<東京怪談ノベル(シングル)>


闇の中の黒猫
 とある夏の昼下がり。
 優雅な足捌きでドレスの裾の纏わりつきを外しながら、本人の心情では弾むような足取りで通りを歩く女性がいた。
 一日で一番暑い時間帯は、少し気温が下がるまで家の中で大人しくしていたり昼寝タイムと決め込んで仕事を休んでいる者もいるらしく、陽炎が立ち昇る石畳の通路には人の姿がほとんど無い。
「うぅん…残念ですわね。まあもう少し待つことに致しましょう、きっと誰かに会えますわ」
 鈴を転がすような――そんな形容を幾度となくされた声に不満気な音を乗せ、むぅっと唇に指を当ててきょろきょろと辺りを見回し。
「そうだわ。天使の広場へ行って見ましょう。何か催し物でもあるかもしれないわ」
 ぱむ、と名案を口にしながら両手を叩き合わせて行き先を変えてのんびりと歩き出す。そこまで行った後はどうするのか――そんな事は全く考えもしないままに。

*****

「暇だな」
 熱中症に罹らない一番の予防策は暑い間外を出歩かない事だ!…と暑気当たりや日射病を起こして担ぎ込まれた人々に演説したせいか、今日は朝から患者らしき人物は誰も来ない。来たと言えばオーマの滑らかな舌の動きに真夏の暑さも忘れさせてくれそうな冷ややかな視線をくれた女性や、それ以上にひんやりと肝まで凍るよーく研いだ巨大な刃でオーマの髪を数センチカットしてくれた女性くらいだった…一瞬の殺気に咄嗟に身体が反応しなかったら、カットされたのは髪ではなく首だっただろうが。
 その辺に到るまでの経緯や何かは思い出すとどう言う訳か全速力で逃げ出したくなるのでどうにか記憶の引き出しの奥底へ仕舞い込み厳重に鍵をかけてしまったので、何となくそんなことがあったなーという程度にしか思い出せない。――いや、思い出さない。
 少し気晴らしに出かけるか、そんな事を思いつつ身体を起こして伸びをし、腰と首をぐりぐり曲げてから外に顔を出し『準備中』の札をかける。
 その背中に、あら、という小さな声が上がり、うん?と振り返ると、そこに顔見知りの女性が立っていた。
「こんにちは、良い天気ですわね」
 日除けのつもりか、頭よりやや大きいサイズの真っ白いレース編みの日傘をちょっとだけ頭から外して、上品な笑みを浮かべつつ会釈し、そのままその場を通り過ぎようとする。
「おう―――ってちょーっと待ったそこのお嬢さん」
 一瞬何も見なかったフリをしてそのまま忘却の彼方へ追いやってしまおうか、そんな事をコンマ1秒の内に悩みつつ非常に魅力的な提案ながら思い切って蹴り倒して先に行こうとする女性へと声をかけた。
「何かわたくしに用ですの?」
 くるりと振り返ったその女性へと、いやいやそうじゃなく、と手を振って…笑みの中にも何処か嫌そうな表情を浮かべつつ、
「お供も付けず何でこんなトコうろついてんだ、お姫さん」
 そう。目の前をほてほて通り過ぎようとしていた彼女はエルファリア王女――王に次ぐ権力を持ち城の深部にて何不自由ない暮らしをしている雲の上の人――の筈、なのだが。
「お散歩ですわ。そういうオーマは何をしてましたの?」
「…俺様はいつも通りこの病院で働いてるんだが」
「あらでも準備中の札が下がってますわよ?」
 しばし、見詰め合う2人。
「――まあ。互いの行動理由に付いては不問にするっつーことで…」
「分かりましたわ」
 こくこく、と真剣な顔で頷くエルファリア。
 かくして互いに話し合う事もないままなんとなく横に並んで歩き始めた2人だったが、王女は実に楽しそうに午後の散歩を楽しみ、オーマはどこか釈然としない表情のままだった。

