<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


【天使の蜜】
「あは、相変わらず暑そうな服ね」
 エスメラルダは来店したカレン・ヴイオルドを見て笑みを浮かべる。彼女が黒山羊亭へ来ることは珍しかった。
 カレンは何も言わずにカウンターへ腰掛ける。
「どうしたの、黙って」
 すると、カレンは懐から紙片を取り出して女主人に見せる。
 
『突然声が出なくなってしまいました。原因は不明です。助けてください』

 見れば、カレンは今にも泣きそうな顔である。
 エスメラルダも沈痛な表情になった。
 踊り子が脚を切断されるようなものだ。吟遊詩人のカレンにとっては、声が出せなくなるなど死にも等しい。
 エスメラルダは額に指を当てて記憶を探る。やがて弾かれたように奥へ引っ込んで書類を持ち出してきた。
「天使の蜜。ここからそう遠くない森の中に『エンジェルビー』と呼ばれる蜂が生息している。その蜂が作り出す蜜を口にすると世にも美しい声を得られる。……ここは武骨な冒険者の溜まり場だしそう価値のなさそうな品物だからスペースの邪魔だと思って放っておいたけど、今のカレンにはピッタリでしょう」
 カレンは頬を濡らした。嬉し涙だった。

 依頼を受けてくださりありがとうございます、とカレンは筆談する。
 彼女の目の前には、3人の冒険者。
「そのエンジェルビーの生態とかはわかりますか?」
 アイラス・サーリアスが尋ねると、エスメラルダは書類の端を見て、わかるわよと答えた。
「割と温和な性格でさほど攻撃性はないみたい。だけど針はこう真っ直ぐでかなり痛いらしいわ」
「真っ直ぐということは、何回も刺せるわけね」
 エヴァーリーンが顎に手を当てて思案する。
「対策としてできることは地肌を出さない、服の中に入れないようにする、目はゴーグルの類で保護ってところかしら」
「そうですね。森に入ったら全身を守れる防護服に着替えましょう。この近くでそういうものは借りられるかな」
 山本建一がいたって建設的な意見を出し、ひとつの対策が決まる。
「普通、蜂の動きを鈍らせるには煙が有効なんですが、何を燻したらいいでしょうね。それはわかりますか?」
 再びアイラスが聞くと、
「黒炭がいいらしいわね」
 エスメラルダは即答した。
 幸運にも作戦会議はその後も滞りなく進んだ。養蜂用の防護服とゴーグル、黒炭がアルマ通りの雑貨屋にあると、客のひとりが教えてくれたのだ。早速行って仕入れ、準備は整った。
 荷物も多いので歩きでは余計に疲れると判断された。一行は冒険者御用達の厩で馬を借りて、エンジェルビーの生息する森へと出発した。
 さすがに馬の足は速い。魔物の襲撃がなかったのも幸いし、わずか1時間ほどで到着することができた。
「それじゃ、熱いですけど装備は万全にしましょう」
 アイラスたちは白く厚い防護服を纏った。頭のてっぺんからつま先までスッポリと包まれたので、相当に接近しないと誰が誰だかわかるまい。
「ちょっと動きづらいけど、これなら大丈夫ね」
 エヴァーリーンが腕と足を窮屈そうに動かす。
「では、行きましょうか」
 建一が先頭に立って、冒険者たちは森の中へと進入していった。
 3人はすぐに、水を被ったように汗に濡れた。森自体の湿気が相当なもので、ジメジメと音がしそうなほどである。
 しかし旅慣れた冒険者にとっては、相当難易度の下がる行程といえた。血気盛んな猛獣が出るわけでもないし、人間を脅かす悪鬼羅刹の脅威もなかった。
 だから呑気に話をしながら、楽な気分で歩みを進めた。
「あなたは……どうしてこの依頼を受けようと?」
 エヴァーリーンが前を行く建一に聞いた。彼は振り返って言った。
「僕も音楽をたしなみます。吟遊詩人にとっては、声が出せないというのはとても辛いことです。私自身や友人がそうなったらと思うとたまらないですから」
 アイラスも同調する。
「僕も歌を歌うことがありますよ。やっぱり他人事じゃなかったですね。そういうエヴァさんは?」
「……報酬なしで人のためになることをするのもいいかなって。そんな気分の時があるってこと」
 本当は、アイラスたちと同じ、歌えなくなることのつらさを察したから受けたのだ。しかし、エヴァーリーンは素直でない部分があって、そういったことは間違っても口に出したりはしないだけのことだった。
 冒険者たちは水分補給を忘れず、緑の中を黙々と歩き続けた。
 その時。
「……いい香りがします」
 建一が呟いた。
 一行はエスメラルダの言葉を思い出した。天使の蜜はこの世ならぬ甘く芳醇な香りを放ち、嗅ぐ者すべてを陶酔させるのだと。
「近いようですよ」
 その後、10分歩いた。香りは次第に強くなっていき、今や形となって手に掴めそうなほど。
 やがて、眼前に一本の巨木が見えた。
 その幹。ちょうどアイラスの頭の高さくらいに、何でできているかはわからないが、白く丸いモノがひっついていた。
「あれが巣ですね、聞いたとおりの形です」
 建一が嬉々として言った。
 一行は巣へと近づいた。
「これがエンジェルビーですか。ちっちゃくて結構可愛いですね。体も白の斑模様で珍しい」
 アイラスが首を忙しなく振る。
 周りに、数匹の蜂――エンジェルビーが飛び交っている。攻撃してくる様子はない。
「さあ、彼らには悪いけれど、手早くやるとしましょう」
 エヴァーリーンが背中の荷物から軽金属の棒を、建一は黒炭の塊を出した。黒炭を棒の先に取り付け、アイラスが魔力を通し火をつける。
 炭は、もうもうと煙を吐き出し始めた。棒を持つエヴァーリーンが咳き込む。
「じゃ、行くわよ……」
 棒を巣にかざす。
 すると。
「きゃ!」
 白斑の塊がエヴァーリーンに直撃した。
 場は一変していた。巣の中は底のない異次元に通じているんじゃないかと思うくらい、おびただしい数のエンジェルビーが飛び出している!
「そりゃ温和だからって、巣を攻撃したら怒るわよね……!」
「それより、煙が全然効いてないですよ。もしかして情報が間違っていて逆効果だったのか?」
 建一が叫ぶ。だが凄まじい羽音で互いの声もよく聞き取れない。
 防護服のおかげで刺されることはないが――もしこれがなかったらと思うと、どんな怪物に襲われるより恐ろしくなった。
 一刻も早く済ませたかった。そこへ。
「わ、視界が塞がれて……!」
 目周りの網に、エンジェルビーたちは郡を為してくっついてきた。彼らは割と頭脳派らしい。
「ダメです、払っても払ってもとれません」
「……一度引き返したほうがいいかも」
 ついにアイラスとエヴァーリーンが弱音を吐いた。
 しかし、羽音が急に静まった。
「え? これは? あ、目が見える」
 視界を覆っていた群れも――自主的に離れていった。
「建一さん、あなたの力ですか」
 アイラスが目を向けたその先に、水色の杖を掲げた建一が立っていた。
「一か八か、この森の精霊に頼んだんです。事情をエンジェルビーに話して、蜜を分けてもらえないかと」
「通じたんですか」
「通じたようです。少しくらいなら持っていってもよいと返事がありました」
 エンジェルビーにとってはこの人間たちはいわば襲撃者である。それを許し、しかも自分たちの宝を分け与えるとは。アイラス、エヴァーリーンはもとより、建一本人が一番驚いていた。この森の精霊は相当人間に友好的な権力者なのかもしれない。
「ともかく、お言葉に甘えなきゃいけないわね」
「ええ、いただきますか」
 建一が巣の一部を削り取った。
 それには、乳白色をした半透明の液体が付着していた。

