当に見事だったなぁ。こう、僕等の見ている前で、ばっさりと鮮やかで、それに何より格好良かったですしね、あの方々は……おかげでこんな事を言うのは、僕等としても、お恥ずかしい限りですけど、城を護るべき兵士としても、まるで出る幕が全然無くってねぇ。ここだけの話なんですけど、あれを見れた人間はさっきからこっそり自慢にしてるんですよ」
 その辺困っちゃいますよねぇ、と、笑顔でそう答えてくる兵士の前で、オーマはげんなりとして見せた。
「全くどいつもこいつも……今日は変な日だな。何でそうなる……」
「でも、被害が無くて良かったわ。安心しました」
 オーマの背後から、エルファリアがほっとしたように穏やかな笑顔を見せた。
 そのエルファリアの言葉に、オーマはくるりと後ろを振り返った。
「そういう問題じゃねぇ! 俺がこう絶好調に、『ウォズ……お前とやりあるのは、この俺だけなんだぜ』と、ウォズに真っ直ぐ、メラメラたぎる状態ボルテージ全開で来てみれば、既に腹黒同盟に入り浸るあの連中が、怒涛のごとく押しかけて、もうウォズを消し去った後、だと?! で、俺の出番はカケラも当然無しっ! そんなザマが、いいわけねぇだろうがっ! うがー、ああ、どれも納得出来ねぇ……今も消えねぇまんまの、俺の中のこの究極燃えたぎるような、どっきんむんむん、最高潮ピュアハートをどうしてくれる。到底、収まりきらねぇな、このままじゃ」
 オーマの叫びは痛々しかった。
 とりあえず今この瞬間に考えつく限りのものを、半ばまくしたてるような状態だ。
 しかもこの男、本当に余程の衝撃を受けているらしい。
 ―自分の出番がまるで無いという、この状況に……。
「どうしたの? オーマ? 」
 エルファリアの、のんびりした言葉を尻目に、オーマが更に言葉を続けた。
「大体、そんな問題じゃねぇんだ……一番の問題は、あいつ等にでかい借りを作っちまったってコトで……それに散々に遅れていったコトがもろにバレたら……いや、もうバレてるか……どうしょうもねぇじゃねぇか。……で、その問題の、そいつらは今何処に? 」
 オーマの問い掛けに、兵士が即座に答えを返してきた。
「ええ、ベルファ通りで、今晩は派手に祝勝会をするとか言って、皆さんお揃いで、ぞろぞろあちらに歩いてゆかれましたが」
 兵士が指した方向は、確かに聖都の歓楽街へと続く方角を示していた。
「まぁ、ベルファ通りに……! 」
 エルファリアは、心底驚いたようにそう言う。
「しゅ……祝勝って、一体何だ、それは」
「凶獣を倒した、そのお祝いなんですねぇ、きっと」
 しみじみとそう言ったエルファリアに、オーマが口を開いた。
「いや……だからって、祝い事じゃねぇだろ。……待てよ。ずずっと話が反れるが、それよりか、王女がベルファ通りを知ってるってのは、そもそも間違ってると思うぜ。駄目だろ。あんないかがわしさ満点なトコをよ、何で知ってんだ? 」
 オーマが脱力したようにそう言うと、
「そうでしょうか。普通じゃないかしら。これは、そんなに珍しい事になの……? それに、ベルファ通りって事は、やっぱり『黒山羊亭』なのかしら」
 ―通りの名称どころか、普通に酒場の店の名前まで知ってるじゃねぇか、既に重症だな、この王女。聖都は本当に大丈夫なんだろうな。しかもこの王女が、影でベルファ通りに出没してたりしたら、真剣に笑えねぇだろうに……。
 オーマが内心、心からそう思った時、兵士が思い出したように口を挟んできた。
「オーマさんって、あなたなんですね。あ、そういえば伝言を預かってますよ。ええと、何だったかな……ああ、そうだ。『オーマ、あんたは相変わらず銀河一、時空一のどうしようもない男だねぇ。この究極の非常事態に遅刻かい? 多くの方々が大変な状況下でおられるっていうのに、どうせ何処かで油でも売ってたんだろう? 役に立たない分、それを気合で補って人様のお役にたとうっていう神経が、どうにも足りないようだねぇ、帰ってきたら、あたしが……』って、そのお方に名前もお聞きしたんですけど、これを言えば分かるからって。名乗らずにさっさと行ってしまわれたんですが……あ、そうだ。まだ続きがあるんですけど……」
 兵士がそこまで言った時、既にオーマは顔面蒼白で、脂汗をだらだらと流していた。
