<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


夢見鳥のひとりごと

 随分と量の減ったワイングラスをくるくると回しながら、カウンター横に居合わせた男は唐突に何かを思い出したかのようにして呟いた。
「独り言をね、囁く蝶がいるそうなんですよ」
 モノクルの奥の瞳に、人懐こい笑みを浮かべた男が弾んだ調子でこちらを見遣る。
 何を言われたのかよく解らない。そんな表情をしてみれば、何を思ったか満面の笑みを向けてくる。
「ああ…私はリベルと云います。リベル・ウェトゥム。以後お見知りおきを」
 ちなみに酔ってませんから、別に空想物語を語ってる訳じゃないですよ。そう続けたリベルは残っていたワインを軽く飲み干すと、目の前の人間達に視線を向けた。
「ヒトの言葉ではないようですけれど、本当に独り言を囁く蝶がいるそうなんです。非常に珍しいらしいんですけれどね、聞いた話、今晩辺りに──湖の方に出現するとのウワサがあるんです。ね、もしよろしければなんですけど……」
 此処で会ったのも何かの縁です、よろしければ一緒に見に行きませんか? ユメミドリ。
 微笑んだリベルに恐らく他意は無いのだろうが、その言葉の中にはどうしてか拒否を示す事が難しい響きがあったのだった。

 感嘆の溜息と共に、アイラス・サーリアスは目の前に広がる絶景を眺めた。
 先程酒場で出会ったリベルと共に訪れた夜の湖は、月光に照らされた──宛ら何かの舞台のようでもあった。人気も少なく、する音と云えば、今の処は風に戦ぐ千草の音だけだ。
 同じように目の前の景色に見惚れているらしいリベルを、アイラスは見上げた。
「夢見鳥──。蝶なのに鳥という名前なのですね。…どんな場所にいるのでしょう?」
「え? ああ…あのですね、夢見鳥って、蝶の異称なんです。今日の目的の蝶は…、ええと、通称は『月舟』って呼ばれているんですって。すみません、混乱させましたね」
「へえ、異称…そうなんですか。混乱だなんてとんでもない。新しい事を知るのは楽しいですから」
 アイラスの言葉に照れたように破顔したリベルは、苔色の視線を辺りへと彷徨わせる。
「場所は──どうなんでしょう。正直なところ、私もウワサだけでここまで来たもので…」
「え、」
「あ、いや…その、出る事は出るんです。本当に」
 幽霊の類いでもあるまいしその単語は無いだろうが、リベルの慌てる素振りから、どうやらそれは信用しても良い事であるらしい。
 実年齢は聞いていないが、恐らくは自らより数個は上だろう男はおろおろと暫くの間狼狽えていたが、何か思い当たる事があったのか、不意にその動きを止めた。動作の切り替えがまるでおもちゃのようで、アイラスは密かに笑みを噛み殺した。当のリベルは空を見上げながら口を開けている。
「そう云えば…何か、音楽のようなものに引き寄せられるとか聞いた事があります」
「音楽ですか?」
「はい。──どうして今頃思い出すんでしょうか、私…」
 影を背負ったリベルが今度こそめそめそと泣き出している。アイラスは苦笑しながらも、寒気避けにと着込んで来た厚手コートのポケットを探った。指先に当たった細い感触を引き上げる。
「リベルさんリベルさん、大丈夫ですよ。僕、音楽は得意なんです」
 しゃがみ込んで泣いていたリベルに、目線を合わせるようにして身を屈める。ちらちらと目の前で揺らしてみせたのはシンプルな横笛であって、顔を上げたリベルはきょとんと目を瞬かせた。
「…横笛ですか?」
「はい」
 大きなお友達と化したリベルは、どういう訳なのか、唐突にアイラスの両手をがっしと握った。思わずぎょっとしたが、何だか目の前の男の行動は憎むに憎めない。──号泣しているが、どうやら今回のそれは哀しみから来るものではなくて、感極まって、のもののようだ。口元が上手く動かないようで音が出ないが、確かに動きがありがとうございますと言っていた。
「か…構いませんよ。大丈夫です。──それじゃあ、試してみますか?」
 アイラスは根気よく微笑み続けた。


