<東京怪談ノベル(シングル)>


光と闇の境界で



「午前中のお勤め終了、っと。あー、よく働いたなぁ……ぐぁっ!」
 頼まれた薬草の調合を終えると、オーマは椅子の背に体を預け大きく伸びをした後、両腕を交互に動かし肩を回す。
 大きな体を屈めて作業していたおかげで、全身からぼきぼきと鈍い音がして、思わず妙なうめき声が漏れた。
 椅子から立ち上がり凝り固まった筋肉をほぐすように全身を動かしながら、ふと窓の外を見る。
 一瞬にして視界に鮮やかな色が飛び込んできた。
 ぬけるような青い空。のんびり漂う白い雲。夏の日差しに照らされた木々の葉がきらきらと輝き、様々な色の草花が爽やかな風にほのかに揺れている。
 よく晴れた夏の午後だ。
「んー……こんな日に部屋の中に閉じこもるなんざぁ、不健康でいけねぇやな」
 オーマは机の隅に置かれたバスケットの中から一つ果実を取り出すと、それを片手で弄びながら長い足で窓枠を跨ぎ超えた。

* * *

 聖都エルザードの中心からやや離れた場所にあるオーマの診療所を出て少し歩くと、小高い丘に出る。
 柔らかな草が一面に生えており、丘の頂上には大きな木が一本立っている。
 この小さな草原はオーマしか知らない、いわば秘密の場所でもある。
 別に来ようと思えば誰でも来れるのだろうが、少し獣道を歩かねばならないのと、大抵はオーマの診療所を目指して来る人々ばかりなのでその奥まで進もうとは思わないらしい。
 窓から外に出たオーマは手にした果実を齧りながら丘の頂上の木の下まで来ると、体を翻して視線をやや下に移す。
 眼下にはエルザードの街並みが広がっている。今オーマが立っている位置からなら、コロシアムや天使の広場、ベルファ通りからアルマ通りを抜け、その奥にそびえたつエルザード城までが一気に見渡せた。
「いつ来てもいい眺めだねえ。絶景かな絶景かな」
 満足そうに目を細め、果実の最後の一口を飲み込むと、オーマは木の根元に腰を下ろし幹に背をもたれた。
 活気づく街から視線を外し、天を仰げば、四方に腕を伸ばした枝葉の間から陽光が細かく降り注いでいた。
 光の色は見えないけれど、強いて言えば白だろうか。
 葉の隙間から見える空の青と、生き生きとした葉の緑、そして差し込む光の白。
 自然が生んだ見事なコントラストに暫し見惚れていたオーマは、顔を上げたままずるずると体をずらすと、木の根を枕に柔らかな下草の上に寝転んだ。
 風に揺れる草に頬を撫でられ、くすぐったくも心地良い感触に眠気を誘われて一つ大きく欠伸をする。
「……空の色はどこでも変わらねぇのな……」
 少しだけ首を動かし、眩しくない程度に空を見つめて、オーマは小さく呟いた。
 