 しかも一気に息消沈した様子で、うなだれてもいた。
 それはさながら、奈落の底に叩き落されたかのごとくに。
「いや……それは……も、もういい。いっ、いらねぇ……つーか、頼むからやめてくれ。頼むからっ! 」
 オーマは力なく掌を振って見せ、げっそりとした表情でそう言った。
「あれ、そうですか? でも、ここのエルザード城の人間も皆、最初は驚きましたけど……城の中じゃ、今やさっきの『凶獣』っていうのでしたっけ……? その噂で、もちきりで。殆どの人間にとっては、存在すら知らない未知の生物ってヤツですからね、だから余計に……ですけど」
 ついさっき、そんな非常事態だったにしては、この城って平和過ぎますかねぇ、と兵士はそうも言葉を続けた。
「私はウォズをこの目で見られなくて、本当に残念ですけど」
 エルファリアの言葉に兵士が笑って見せた。
「まぁ、危ない目に遭わなかったからいいですよ、でも……確かに王女様は少しだけ遅かったですね」
「本当にそうね……それにやっぱり、直接自分の目で見るのが一番だと思うわ……あら、オーマどうしたの? 何だかさっきから、物凄く顔色が悪いみたいに見えるわ。しかも泣いてない? そんなに凶獣と自分が戦えなかった事が哀しいのね。ヴァンサーって、そんな風に、常にウォズと向き合ってゆかなければならないなんて……非情な宿命なのね」
「何だかお前さんがそれを言うと、恐ろしくのんきなモンだな……非常な運命って言葉が似合わなさ過ぎじゃねぇか。だが、俺にとっちゃ、間違い無く現実なんだがな」
 オーマの言葉に、エルファリアがもう一度口を開いた。
「じゃあ、この場合、こんなにそんな風に涙目になって、泣ける程好きっていうのは、凶獣と戦闘と、どっちの事なのかしら……? ん……ねぇ、やっぱりオーマ泣いてるんでしょ? 正直になってもいいのよ? 」
 エルファリアが神妙な顔でそう言ったので、オーマは頭を抱え込んだ。
「……泣いてねぇ。つーか、好きだから泣くって、どんな論理だ。なんか勝手に、俺の横で、究極に変な誤解が生まれかかって解釈されてきてねぇか……? はぁ」
 オーマはひたすらに元気の無い声で、先程とはうって変わったような、ぼそぼそとした声でそう言った。
 それがこの男には家庭環境やら、その他もろもろの、余りある程の複雑な事情が絡んでいるゆえの姿である事を、当然の事ながらエルファリアは知らないのだ。
「え……? だからウォズと戦えなかった事が哀しいんでしょ? 」
「だから、違うっつーのっ! 」
 オーマはとうとう悲痛な叫びを、天に向けた。



「……と、言うわけで、だ」
 オーマはそう言ってから、改めてエルファリアの方に向き直った。
 ヴァンサーであるオーマから言わせれば、何の収穫も無く……もっとも、このソーンに措いては平穏な世界が保たれて天下泰平な状況な訳なのだが、そんな風にしてエルザード城の城門前から、すごすごと引き上げて、エルファリアとオーマが聖都の中心部へ向かう道中だった。
「凶獣はもう消滅。そこで見せてやれる筈だった、この俺の鋭さ最高、格好良さ抜群な具現能力も手持ち無沙汰なこの状況で、だ。どうするよ……? 」
 エルファリアはオーマの横で、小首を傾げたまま、先程の別荘とまるで同じような格好で、その言葉に耳を傾けている。
 しかもエルファリアがそれに続いて、口を開き訊いてきた事と言えば……。
「あの……ベルファ通りは、もういいんですか? 」
「それはもういいっ! 言うなっ! 忘れろ! 」
 エルファリアは相変わらず、心底不思議そうな表情を崩さないでいる。
「……で、話をもう一回改めて始めてみるがよ、場所がお前さんの別荘から、この城に移動になったってだけのコトで、俺達のこの状況には何の進展もねぇわけだな」
「……そこまでは究極に言ってませんけど」
「どっちにしろ、俺にとっちゃ、それと似たりよったりの同じようなコトだぜ」
 オーマは肩を落としてとぼとぼ歩くようにしつつ、傍らのエルファリアにそう言った。
 加えて、オーマは顔色も依然芳しくない。
 余程あの『伝言』が効いているらしかった。
「でも、オーマが言っていた実演というのも、そう悪くないかもしれないと思っていたんです」
 エルファリアがふと思い当たったように、オーマにそう言った。
「……? 」