*****

 エルザード城。
 城内部の警備は厳重で、許可無き者の侵入は難しいとされている。流石に王城ともなればそう言ったセキュリティに対する考えはきちんとされているのだろう。
 ――中から外への警戒は全く為されていないようだったが。
「お姫さん…どこへ行くつもりだったんだ?」
「エルファリアとお呼び下さいな。これでもわたくしお忍びの身ですのよ」
 くるっと振り返って口元に笑みを浮かべつつ、めっ、と軽く睨んでみせる王女にやれやれと心底からの溜息を付いて肩を竦め。
「顔むき出しで言うお嬢ちゃんの台詞じゃねえな」
 その言葉にまぁっ、とエルファリアが目を丸くして、
「顔を隠せば宜しいの?それなら今度外へ出歩く時は仮面でもつけて参りましょう。確か舞踏会に使った物があった筈…」
「ま、待て待て。そう言う意味じゃない、いやいい、詳しく説明したら夜になっちまいそうだ。で、何処へ行くつもりだったんだ?」
「あら、そんな事を考えては散策になりませんわ。でもそうね、今日の目的はどなたかとお話をするためでしたの。それで天使の広場へ行こうと決めましたのよ」
 王城でも別荘からでも、天使の広場へ真っ直ぐ行こうとすれば住宅街を抜けざるを得ない。大通りへ一端出てからやって来れば安全なのだろうが、病院の前を通った所を見れば…考えずとも何処を通って来たのか分かる。
 乳母日傘育ちのこの王女には、危機感が欠如している――改めてそう思わずにはいられなかった。
「ああ、まあ取り合えずちょっと止まってくれ」
 幸いあたりに人通りは無い。今のうちに、とオーマが肩から下げている肩掛けをするりと外すと、有無を言わさずふぁさっと彼女の豊かな髪を覆い、砂地に住む人々が良くやるように目元を除いて隠すと服のかくしから取り出したピンでそっと布を止めてやる。
「これでぱっと見にはおまえさんが王女様だってことは分からない筈だ」
「まあ、なんだかこれから悪い事をするみたいですわ」
 ――十分悪い事をしてるんだが。それに関しては、思ったとおり自覚は無いらしかった。

*****

「腹黒同盟ですの?以前もそんなこと仰ってましたわね」
 この柔らかな口から出たとは思えない単語がさらりと流れ出し、おう、とオーマがそれに頷く。
「腹黒でイロモノな連中を集めてな、そいつらで同盟を組むのさ。俺様が大師範っつぅわけでな」
 にったりと大きな口に営業スマイルを浮かべつつ、加盟した者の名を挙げていく。
「…その方たち皆様が腹黒ですの?」
「いいやぁ?腹黒な奴もいるが、そうじゃない奴もいるさ。まぁ日々腹黒への道を突き進んでいるわけだな、うん。俺様の愛のパワァのお陰だろう」
「愛のぱわぁ…オーマの言葉は面白いけれど、難しいですわ」
 んー、と顔を覆う布の前に指を当てて首を傾げるエルファリア。腹黒と言う言葉の意味も良く分かっていないようだが、ただその会話を楽しんでいる事は間違いなかった。
「そうだそうだ。いい機会だから言っちまうか。この聖都公認に出来ねえかな?姫さん――いや、エルファリアの力でよ」
 姫という単語を出した途端また睨まれそうになり、さり気なく言い換えると嬉しそうにこくこくと頷いてから、オーマの出した提案に首を傾げ。
「王室公認と言う事ですか…それは、わたくしにもその同盟に入れと言う事ですの?」
「いや、そう言う訳じゃあねえよ。王室公認ってことで大々的に喧伝出来るだろ?狙ってるのはソコの効果さ。もちろんエルファリア自身が入ってくれても構わねえっつーか大歓迎だ」
 大きく腕を広げて嬉しそうに笑いかけるオーマに、エルファリアが真っ直ぐ見上げ。
「加入したら、わたくしも腹黒になれるのでしょうか?」
 『腹黒』の単語の意味がいまいち分かっていないらしい状態で、真摯に問い掛ける姿――見た目は真面目だった。話している内容が問題なだけで。
「――努力次第だな。もちろん、俺様のような愛のパワァに満ち溢れた漢になるには才能もさることながら年季が必要だぜ?」
 まあ、と何やら感銘を受けたらしい王女が目を細める。そして何か言おうと口を開いた…その耳に、意識を乱す小さな声が届いた。
 2人が通り過ぎた路地の奥から、かすかな猫の鳴き声が。

