<東京怪談ノベル(シングル)>


『苔桃ジャムと黒い子犬』

 天気は良い。深い森の中、ぽっかりと開いた空は何処までも青く輝き、風も爽やかだ。
「ん〜、やっぱ地のモンはうまいねぇ」
 オーマ・シュヴァルツはテーブル代わりの切り株にもたれかかりつつ、木製のグラスに注いだ
ワインに手を伸ばす。その視線の先には、無邪気に子犬と遊ぶ少女の姿があった。年の頃はまだ
5〜6歳。ふっくらとした幼い顔を縁取った栗色の髪が元気良く肩口で弾み、明るい声が彼を呼んだ。
「オーマぁ!苔桃取って来るね〜!」
「ああ、行って来な!後でジャム作ってやるよ」
 とりあえず返事をすると、少女が歓声を上げて走り出す。おいで、と言って駆け出す
彼女の後を、黒い子犬がウワンッと一声上げてついて行った。一人と一匹は連れ立って、小さな
家の裏手から森の中に消えて行く。普段の彼ならば、子供を一人で森には行かせない。
そうしないのは、必要が無いからだ。何せ彼女の連れているあれは…。
「ったく。ウワンッ、じゃねえっての」
 オーマは呟いて、深々と溜息を吐いた。ころころとして柔らかそうな毛並みをした愛らしい
子犬。これが実は異界の魔物…ウォズだなどと、一体誰が思うだろう。だが事実、そうなのだ。
このソーンを守る聖獣を食らい、時に人をも食らう凶獣。あらゆる攻撃を受け付けないウォズと戦い
封印出来るのは、彼らと同じ能力を持つヴァンサーだけだ。本来ならば、発見次第封印するのが
そのヴァンサーたる彼の使命なのだが。
「やれやれ」
 またも溜息を吐くと、オーマは漆黒の髪を掻き回した。この峠に恐ろしい魔物が出る、と言う噂が
立ち始めたのは、半年程前の事だったと聞いている。元々盗賊が多く出る場所だったが、
現場にその形跡は無かった。魔物にかけられた賞金につられて集まった腕自慢は、揃って死体と
不明者リストに名を連ねた。そこでヴァンサーソサエティが動いた。魔物の正体を突き止め、
それがウォズであるならば封印せよ。それが彼の受けた依頼だ。が、しかし。
峠でこのウォズを見つけて既に一週間。封印もせぬまま、この小屋に共に寝泊りまでしているのは、
別にその姿が愛らし過ぎるからではない。元よりウォズの姿は千差万別。中には美しい女で
あったり、はたまた老人であったり、物や植物の姿をした者すら居るのだ。可愛らしい子犬の姿を
していたとて驚きはしない。理由は別の所にあった。

(ヴぁんさー)
 ふいに呼びかけられて辺りを見回すと、件の子犬が尾を振っていた。別に親愛の情を
表しているのではなく、単に『ここだぞ』と言っているだけだ。会話は全て心話だから、オーマ
以外にその声は聞えず、一見、子犬相手に話をしている寂しい男に見えるだろう。
(退屈カ)
 てくてくとオーマの足元に歩みよると、子犬はちょこんと腰を下ろした。
「別に。お嬢ちゃんはどうした?」
 一緒に苔桃取りに行った筈の少女の姿を探して辺りを見回すと、彼は『大丈夫だ』
と尻尾を一振りして見せた。
(家ノ裏二いル)
「あ、そ。で?そろそろお前さんの事情ってのを聞かせて貰えるといいんだがなあ」
(事情?)
「封印は受け入れる、だが時間をくれ。っつーお前さんの頼みは聞いたんだぜ?
 ギブアンドテイクって知ってるか?」
 子犬はしばらく考える素振りを見せて、やがてくぅん、と一声鳴いた。
(いいダロウ。ツイテ来イ)
「あ、おいっ、待てよ!」
 歩き出した子犬の後を慌ててオーマが追う。子犬は思いの外足が速く、身長2メートルを越す
彼の歩幅でも追いつくのがやっとだった。子犬は、小さな二つの墓の前で立ち止まった。
こんもりと盛り上がった土の上に、平たい岩が二つ、乗せてある。
「…あの子の両親か」
 子犬が尾を一振りした。
(半年前ダ。少女ノ目の前デ殺サレた。少女は絶望し、憎悪シ、その強い思いが我ヲ呼んだ。
 そこには何人かノ人間ガ居た。我ハ思いに導かれるママ彼等を食らった)
 子犬は振り向きもせずそこまで言うと、墓標となった石の上にちょこんと座った。
(彼女ハ何モ覚えてハいない。両親ノ事モ。何モかも)
 墓は子犬がこっそり作ったらしい。出会ってからずっと、少女が親の事はおろか、自分の名前
すら口にしない事を、オーマは思い出した。目の前で両親を殺され、多分自分の命も失いかけた
ショックに、幼い心が耐え切れなかったのだ。
「それで。お前さんはどうして、ここに留まったんだ?」
 オーマの問いに、子犬はしばし沈黙し、答えた。
(…温かカッタ…カラ)
「あー!もう、こんなとこに居たのお?!」
 少女が顔を出した事で、一人と一匹の話はそこで一旦終わった。
「オーマ、苔桃いっぱい取ってきたよ!」
「おーそーかそーか、んじゃま、一丁やりますか」
 嬢ちゃんも手伝うんだぞ、とオーマが言うと、少女はまた嬉しそうに笑って駆けて行った。
「かーわいーじゃねーの。うちの娘も前はあんなだったんだよなー。ま、今も充分プリティ
 なんだけどよ。ああ見えて気も強いんだがこれが中々の…って、聞いてんのかコラ」
 子犬は何も言わず、振り向いたオーマの脇をすり抜ける。
「ったく、ちったあこっちの話も聞けっつーの」
 不満顔で呟いたのが聞えたのか、行きかけた子犬がぴたりと足を止めた。
「お、聞く気になった?俺様の激烈キュートな…」
(アト少シだ)
「はあ?」
(お前ニハ世話ニなった。ヴぁんさー。約束ハ守る。だが、ソノ前にヤラネバならぬ事ガある。
 …多分、お前ニモ手伝って貰ウ事にナル)
 それだけ言うと、子犬はぴょんと可愛い尻を向けて叢に消えた。