 エルファリアの言葉に、今度はオーマの方が不可解な表情を見せた。
 その言葉の意図するところを、計りかねていたからだった。
「見せるのが一番だって、そう言ったから……それが本当だと実感していたところだったの。城の者達は、皆が好意的に受け止めているように感じたでしょう? その……ヴァンサーやウォズに対して」
「……」
 オーマが少々面食らったかのようにして、エルファリアを見た。
 それはかなり身長差があるこの二人にとっては、どちらかと言えば、オーマがエルファリアを見下ろすかのような格好になっていた。
「どうして驚くの? 」
 オーマが目にしたエルファリアは、やはり不思議そうだった。
 そんなオーマの戸惑ったような眼差しの意味に、エルファリアは全く気が付けないでいるらしい。
「そりゃ、俺達が今までは……」
 どんなモンを見せられてきたか……そう言い掛けたオーマに、エルファリアが小さく首を横に振って見せた。
「それも、きっともう過ぎ去った過去なんでしょう、私にはそう思えるの。きっと、この先の道には光があるわ。あなたや、あなたが大切だと願う人達に、たゆまぬ煌きを……。真っ先に駆けつけ、城を救ってくれたのだから……だから、きっとこの聖都にあなたがたが異界から現れたのも、何か意味があったのだと思えるの。その証拠に、私達はあなた方に、もう『護られた』のだから。本にその存在が記されていないのなら、これから全て創ればいい……過去が無いというのは、これからはどんな未来でも選べるでしょう? それがきっとあなた方を誰より強くさせるとそう思えたんです」
 それはこの王女に相応しいような言葉でもあった。
 祈りにも似た、象徴的な言葉。
 それは聖なる祝福の、柔らかな言霊でもあった。
 どちらかと言えば、自分の直感で生きているように、オーマには思われた娘の口から紡がれた言葉は、深い穏やかさに満ちていた。
「つーか、お前さんの言葉通りだったらよ、俺は今回、何もしてねぇぜ? まるで役立たずってコトにはならねぇか? 」
 オーマが苦笑いした言葉に、エルファリアは微笑んだ。
「いいえ……私に懸命に語り掛けてくれたでしょう? 諦めもせず、ひたすらに……そこで向けてくれた思い、受け取ったの。それにあなたは、長く生きた時間の中で医師の道を自ら選んだ、とも言った」
「買い被りにも程があるぜ。俺はそんなに出来た人間でもねぇし、誇りもねぇが……だが、何だろうな。お前さんの言葉を聞いていると、僅かでもそんな風になれる気がするぜ。驕りじゃねぇが、変な感覚だけどよ」
 少々困惑混じりのオーマの言葉に、エルファリアが笑った。
「……そういえば、オーマは何を私に望んでいたの? あれから、何だか色々で訊けずじまいだったけれど……」
 そう言いかけたエルファリアに、オーマが口を開いた。
「それはもういい」
 そこまで言って、オーマはエルファリアに頷いて見せた。
 ―そうは言ってもよ、全く参るぜ。完全に読まれてるも同然じゃねぇか。俺が望んでいたコトに、これで本当にこれっぽっちも気が付かねぇとはな……偽りで嘘をついている訳じゃねぇコトも分かってるからいいけどよ。正直言えば、半ば信じ難いくらいだがな。つーか、本能の部分では、無意識に見透かされたってコトか。『この世界に措いて、俺達全ての存在を認めろ』とはな……無理も承知で別荘まで行ったが……まさかこういう話になるとはな。
「オーマ……? 」
 急に黙り込んだ男に何かを感じたのか、エルファリアがオーマの顔を見つめていた。
 オーマは何も答えなかった。
 ―確かにそうだ。俺達の……ヴァンサーの具現能力……ウォズを殺す事。あれを直に目にしていながら、城の……エルザードの人間達の目には、忌まわしさなど欠片も無かったな。忘れてたぜ。蔑視され、忌まわしいものを見つめる人間の眼差しに何も感じなくなっていたが、本当は好意的でなど無くともいい、ただそれでも僅かでも受け入れられたいのだと、どれだけ願っていたか、『あの世界』の多くの連中には分かりもしなかったがな……。
 オーマはただそう思った。



 ―俺は何かを救いたかった。
 同時に、何時果てるとも分からぬ、血生臭さが消えないまま、凄惨な戦闘は終る事は無く……。
 弾かれそうになりながらも、大地を這うようにしがみつき、振り落とされまいとした。