■エピローグ■

「あ、あ、あ〜……」
「……戻った」
 エヴァーリーンが拍手する。それが一斉に広がる。
 天使の広場はカレンの美声を待つ者たちで溢れていた。
「すごい、信じられません。前よりもずっと綺麗に声が出るようになってますよ!」
「よかった。これでここも前以上に盛り上がりますよ」
 ねえ皆さん、とアイラスが言うと、広場の常連たちは大いに歓声を上げた。
「アイラスさん、エヴァさん、建一さん、何とお礼を言ったらいいか」
 建一はカレンの前に進み出た。
「カレンさん、今回の報酬なんですが」
「はい、何でも聞くつもりですよ」
「僕と合奏をしていただけませんか?」
「……ええ、ぜひ!」
「あ、それいいですね。不肖ながらこのアイラス・サーリアスもお供します。エヴァさんもどうですか」
「そうね……やろうかしら。うん、やろう」
「よっしゃあ、今夜は打ち上げだ!」
 誰かの提案に、一同は心をひとつにした。

【了】

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1649/アイラス・サーリアス/男性/19歳/フィズィクル・アディプト】
【2087/エヴァーリーン/女性/19歳/ジェノサイド】
【0929/山本建一/男性/25歳/アトランティス帰り(天界、芸能)】

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■         ライター通信          ■
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 担当ライターのsilfluです。ご依頼ありがとうございました。
 NPCを混ぜると、物語の幅が広がりますね。
 今後もカレンを別の形で登場させたいと思います。
 
 それではまたお会いしましょう。
 
 from silflu