「おいおい、壷ごと入れる気かよ?」
 砂糖壷を抱えた少女を、オーマが慌てて止めた。
「えー?あまーいのがいいんだもん。オーマあまーいのきらい?」
「わかってねーな、嬢ちゃん。砂糖って奴はな、丁度良く使わねーと折角の苔桃の味も何も
 消しちまうもんなんだよ。それに」
 オーマはひょいと屈むと、少女に木のスプーンを差し出した。
「ほれ、舐めてみな」
「あれ、甘あい」
 だろ?とオーマがにやりと笑う。
「生で食うよりは甘くなる。だがジャムにするにはまだちぃとばかり足りねー」
 そこで、と、オーマは砂糖壷を抱えたままの少女を抱き上げ、スプーンを持たせて少女を促す。
彼女は頷くと慎重な仕草で砂糖壷の中にそれを差し入れた。
「ん、すりきり一杯ってとこだな。ここでかき混ぜてしばらくして…、あとちょっと
 入れてもいーぞ?」
 少女は真剣な眼差しでスプーンを伸ばして砂糖をすくうと、オーマが頷くのを見てからぐつぐつ
と音を立てる鍋に入れた。
「よし、後は煮るだけだ。しばらくかかるから、犬っころと遊んでな」
 はーい、と返事をして少女と子犬が外に出て行くのを横目で見ながら、オーマは軽く息をついた。
最初は怯えて逃げ回っていた彼女がこうも彼に懐いたのは、一重に料理のお陰と言っても良いだろう。
言葉も殆ど忘れていた少女だったが、今は良く笑いよく話す、普通の子供と変わらない。
理由は知らないが、子犬は少女に危害を加えるつもりは無く、利用している様子も無い。
一人と一匹は、まるで親子か兄弟のように、寄り添って暮らしていた。許されるならば、このまま
そっとしておいてやりたいとも思う。…だが。既に犠牲者が出ている以上、そうは行かない。
「ん、こんなもんだな。後は冷ますだけ…あぁ?」
 ふと視線を感じて振り向くと、いつの間にか子犬が座ってこちらを見ていた。視線は鍋に注がれて
おり、はっはっと荒い息をしている。
「まさかと思うが…食いてーのか?」
 ウワン!と子犬が一声吠えた。