 腕に込めた力が抜けた時、自分がどうなってしまうのか分からなかった。
 世界の中にある見知らぬ他人の、誰かが定めた規律の、自分の力の及ばぬ巨大な何かを恐れていたのだから。
 そうして、ひとつの道を既に選んでいた自分は、更にもうひとつの道を選んだのだ。
 そう、医師となり、生きとし生けるものの生命を繋ぐ者である事を選んだのだ。
 ウォズを殺し……『屠る』事を続ければ、続けるだけ闇が迫る。
 だからこそ、ただそれだけとして生きる事は選べなかった。
 何かを救う事を自分に位置付ければ、終りを司る者であるだけでいる場所からは、僅かながらであったとしても脱する事が出来た。
 ―生を繋げ。
 何かがそう叫んでいるような気がしていたから。
 どんな無様であっても、生き続けていられればと……。



「何だ、結局ここへ来ちまったな。もうちょい、気が利いたところへ連れていってやりたかったトコだがなぁ」
 オーマは目の前の建造物に、がりがりと髪をかきあげつつ、ひとしきりそう呟いて見せた。
 どうやら、このオーマが何も考えずに歩いてきてしまった結果、本人が余り自覚は無いものの、結果的には馴染みの道を辿る結果になってしまったらしい。
 この場所が、そのいい証拠だった。
「ここは……? 」
 自分の横で顔を上げたエルファリアに、オーマはにやりとして見せた。
「ま、今更、説明……するまでもねぇか。俺等の一応本拠地……みたいなモンだな。要は総合病院もどきってトコか。つーか、病院とは言っても、診るのは人間に限らねぇし、まぁ毎日面白れぇくらいに、好き勝手に色々なヤツが入れ替わり立ち代り、やってくるからな……。今日は一応『臨時休診』つーことになってるから静かだが、この状況の方が珍しいな」
 そんな風に語るオーマは、何処か誇らしげで笑みを見せる。
 しかもそういう中に多少の照れ笑いが混じるのか、それを隠す為か、わざと大股で、『本拠地』へと近づいていった。
 そこはオーマの言葉通り、親父道師範腹黒同盟総帥にして医者兼ガンナーのイロモノ親父時々青年&獅子と、その妻子仲間達がブラッドむんむんどっきりな、親父浪漫の入り乱れ模様での、派手な日々を送っているそういう場所である。
 まごうことなく、そんな彼等にとっての『拠点』に他ならなかった。
「腹黒同盟って……? ここって病院じゃなかったの? 」
 エルファリアの問い掛けに対して、オーマの言葉は更に続いた。
「勿論病院でもあるぜ。つーか、患者は何でも大歓迎だぜ? 挨拶でも相談でもど〜んとこいってヤツよ。俺等の力に関するアレや病気の治療オペ入院も、粗方引き受けてるぜ? で、この俺のグレイトな親父心を堪能するべく、同盟加入希望者が殺到しちまってるわけだな。ま、入れや。親父顔の人面草どものお出迎えだぜ。天井からぶら下げてあるからよ、悪趣味だと評判がイマイチなのが問題と言えば問題なんだが……俺はいいと思ってんだけどな……それにここを牛耳ってんのは、実際には俺じゃねぇしな……」
 オーマのその部分の語尾だけが、妙に小さな声に変わったことは、エルファリアは気が付かなかったらしい。
 聖都でただ一人のその王女は好奇心いっぱいな表情で、腹黒同盟本拠地を見ているだけだった。
 それを前にして、まず、オーマが先に立って、扉を開いた。
「具現能力で好き勝手に、無駄に部屋が増えてなぁ。しかもそん中には、創るヤツらが適当にやったところも結構あってよ。おかげで、ここも既にかなーり異空間に近いモンはあるだろうぜ。普段は大所帯だが今は誰もいねぇ……筈だよな」
「……ですよね」
 エルファリアは、暫くの間、興味深げに室内を見回していたが、やがてオーマの方を振り返った。
 そのエルファリアに、オーマは何かを思い出したように、口を開いた。
「あ、そういや、ひとつ頼みたいコトがある。天然記念物に認定されている人面草の特別採取資格許可がほしいんだよな」
「人面草……ここにあるのとは違うの? 」
 天井からぶら下げられた、無数の人面草を指差しながら、エルファリアがそう訊いた。
「ああ、こいつらとは別。俺が言いたいヤツは、目的自体は、一般人の為の、対ウォズ用護身茶開発研究用だからな。もっとも開発段階だから、どんなモンが出来るかは未知数だがな。お前さんの許可さえありゃあ、大手を振ってやっていけるからな」
