<東京怪談ノベル(シングル)>


旬の味
「ザンマの塩焼きという物があるそうじゃないか」
 ある日、出張料理などで良く呼ばれる有数の金持ちの屋敷にて、でっぷりと太った主人がこう切り出してきた。
「…ザンマ、ですか」
 その名を聞いた男が、静かに繰り返す。
「そう。幻の魚とも言われるアレだ。私も散々珍味を食してきたと自負しておるが、コレだけは食べた事が無い。今まで何人もの料理人に言ってみているのだがな…」
 ザンマ。
 秋口になると、姿を現すと言われている古代魚。だが、その姿を見た者はここ数十年現れていないと言う。伝承によれば、海に棲む巨大魚で、過去にそのあまりの美味なるが故に大量に狩られ、今はもう絶滅したのではないか、と言う声も囁かれている。
 料理人、イルディライも、話に聞いた事はあるが実物を目で見たことは無い。勿論、その味がどんなものかは知らず。
「他のグルメを気取っておる連中とは一線を画したいのだよ」
 話の端々から読み取れるものは、その幻の魚と呼ばれているモノを食した、というステータスが欲しいらしい。大方、最近の珍味自慢で悔しい思いをしたのだろう。――イルディライの知ったことではなかった…が、そのザンマと言う魚を調理してみたいと言う気は少なからずあった。
「どうだろうか?料金はいつもの倍…いや、3倍出そう」
 男が金額を切り出すまでも無く――イルディライはやる気になっていた。

*****

「ザンマねえ…捕れりゃいいけど」
「難しいか?」
「代々漁師やってる俺も、俺の親父や爺ですら出会った事ねえからね」
 赤銅色に焼けた肌を誇示するよう、上半身を剥き出しにした50歳位の男が、ぷかりぷかりとパイプを吹かしながらイルディライへと皮肉な目を向ける。
「大方金持ちの道楽につき合わされてるんだろうが、気の毒なこった」
「それは、そうなんだが」
 遠い目をして、穏やかな海を見つめる男。未だ見たことのない魚――いや、食材。それがどんな姿形をしているのか、手触りは、弾力は、香りは…そんな事を考えながら。
 夏の盛りを過ぎて尚も青い空は、それでも秋の気配を感じるほど高くなって見えた。
「――借りることの出来る船はあるだろうか?」
「あん?…まさか、お前ぇ…」
「行くだけは行ってみようかと思う」
 きっぱりとそう告げるイルディライを、男が唖然とした顔をして見て…それからにやりと笑った。
「おもしれぇこと考えるじゃねえか。だがな。獲物が出た時の船は誰が面倒見るんだ?」
「無論、私だ」
「わははは、マジか、そりゃ。――ふーむ」
 男が、じろじろと上から下までイルディライを眺める。
「いい身体してんな。只の料理人じゃなさそうだが…まあ、いい」
 よいせっ、と身体を起こした男が、
「来いよ。いい船紹介してやらぁ」
 顎をしゃくって行くその後に黙って付いて行くと、これまた似たようながっちりした体つきの、見事に日と潮に焼けた男たちが年季の入った船の側で世間話に興じている。
「ようお前ら。ちぃとおもしれぇ話に乗らねえか?」
 男がここへ連れて来たのは、単に船を見せるだけでなく、乗り手をも紹介するつもりだったと知って、イルディライが少々戸惑った顔を向ける。
「よしよし。じゃあ出るか――おら、何ぼーっとしてやがんだ?お前ぇの仕事だろうが」
「ああ。まさか船だけでなく人も借りられるとは思わなかったからな。…感謝する」
「何、気にすんな。それにな、見れるもんなら見てみてぇからよ」
 普段も漁に使う船なのだろう、磨きこまれた大きなそれは、長年の漁で魚の匂いが染み付いていた。