 事が動き出したのは、夜も少々更けた頃だった。かたり、と言う微かな音に続いてドアの開き、
するりと家を抜け出した小さな影を追うように、オーマもそっと家を出た。
(気付イテいたか)
 少女の後を追う彼の隣を、いつの間にか子犬が歩いていた。
「ったりめーだろ。俺を誰だと思ってんだよ」
(ヴぁんさー、か。…いつから?)
 視線は少女から逸らさず、子犬が聞く。
「初めて会った時、あの子から微かにだが…血の臭いがした」
 オーマは低い声で言うと、ちらりと子犬を見て、言った。
「ここで人を襲ってんのは、あの子なんだろ?」
 子犬が答えるより早く、少女が足を止めた。峠道の上に出たのだ。
「人間…?噂、知らねえのか、あいつら」
(だからコソ通る者モある)
 子犬が言った。後ろ暗い所のある連中なのだ。人数は5人、男だ。彼らの前に、少女がひらり、と
降り立った。すぐに男たちの中の一人が進み出て、彼女の前に立ちはだかって何事か言うと、
途端に他の男達が大笑いした。下らない冗談でも言ったのだろう。だが、その笑い声は長くは
続かなかった。少女の手に、すっと長く伸びた剣が現れたからだ。
「くそ!こーいう予想は、外れて欲しかったぜ!」
 オーマと子犬は同時に跳んだ。子犬の咆哮は刃となり、少女と男達の間を切り裂いた。
(うぉずデは無い。彼女ハ)
 着地した子犬が、言った。隣に降り立ったオーマも頷く。彼の手にもまた、その能力により
生み出された銃があった。
「分かってるさ」
 オーマは銃を真っ直ぐに少女…正確には、少女の右肩から伸びた奇怪な腕に向けた。
「嬢ちゃんに引き寄せられたのは、お前さんだけじゃなかったんだな。やっぱり」
(アレは語る言葉モ持たぬ輩。ただ殺戮し、食らうのみ。下等なれど我ニハ倒せぬ)
 子犬が答える間にも、腕は長剣を振り回し、子犬とオーマは両脇に飛んで避けた。すっかり
腰を抜かしている男達に、さっさと逃げろと声をかけ、銃を構え直す。
「確かにお前にゃ倒せねーよ。同族だからな」
 同族殺しは最大の禁忌。相手を殺せば自分も、その場に居る者も命を落とす。ウォズと同じ力を
持つヴァンサー達も、屠りはせずに封印する。子犬は答えず、振り下ろされた刃に食らい付いた。
子犬に食いつかれた腕は、闇雲に長剣を振り回してそれを振り放す。そこをすかさずオーマが掴んだ。
彼の右腕にがっちりとつかまれて、腕はもがきながら更に長く伸びていく。少女の本体には既に
意識はない。多分、最初から無いのだろう。宿主の少女が眠っている間に、寄生したウォズが目覚める
のだ。少女に染み付いた血の臭いは、全てこのウォズが原因だった。
「おらおらおらおら、さっさと出やがれ!」
 オーマは両手を使って少女の体からウォズを引きずり出した。長い腕について、太い尻尾のような
ものが現れ、とうとう全身が引きずり出された。地面に崩れ落ちた少女をオーマが受け止め、少女の体に
戻ろうとうねる腕の尻尾を子犬ががっちり銜え込んだ。
(無事、カ?)
「ああ。怪我しちゃいるが、どうって事ねーよ、すぐ治してやる」
(ソウ、か)
 子犬がほっとしたように言ったその直後、しっかりと押さえ込まれていた腕が急に暴れ出した。ぎゃん、
と言う悲鳴にオーマが振り向いた時、腕が持っていた長剣は、深々と子犬を貫いていた。
「犬っころっ!!」
(来るな!!)
 駆け寄ろうとしたオーマを、子犬が制した。
(その子を、頼ム)
「待て…!」
 闇を切り裂くような閃光が、一瞬辺りを包み、彼は咄嗟に翼を広げて障壁を張った。時空が歪み、その中
で子犬と腕が交錯する。続いて凄まじい轟音と衝撃波が渦を巻き、峠の木々をなぎ倒しながら荒れ狂う。
嵐の中でオーマは吼えた。やがて静寂が戻った時。後に残ったのは、殆ど荒地と化した峠道と…。
(…嘆ク事ハない。我ラは所詮、この世界ニ愛されヌ者)
 月明かりの中で、子犬が言った。その姿は既に薄く、残留思念でしかない。
(彼女ガ無事ナラ、我ハそれデ満足ダ)
 オーマの腕の中で眠る少女を、子犬は愛しげに見た。
(彼女は呪ワレし獣である我を抱きシメテくれた。腕の中は温かカッタ。安ラカな日々ヲくれた。ダカラ、
 守リたかった…)
 子犬の姿が段々と薄くなる。もう、封印は不可能だ。
「約束は、守るって言ったじゃねーかよ」
 オーマの声にはしかし、怒りは無かった。
(ヴぁんさー。お前に会えて良かった。その子ヲ、頼む。それから…)
 あのジャムは最高だった。と言った子犬は、一瞬だが笑ったように見えた。

「う…ん…」
 腕の中の少女が身じろぎして、オーマをぼんやりと見上げた。
「気がついたかい?今、怪我治してやるからな」
 肩の傷はやはり痛いのだろう。こくりと頷いてから、少女は首を傾げた。
「おじちゃん?誰?」
「覚えて、ねーのか…」
 オーマはしばらくの間じっと目を閉じてから、やがて微笑んだ。
「俺は、オーマ・シュヴァルツ。医者だ。お前さんを助けに来た」
「助けに?」
「そうだ。ついでに美味いもん食わしてやるよ。苔桃のジャムだ」
「ジャムぅ?」
「最高のな。…味見した奴が、そう言ってたんだ」
 少女はこくりと頷くと、オーマの首に腕を回した。空はすっかり明るくなりかけており、東の空からは朝日が
差し始めていた。朝靄の中、山には穏やかな緑の香りが立ち込めている。そこには凄惨な事件の陰など微塵も
なく、まだ温かいジャムを、満足げに平らげた黒い子犬の姿もまた、もうどこにもなかった。



終わり。



………………
オーマ・シュヴァルツ様

担当させていただきましたライターのむささびです。
今回はご依頼、ありがとうございました。色物シリアス問わず、
オジサマは大好きなので楽しく書かせていただきました。
サンプルを気に入っていただけたとのお言葉も、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。
オーマ氏には辛い結末になってしまいましたが、彼ならばきっと
受け止めてくれるのでは、と思っております。
もしも気に入っていただけたらば、これまた、幸いでございます。

ライター むささび