「勿論それは構わないけど……人面草で煎れたお茶って、想像付かないんですけど」
 エルファリアがそう口を開くと、直ぐさまオーマからの返答が返ってきた。
「ありがてぇ。そう言ってくれりゃあ、早速取り掛かれそうだぜ。ま、今だから言うけどよ、そういうの以上にな……やっぱ俺はよ、どんな腐っちまったヤツでもな、死なせたくはねぇのさ。それを甘いからくだらねぇと思うか? それでもよ、もういろんなモンを見て来ちまったから変えられねぇんだ。その為なら、ちっとばかしのリスクが伴ってもな、てめぇに出来る事っつー可能性を信じてぇんだ。それを分かっていながら潰したくはねぇ。それに俺は奪う方じゃなく、『護る側』でいてぇんだ」
「……」
 エルファリアは、オーマがそうして語る間、じっと自分の目の前にいる、男の顔を見続けていた。
「……で、こいつが俺の望み」
 そう言って、オーマは掌の上で、ひとつの幻を形作って見せた。
「……? 人面草じゃないわ……? てっきり山盛りのそれを見せてくれるのだと思ってたけれど……だけどこれは……『これ』をこんな角度から見たのは初めて……こんなことも出来るのね」
「人面草はなぁ……だからあん時、言っただろ。生きとし生けるモンは最初っから無理だってよ。ま、これはあくまで俺の具現とは言え、空想に近いかもな。俺もこの状態では実際には見たコトはねぇしな。それに、これだって、ある意味生きてるってモンに入りそうなモンだけどな」
「そう……何時もは忘れてしまいそうだけれど、全てが生きてるのね。何だかこの世にある、生きとし生けるものが、どれだけ多くいるのか、それを再確認出来たような気がしてるの」
 エルファリアが嬉しそうに目を細めた。
「それは良かったな。俺の手じゃ、まだまだ到底足りねぇが……」
「……そんな事無いと思いますけど」
 その時耳にしたオーマの苦々しい言葉に、エルファリアは首を振って見せた。
 そうして、オーマの具現能力の下で、その掌の上に浮かび上がったのは、この聖都の姿に他ならなかった。
 しかも上空から見下ろしたかのような、そんな姿を映し出している。
 一度もその角度から見た事が無いというオーマの言葉の割には、その具現はよく出来ていた。
「ん……? ねぇ、どうして、その許可がほしい人面草の変わりが、『これ』なの? 」
 エルファリアの問い掛けに、オーマが笑った。
「さぁな」
 オーマは曖昧にそう言った。
 ―俺のもうひとつの、望みに近いモンだとは、どうやったって言えねぇよなぁ。しかもそっちは既に叶ってるも同然だとは、更に言えねぇぜ。
 オーマは内心そう思っていた。
 ―何となく、してやられた気がするのは俺だけか?
 オーマはそう思いつつ、もう一度エルファリアの方を見た。
 エルファリアはさっきと変わらず、優しげな表情のまま、具現化された聖都を見つめていた。
 ―また今度、別荘の図書館の片付けを手伝ってやるしかねぇ……よなぁ。仕方ないよな、細い腕で、更にあのぼんやり加減じゃどうにもなりそうにないしな。あれじゃあ、俺が寿命で死ぬ間際でも、片付かねぇような気がするしよ。
「ねぇ、せっかくですから、その人面草も見たいのですが……」
「そうか。そういえば、奥の棚に少しだけ残ってたような気がするからな。ま、護身用にはまだまだだし、そういう効果は今のままじゃ期待出来ねぇけどな」
 オーマはそう言って、掌から具現能力を一時的に消し去って、部屋の奥の方へ入っていった。
 その時、室内の扉が動き、誰かの声が、外の路上の方から飛び込んできた。
 どうやら、急患らしい。
「今日は、本当は臨時休診なんだがなぁ……」
 そう言いつつも、実際には迷惑そうな様子など欠片も見せずに、それまでの人面草探しもすっかり忘れ果てた様子で、慌てて医師としてのオーマが、表へ患者を出迎えに出て行った。
 そんなオーマの広い背中を見ながら、エルファリアはまた少し安堵の表情を浮かべる。
「おーい、悪ぃが、ちっとばかし手伝ってくれねぇか? 」
 オーマのその声に、エルファリアも続くようにして、外へと出て行き、室内には静寂が戻った。
 ―それが、聖都の片隅に出来た、診療所のような病院のような、そんな場所であるここの時間がまた、忙しく動き始めた瞬間だった。