*****

「……」
 ちゃぷちゃぷと耳に聞こえる音に、目を開け、ここが海の上だと言う事を思い出す。
 昔々の伝説が本当ならば、ザンマが現れるのは人が普段立ち入らない海域だろう、と言う言葉通り陸を離れて随分時間が経った。甲板で待っていようと思ったのだが、目的のモノが現れれば動いてもらわないといけないのだから、と無理やり身体を休めされられているうちに転寝してしまったらしい。
「起きてるかい?」
 その時、上から人の声が聞こえた。
「ああ。何か来たのか?」
「いや…ちょっと様子が変なんだ。出て来てくれないか」
 その声に呼ばれて甲板に上がってみると、イルディライをこの船へ誘った、一番年上らしい男が険しい顔で海を睨んでいる。――見ると、いつの間に天気が変わったのか、今にも一雨落ちてきそうな暗さになっていた。
「嵐なのか?」
「違うな」
 そうきっぱりと言い切る割りには、一点を睨んだまま微動だにしない男。
「随分暗いが」
「雲の下に入ったからだろう。…見たこともねぇ雲だったってのが気になるが」
 険しい顔はそれが理由だったのだろう。船の方向やスピードを指示しながらも表情をゆるめる様子は無い。
「――もしかしたらもしかするかもな。この胸騒ぎは只事じゃねぇぜ…」
 波が高くなってくる、そんな中を、海中から銀色の矢が飛び出して来たように見えた。それは、巨大な口を使い、同じような銀色の魚を大量に咥えて空中へ姿を現すと、再び海の中へと消えていく。
「ヒィッ」
「慌てるな!」
 浮き足立つ若手の漁師たちを叱咤する男。それに構わず、ずい、と一歩足を踏み出したイルディライが、すらりと長い、刀のような包丁を抜き取る。男が目指すものは、銀の鱗も艶めかしく…龍とみまごうばかりの大きさの、魚。
 サイズさえ考えなければ、顔つきは魚そのもの。細長く見える胴体部分も龍のイメージに拍車をかけているようで。
「…行くぞっ」
 はき捨てるような一言。そして、だんッ、と甲板を蹴って船の外へと飛び出した。
「おい、そりゃちょっと無茶…!!」
 背後で、そんな声が聞こえた気がしたが。
 突如飛び掛って来た小さな生き物に驚いたザンマが波を掻き立てて騒いだため、何を言っているのかは分からなかった。
 ずん、とその背に飛び乗る。その衝撃で畳まれていた背びれが蛇腹カーテンのようにびらっと開くのを片手で掴み、もう片方の手にある包丁をずぶりと青黒い背に突き立てた。飛び乗る際に弾力から試算した深さまで、えぐる。
 ――っ!?
 闖入者が背に居る事が気に障ったのか、尾を激しく振ったらしい。波のように襲いかかって来た衝撃に堪える事は出来ず、また足場がぬめっていたのもあってそのまま海中へと頭から突っ込んだ。ザンマが暴れた衝撃と、落ちた時の勢いで海中が泡立ち、視界が遮られてしまう。
 これでは拙い。とりあえずは海面へ…近くにあれば、船へと戻ろうと必死に手で海水を漕ぐ。健闘の甲斐あってか、やがて海面が見える程度にまでなり、薄暗い空中へ顔を出してぷは、と大きく息を付き。
 ――その目の前に。
 何処を見ているのか分からない、巨大な目があった。
 すぐ近くには鋸状の歯もあり、あれに餌と見られて噛まれるのはあまりにもぞっとしない。そんな事を思いながらいると、移動するつもりか巨大魚が頭を海中へ下げて、潜って行く。
 イルディライの目に、先程突き刺したままの包丁の柄が映った。ほとんど無我夢中で泳ぎ寄り、柄を掴んだ――瞬間。
 ぐいぃっ――そんな勢いで、身体ごと海の中へと引きずり込まれる。
「――っ、ぐ…っ」
 イルディライに出来る事――それは、再び水中に潜る前に、大きく息を吸っておくこと…それしか、出来なかった。
*****