*****

 にぁん。
 にぁぁん。
 路地の陰から、細い鳴き声と僅かな光に反射する大きな目が見える。
 ――会話を中途で止めて声の主を探し始めたエルファリアに付き合って少し路地の奥へ入ったところに、それはいた。
「まあ、可愛らしいこと」
 物陰に隠れていた黒い仔猫と見てエルファリアが手を差し伸べようとして――オーマの大きな手に遮られる。
「どうかなさいましたの?」
「…触らねえ方がいい。少し下がってくれ」
 誰が置いたか木箱の陰から覗かせる小さな顔は、人の姿を見て小さな口を精一杯開いて鳴いている――その様子は可愛らしいと目を細めるものであったのだが、何故かオーマは笑みを消し周囲にも鋭い目を向けていた。
「この界隈を乗っ取るまでには到ってなかったようだな。そんなら話は早え。…姫さん、ちぃっと退いて居てくれ。これは俺様の仕事だ」
「嫌ですわ」
「あのなぁ。――洒落や酔狂でんな事言ってんじゃねぇ。それでも言う事を聞かねえっつうんだったら、首根っこ引っ掴んでも放り投げてやるぞ」
「おやりになれば宜しいのよ。けれど、そんな突然に言われても此方としても心の準備と言うものがありますでしょう?それを頭ごなしに命令するだなんて何をお考えですの?女だと思ってそうされているのでしたら甘く見ないで戴きたいわ、わたくしだってやる時にはやりますのよ」
「……………いや、まあ、その」
「特に理由も無くわたくしをこの場から排除するおつもり?もしやそこから見える小さな生き物を1人でこっそり可愛がろうというのではないでしょうね?そうだとしたらずるいですわ、わたくしだってあのにゃぁんと鳴いている仔猫さんをなでなでしたりほおずりしたりしたいのにお1人で独占するつもりのですのね?」
「―――――」
 からかっているわけではなく、彼女なりに真剣にオーマに語りかけているのは、その目を見れば分かる。
 だが、問題はそれ以前の話で――

 ――にぁぁぁああぁぁぁああんん――

「――っ、ちぃっっ!」
 王女の語りかけに意識が行ってしまっていたせいで、『仔猫』の鳴き声が異様に大きくなってしまっている事に気付くのに遅れ、舌打ちする間も無く。
 仔猫がいた筈の背後を見る事も無く身体を開いて王女を腕の中に抱き止め――それと同時に『壁』を具現化して周囲をすっぽりと包みこむ。
 そこまでは、ほぼ無意識の行動だった。その場における行動選択をする事無く、身体の方が反射的に動き、能力を開放したらしく…びっくりしたような王女の目はオーマの身体に隠れ、オーマ自身が見る事は叶わなかった。
「ったく…調子付きやがって。まあ、いい。腹ん中に入れたからって何でもかんでも喰える訳じゃねえってこと、嫌って程分からせてやる」
 俺様、ちょっとやそっとで消化できるようなヤワな身体してねぇぜ――何故だか楽しげにそんな事を呟く男の手には、いつ取り出されたのか腕ほどの太さの銃が、オーマの身体半分程の長さでもって現れていた。
 ぷはっ、と息苦しくなったのか顔と身体をオーマから離した王女がきょときょとと周囲を見渡し、黒一色に塗り潰された世界に不思議そうな顔をした。
「ここは、なんですの?」
「あ?…以前にも言ったろ、これが俺たち『ウォズ』と『ヴァンサー』の世界さ。毎度毎度姿かたちは違うがね…」
 2人を包んでいる壁はオーマが自製したもの。その外はオーマの感覚でしか『見』る事は出来ないが、球を描くように包まれているらしい事は分かった。

 にあぁぁぁぁあああんん――

 『声』だけが2人の耳へと届く。
「銃を撃つから少し下がってくれるか」
「わかりましたわ」
 今度は大人しく引き下がった王女の位置をちらりと見、壁を一瞬だけ開いてその向こうへ数発の銃弾を打ち込む。
 ――が…

 ――にあぁぁん。にああああぁぁぁん。

 手応えは無く、繰り返し繰り返し鳴き声が聞こえて来るばかり。
「暗闇の中の黒猫…か。ふざけた洒落使いやがって」
 この場そのものがウォズであることは間違いないようだが、オーマの攻撃を受け流す術は持ち合わせていたらしい。 こうなると…後はこの場を構成しているものの核になる部分を叩くのが一番良さそうに思え、『壁』を取り払い、周囲を見渡すも一面の闇。
「暗闇の中の黒猫…どう言う意味ですの?」
 オーマたち2人がいる場所だけがほんのりと明るいのはオーマが作り上げた灯りのお陰だ。…それも、闇に喰われるように、ごく僅かな場所までしか照らせていないのだが。
「知らないか、そんな言いまわし。暗闇の中の黒猫を探すっつってな――問いすら分からねえ答えを探すようなもののことさ」
「確かに見えませんわね…」
「見つけてみせるさ。――必ずな」
 そんな事を話しながら4つの目が闇の中をうろうろと彷徨っている。出口に通じる何かが見つからないかと、まさに猫のように目を光らせ。
 そして、それを見つけたのは王女だった。
「オーマ」
「あん?」
「――あそこに、目が見えますわ」
 エルファリアの言葉に振り返ると。
 暗闇の中に包まれる前に2人が見た、仔猫の大きく見開かれた目。――それが、闇の中にぽつんと浮かんでいた。