* * *

 聖獣の加護を受けるこのソーンには、異世界からの訪問者が多くいる。
 元々人など存在しなかった世界なのだから、極端に言えば全員が『異世界からの訪問者』なのではあるが、その中でもオーマやその仲間達はやや特殊な部類に入るのかも知れなかった。
 オーマはこの世界に侵入した異形の生物・ウォズ―――または凶獣と呼ばれる生物を追ってやってきた。
 彼のいた世界には、八千年の歴史を誇る国際防衛特務機関『ヴァンサーソサエティ』という世界組織が存在し、オーマはそこに所属する『ヴァンサー』と呼ばれる異端者である。
 何故に彼らヴァンサーが『異端者』と呼ばれるのか。それは彼らの持つ『具現能力』のせいである。
 己の魂を、思念を、精神力で自由自在に具現化できる能力。そこには常に代償が付きまとうが、その力の強大さ故、周りから畏怖されるものだ。
 そしてまた、ウォズも同じように具現能力を持っている。
 だからこそ、ウォズに対抗し封印または屠る事が出来るのはヴァンサーしかいない。
 そしてまたそれ故に、こう呼ばれて忌み嫌われているのだ。
 ―――同族殺し。
「…………」
 空を見つめていたオーマはゆっくりと片腕を上げると、手を広げ何かを掴むような仕草をする。
 ふ、と空気が揺らいだかと思うと、いつの間にかオーマの手には巨大な銃が握られていた。
 オーマの身の丈程もあるその銃は具現能力で出現させたオーマの武器であり、ここソーンに来てから幾度となく戦闘に使ったものだ。
 何故こんな能力があるのだろう。
 太陽の光を受け、銃身を黒く光らせる自分の得物を見ながら、オーマの頭を今まで考えた事もないような疑問が過ぎる。
 いや、今まではそんな疑問を深く考える程の時間も余裕もなかっただけで、本当はずっと思っていた事なのかもしれない。
(この能力は)
 銃身に反射する光に目を細めながら、オーマは考える。
 大きすぎる代償と引き換えに世界を守る事の出来る、強大で有用でしかし忌むべきこの能力は、いつか自分を蝕んで、全ての物を巻き込みながら消滅していくような気がする。
 世界を守ると言いつつも、一方で、自分が世界を破壊する側になってしまう可能性もあるのではないだろうか。
 何とはなしに巡らした考えが行き着いた先の答えに、オーマの背中に冷たい汗が流れ落ちた。
 今まで生きてきた長い時間の中で、自分の行動を疑った事はなかった。間違っていると思った事もない。
 そのはずだった。
 それなのに、今この瞬間に、戦う理由が分からないと感じてしまった。
 いや、理由が分からないのではない。
 戦う為に与えられたこの能力と、自分の存在に疑問を持ったのだ。
 自分の身体を、自分の精神を、そして周りの全てを犠牲にして排除している彼らと自分が違うなどと、はっきり言い切ることが出来るのだろうか、と。
 『彼ら』と、自分達と同じように表現している事自体、その存在は表裏一体で実はなんら変わらないという可能性を無意識に認めているのではないのだろうか。
 深みにはまってゆく思考は、一点の曇りもない夏の空とは対照的に、オーマの心に薄暗いもやを広げ始めていた。
「……ちっ」
 らしくもない陰気な感情に囚われている自分に苛ついて、オーマは小さく舌打ちをすると、勢いよく起き上がった。
 手にしていたはずの銃は既に消え、固く冷たい感触だけが掌に余韻を残している。
 オーマはその手を上げ、がしがしと乱暴に頭を掻いた。
「折角の昼休みが台無しだっつーの。ったくよぉ……」
 不愉快そうに眉を顰めながら、起こした上半身を木の幹にもたれかけて一つ大きな溜息を吐く。
 唐突にこのような得体の知れない疑問や不安に苛まされるのは、やはり少しずつ闇に侵食されている証なのだろうか。
 いつか内側からも外側からも食い荒されて、この手で全てを握り潰す日が来てしまうのだろうか。
「―――は! 食えるもんなら、食ってみやがれってんだ。その時は……地獄の底まで道連れにしてやらぁな」
 下ろした手を目の前に翳し、力強く拳を握る。
 例えその日が来てしまったとしても、奴らの好きにはさせない。
 相手にどんな事情があろうとも、自分は自分の守りたいものを守る為に戦うだけだ。
 目を閉じ、そこに思い描くのは。
 自分のいた世界。
 今いるこの場所。
 そして、誰より一番大切な―――――。

* * *

 遠くから、昼の終わりを告げる鐘の音が風に運ばれてオーマの耳に響いた。
「おっといけねぇ。もうそんな時間か」
 オーマはおもむろに立ち上がると、衣服についた草の葉を払い、丘の下へと歩き出す。
 先程まで心を覆っていた暗いもやは今は取り払われ、頭上に広がる青空と同じくらいの清々しさでオーマの内面を満たしていた。
 他愛のない妄執など、いくらでも付き合ってやろうと決めた。
 それを否定し立ち上がる度に、大事な何かを確信できると分かったのだから。
「とりあえず今は、午後の診察が最優先かねぇ」
 草原を吹き抜ける風に心地良さそうな呟きを乗せて、オーマはしっかりと自分の足で大地を踏みしめた。
 

 
[ 光と闇の境界で/終 ]