<東京怪談ノベル(シングル)>


始まりの記憶

 ふと少年は立ち止まる。
 雑多な人混みの中、路地の片隅で行われている流しの演舞。なんの変哲もないありふれた舞踊だったが、それは少年の目を捉えて離さない。
 リズムに合わせて、手足が舞う。着ている布をなびかせ、あたかも生きているように。
 その踊りをぼんやりと眺めながら、少年――蒼柳・凪(そうりゅう・なぎ)はかつての記憶を思い起こしていた――――。



 ――今から四年前。
 まだ凪が追われることもなく、元の世界にいた時。
 その世界において、太古の神々の血を色濃く受け継ぐ人々の存在があった。彼らは、ほぼ全員が超常的な力を用い、庶民を支配する階級として日々権力争いに身を投じていた。
 凪もまたそれらの一族の末裔として、他の貴族達に対して重要な神事を執り行う役目を担っていた。不思議な霊力を伴う舞を、彼らのために奉納するという役目を。

 その日。
 凪が初めて舞術師として彼らの前で披露するという日――一般には祭りとして、様々な準備が進んでいた。庶民が決して立ち入る事の出来ない、貴族の為だけの祀り。
 幼い頃から徹底的に仕込まれてきた舞を初めて舞うという緊張感。
 人気のない場所で、何度も何度も練習を繰り返す凪。もはや本番まで時間がない――そんな焦りから、どこか身体が硬くなっているように自分でも感じていた。
「‥‥駄目だ、こんなんじゃあ‥‥」
 ポツリと漏れる弱音。
 親や親族達からの期待。
 役目を得られなかった同年代の者達の羨望と嫉妬。
 そして自身のプレッシャー。
 ピタリと、糸が切れたように動きを止める凪。つうっと顎を伝う汗が、地面へと流れ落ちる。
 ふぅ、と大きく息を吐いた直後。

 ――ガサッ。

 近くの茂みが僅かに動く。
 ハッとそちらに顔を向けるが、人の姿はない。
 が、気配は感じる。凪は焦ることなく、そちらへ足を進めた。気配は彼のよく知ったもので、身構える必要のないモノ。
「ほら、隠れてないで出てこいよ」
 柔らかく声をかければ、
「へへっ‥‥バレたか」
 悪戯めいた笑みを浮かべた少年がゆっくりと姿を現した。
「もう。今日はここに入ってきたらマズイって言ったのに」
「悪ぃ悪ぃ。やっぱさ、お前の事が心配だったからよぉ」
 そう言って苦笑する少年を、凪はどこか嬉しそうに迎え入れた。
 凪にとって、少年は幼馴染みといっていい存在だった。自分と違って庶民の身分である彼は、身に纏うものも薄汚れてボロが入った着物だったが、そんなコトに頓着しない程、二人は仲が良かった。
 そもそもは、少年が蒼柳の家に忍び込んできたのが事の始まりだった。
 多少ヤンチャだった少年は、泥棒の真似事で入ったその家で凪と出会った。外に出たことのない凪にとって、少年の話すことはどれもが驚きに値した。色々な話を強請る凪の、箱入りの純粋さに少年もまた好感を抱くようになり、二人はいつしか友達と呼べる関係になった。
 勿論、二人が会っている事は他の人間には内緒だ。
 もしバレたりしたら、きっと少年が非道い目に遭うことを、凪は知っていたから。
 だからこそ、貴族達が集まる今日は、それこそいつ他の人間にバレるかわからないのだから。
「今日はたくさん人がいるんだ。他の人達にバレて捕まったりしたらどうするんだ」
 誰も信じられない世界で、ただ一人出来た友達。
 失いたくない。その一点で心配する凪を、少年は逆に心配すんなと元気付けた。
「大丈夫だって。今までだってバレてねえんだからさ」
「でも‥‥」
「それよりさ、お前の方こそどうなんだ? 今日やるって言ってた舞、大丈夫なんか?」
「それは」
 少年の言葉に、凪は思わず押し黙った。今更ながらに緊張が彼の心を占めていく。
 思わず俯いた凪に、少年はしょうがないな〜などと軽口を叩き、その頭に手を置いてグシャグシャと掻き乱した。
「うわっ!」
「しゃあねえな、凪は。じゃあさ、お前の初本番、俺がちゃんと見守っててやるよ」
 そう少年が勇気づける。
 え、と思わず顔を上げた凪の視界で、少年の顔が徐々に近くなる。次の瞬間、額に触れる唇の感触に凪はつい目を見開いた。
「無事に出来るようおまじないだ」
 えへへ、と笑う少年に、その時になって凪もようやく笑みを浮かべる事が出来た。