「…ありゃあ化けモンだ。何年生きてるか知らんが、あれでも魚だってんだからな」
 どの位の時が経ったのだろう。あの『魚』が姿を現してから、数分も経っていないに違いない。あれだけの巨体でありながら、海中へと身を翻した姿は異様に早かった。
 そして――空は晴れ渡っていた。あの雲さえもが、ザンマのためだけに発生したと思えてしまう程、あっという間の出来事だった。
 だが。
 ほとんど誰も言葉を発しない船の上には、イルディライの姿は無い。
 無謀としか思えない行動を見せた料理人は、海中へ潜るザンマの背にしがみ付いたまま、消えてしまったのだ。
「…どうします?待つんですか、ここで?」
「当たり前ぇだろうが。…誰が一体、この船の運び賃を払ってくれると思ってやがる」
「で、ですが」
「やかましい!帰りの風が出るまでにはまだ時間がある。それまでに戻って来れなかったら――それまでだ」
 そんな話をしてからは、誰もが黙々と作業に勤しんでいる。この際だから、と網をかけたそれには、皮肉なくらい良質の魚が揚がっていた。
「…戻って来れますかね」
 見知らぬ男。伝説としか思えない魚を探しにこの広い海へ出ようと言う、無茶な事を言い出した男…だが、何故だか放っておこうと言うものはおらず、誰もが無言で待っている。
 そんな中、ぽつりと呟いた1人の言葉に、誰よりも先に反応したのが、中で一番年上の男だった。
「こんな場所へ来ようって位の男だ。…簡単にはくたばらねぇよ」
 唾を撒き散らさんばかりの勢いでそれだけ言うと、くるりと振り返り。 ――そして、そこで足が止まった。ぽかりと開けた口に、他の者も振り返って、同じく口を開けて目を見開く。
「――待たせた」
 全身ずぶぬれになりながら、一抱えもある赤い肉の塊を背負った男…イルディライがそれだけ言うと、がくりと甲板に膝を付いた。

*****

「おお!これが、あの!?」
「――ええ」
 ぱりッと糊の利いた服を身に付け、銀の盆に載せて運んで来た一皿に金持ちが目を輝かせる。蓋を取ると、ふわん、と食欲をそそる匂いが部屋中に広がった。給仕をしていた者たちまでが思わず目を寄せてしまう、その皿の上には、ステーキ程の大きさに切り分けて炙った切り身が1つ。
「手に入れた中でも極上の部位になるかと」
「ほうほう」
 説明を聞くのも待ちきれないと言った様子で、早速ナイフを入れる――そこから、皿が空になるまではあっという間だった。
「――いやこれは伝説と呼ばれても納得の行く味だ。…だが、これだけなのか?話には巨大な魚と聞いたが」
「1匹まるごとの捕獲が出来れば良かったのですが、持ち運ぶにも手が足らず、一部だけになりました。…とは言えあの大きさではこの屋敷の者全て呼んでも食べ切れなかったでしょうな。近所の者に分け与えませんと」
 遠かった事もあり、取れた部分で可食部分がこのくらいにしかならなかったのです、そう言われてはそれ以上ねだる事も出来ず、うぅむ、と金持ちが残念そうに皿を眺める。…この場に誰もいなかったなら、間違いなく皿まで舐めていただろう。
 ――約束の礼金を受け取ったイルディライが、その重みを確かめながら、帰り道の途中で唇の端にほんのわずか笑みを覗かせた。
 皮を削ぎ、肉を切り分け、塩で処置し…。
 ほんのちょっぴり、依頼用に残しておいて――美味い部分と言うのは嘘ではないが――残りは、船の上で漁師たちと分けたのだ。あの金持ちの男が食すまでも無く、最高の焼き加減、塩加減を調節しつつもたっぷりと味わったのだからイルディライとしては文句無い仕事だっただろう。
 恐らく二度と扱えないであろう食材の知識と…身を削いだ時に服に引っかかっていた、1枚の巨大な鱗。
 それは、金にもまして大切な、収穫だった。


-END-