 にあぁぁぁん――

 再び、『猫』が鳴く。地の滴るような真赤な口を開けて、何かを求めるように、訴えるように――だが。
「繰言なら後でいくらでも聞いてやる――」
 黄色い瞳と、真赤な口。
 そこへと照準を合わせたオーマが、小さな声で何かを呟くと、ためらう事無く引き金を引いた。

*****

 気が付けば、そこは元の路地の上。何事も無かったかのような状況に付いて行けず、エルファリアがぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す。
 見れば、オーマは木箱の向こう側にしゃがみ込み、何かを行っていた。ちょっと首をかしげて数歩そちらへと近づくと、
 ぱぁっ
 と一瞬辺りが眩しくなり、収まった所でオーマが手に何かを持ちゆっくりと立ち上がった。
「気分はどうだ?ウォズとのアヴァンチュールじゃあ具合も悪くなろうってもんだろうが」
「今のは…?」
「なぁに。もう1つの俺様の仕事さ。ウォズを――『あいつら』に封印を施したんだ」
 そして見上げて来るエルファリアに、手に持った何かをそっと見せる。
「――まぁ…」

 …にあぁん…

 それは、目が開いたばかりらしい一匹の黒猫だった。
「生きてたのはこいつだけだ」
「…え…」
 愛しげに腕に抱いた王女が、オーマの言葉に顔を上げ、そして強い視線を木箱の裏へと注ぐ。
「見ない方がいい。こいつの兄弟たちだろう。――しかも、今さっき死んだものじゃ無かった…ウォズに混ざったのは兄弟たちの残された『気』だな」
 そうでしたか、と呟いた王女が、すたすたと歩き木箱の裏を覗き込む。真剣な表情で――ある意味神々しくもあるそんな表情で王女が顔色1つ変えずに見つめ続けると、ふっと横を向いてオーマと目を合わせた。王者たる瞳が、そこにあった。
「その子は連れて帰ります。…ご兄弟も。オーマ、手伝ってくださる?」
「いいぜ、遠慮なくこき使ってくれ」

*****

 ――別荘の裏庭に、王女が手ずから作った小さな墓の前で、何か感じるのか墓標へと身体を擦りつける仔猫。その、小さな身体をそっと抱き上げ、するりと顔を覆っていた布を外してオーマへと返しながらエルファリアがにこりと笑う。
「あれがオーマの愛のぱわぁですのね」
「おうおう、わかってんじゃねえの。そうさ、ラブラブ親父パワー☆そのものってことさ」
 すぅっと王女の目が細められた。
「分かりました。――許可、致しますわ」
 お?と一瞬何の事か分からなかったオーマが、にいいっと大きな口に笑みを浮かべて深々と腰を曲げ優雅な一礼をする。
「貴殿の『腹黒同盟』が世の為人の為になる事を願って。エルザード王国、王女エルファリアの権限に於いて公認の許可を与えます」
 それこそが、王族の血の証。朗々と耳に響く心地良い声が、別荘の裏庭と言う場所ながらまるで違う場所に立っているような錯覚さえ与えてくれる。
「本当ならば王宮の謁見の間で行うべきことなのですけれど、手続きが面倒ですのでここで宜しいですわね?…後程文書をあの病院へ運ばせますわ」
「ありがたき幸せ――ってな。俺様も堅苦しい事は性に合わねえし丁度いい。感謝するぜお姫さん」
「ここではばれても問題はありませんけれど、やはり名で呼ばれた方が嬉しいですわ。エルファリアとお呼び下さいな」
「はいはい」

*****

 …その後、約束通り王族の封蝋が成された文書が届けられたが――オーマの手に渡るには、暫しの時が必要だろう。
 何故ならば、香水とうら若き女性の香が残った肩掛けに気付いた…名を出すのも憚られるとある女性によって、現在も釈明する間も無く聖都――いや、ユニコーン地方に至る範囲まで凄絶な鬼ごっこが展開されていたからだった。
 ある者は空飛ぶ巨大な獣が鳴き叫んでいたと言い、ある者は魔王をこの目で見た、と真剣な顔で語ったと言う。

-END-