 ――シャラン。

 静寂に響く鈴の音。
 ピンと張り詰めた大気の中央、スッと立ち上がるのは舞装束に身を包んだ凪。普段はその年齢からすれば小柄な身体が、この時ばかりはどこか大きく見えた。
 痛いほどの沈黙。
 閉じていた目蓋をゆっくりと開いていく凪。

 そして。

 奏でる弦の音――雅楽の演奏が始まると、凪もまたそれに合わせて舞を踊り始めた。
 真っ直ぐに伸ばす腕を優雅に振るい、纏いつく布がまるで生き物のようになびいていく。弦はすなわち幻‥‥まぼろしに通じる。幽玄にうたかたを舞う一人の少年。
 否、見る者にとっては、すでに彼は男でも女でもなく、ただ神の舞を踏む一体の傀儡(くぐつ)でしかなかった。そこに宿る神秘の霊力を場にもたらし、貴族達の繁栄を支え続ける贄の一つ。
 見る者全てを魅了し得る神舞。
 それこそが、凪の一族が執り行っていた神事だった。
 手の振り、指の動き、呼吸や足運びに至るまで、一挙手一頭足の一つでも間違えてしまえば効果は失われる。その流れるような舞を少年は今、完璧にこなしていた。

 やがて。

 雅楽の最後の音がポロンと奏でられ、ほぼ同じくして少年の動きがピタリと止まる。
 僅かな沈黙の後。
 一斉に大歓声が起きた。皆、口々に「素晴らしい」「これで今後も安泰だ」などと彼らは褒め称える。聞こえてきた言葉に、凪はどこか辛い表情になる。
 彼らは自分達の事しか考えていない。
 どれだけ彼らの為に素晴らしく舞おうと、彼らにとってそれは己の利益の為だけしか考えないのだ。
 伏せた視線をそっと彼らから逸らし、そのまま退場しようとした、その時。
「あ‥‥」
 ふと目が合ったのは、物陰に隠れていた少年。
 こちらを見て、よくやったとばかりに浮かべる笑み。それを見た瞬間、凪の中で本当の意味で舞の達成感が沸き起こった。
 自然、浮かんでくる笑顔を、凪は少年へと返す。

 ――ありがとう‥‥。

 声にならない声でそう告げて、凪はゆっくりと舞台を去るのであった――――。



 ‥‥ぼんやりと思い出されたのは、どこか痛みを伴う記憶。
 もう二度と戻れない世界の、会う事の出来ない友のこと。何も知らなかった自分にあらゆる感情を教えてくれた人。
 もう――会えない。
 郷愁に耽る凪の耳に、やがて雑踏のざわめきが戻ってくる。すでに踊り子は舞を止め、人々はまた喧騒の中に返っていく。
 凪もまた、その人混みの中に己の存在を紛らせていく。逃走者である自分は決して目立つ事無く、世界の中に溶け込まなくては。
 そんな思いと共に、少年はそのまま雑踏の中へ姿を消した。

 抱える友への想いを――胸の内に秘めたまま。


【END】

●ライター通信
 葉月です。お待たせして申し訳ありません。
 凪クン、初めてのシチュノベということでかなり試行錯誤をしましたが、このような形になりました。如何だったでしょうか? 彼の持つ神秘的な雰囲気が少しでも出ていればいいのですが。