 結局、アイラスが横笛を奏で始めたのは先程から暫く経ってからの事だった。静寂の中に響き始めた横笛の高い音は、それでも静寂の色を壊す事無く、夜の湖へと深く馴染んでいった。
 リベルはと言えば、号泣したおかげで目が赤かったが、漸く泣き止んだ様子でアイラスの奏でる音色には耳を澄ましていた。泣きすぎて噎せ返った際に吐いたらしい血はこの際見なかった事にしておく。
 瞳を伏せて、楽器演奏に集中するアイラスによって生み出される音色は、滔々と辺りの空気へと広がっていく。
 世辞にも視界が良いとは言えない湖畔、アイラスの意見で動かない事にしたのはどうやら正解だった。
「──っ、?」
 不意に目の前を横切った仄明りに、思わずリベルが仰け反る。その正体に気付いたらしい彼は、アイラスの服の裾を引いて演奏を止めさせた。
「あ、」
 アイラスの表情が微かな驚きに変わった。
 蝶である。
 それも、恐らくは目当ての種類だった。
 ひらひらと月明かりの中を舞飛ぶ蝶は、明らかに実体を持ったそれではなかった。光で形成されたようなその体は、時折の風に不安定に消えそうになる。強く、弱く、強く、弱く──そんな風にして自らの体を光らせる蝶は、その光の色さえもころころと変えていた。
 最初、アイラスの瞳に飛び込んだ時には深緑の光。やがて濃紺から目の覚めるような青へ、それも薄まった頃には。
「…アイラスさんの髪の色と同じですよっ」
 嬉しそうに、リベルが小声でそう言ったのに対して微笑みながら頷く。
 そうして目を離したのは一瞬だったのだが。
「…あれ?」
 戻した視線の先には、先程の蝶、──それに、赤色の光、黄色の光。
 明らかに蝶が増えている。
 そして──。
 ──どこにいく?
 ──どうしようか。
 ──きのうはきいろのはなのあじみをしたよ。
 ──それじゃあきょうはあおいはなにしよう。
 ──どうしよう。
 ──どこにあるだろう?
 声、だった。
 耳に届いているのはヒトのそれではない、頬がくすぐったくなるような不思議な音だ。だが不思議と、アイラスの意識は蝶達の囁きを理解していた。
 ひそひそと、幼子達が顔を寄せ合って話しているような、そんな他愛も無い内容の囁き。それに思わず顔が綻ぶ。──と。
 ──あおいのみつけた。
 ──みつけた?
 風に乗った蝶が、不意にアイラスの髪に止まった。──が、どうやら止まろうとすると艶のおかげで滑ってしまうらしい。頼りなく、確かめるように何度も自分の髪に止まろうとする蝶に、アイラスは思わず手を伸ばした。
「…ごめんなさい、残念ですが、これはお花じゃなくて僕の髪なんですよ」
 指先になんとか留まる事が出来た蝶は、落ち着いたように羽根を開閉させてアイラスの言葉を聞いているようにも見える。
 ──はなじゃないよ。
 ──そっちちがうよ。
「ほら、皆が呼んでいます。──行かれては?」
 ひらひらとアイラスの周りと飛んでいた二つの光に向けて、そっと指先の蝶を差し出す。それでも暫く、青の色を映したままの蝶は戸惑うようにして風に震えたが、やがて思い立つように他の色の蝶の元へと、羽根を動かした。
 月明かりの中で、三つの光が重なっては離れ、時折一つになり、また別れて数を増やし──。
 リベルが微笑んだ。
「…よかったですね? 見れて」
 囁くように言うのは、やはり蝶への配慮だろうか。アイラスはその言葉に相槌を打つと、止めてしまった音色をもう一度、と、笛を手に取ろうとした。
 瞬間。
 ──ころり。
 腕を持ち上げたと同時、小さな質感がアイラスの指の隙間を通り抜けた。落ちてしまった何かを、リベルが目ざとく拾い上げる。
「なんでしょう…? 種、みたいですけれど」
 はい、と手渡されたそれは、アイラスの手のひらの中で小さく脈動したように感じた。
 月明かりの下であるから確かかどうかは解らないが、ぼんやりと見える空色のそれは、リベルの言う通り種のようだ。──彼はどうやら聞かなかったようだが、アイラスには確かに聞こえていたのだ。
 ──まちがった? ごめんね。
 指先から飛び立つ際に蝶がそう言って残していったものは、きっとこの種なのだろうと。
 ──帰ったら植えてみようか?
 力を入れれば崩れてしまいそうな種を大切そうに布に包んだアイラスは、改めて横笛の音色を湖畔へと響かせていった。


 了


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【登場人物】
 - PC // 1649 // アイラス・サーリアス // 男性 // 19歳 // フィズィクル・アディプト //...
 - NPC // リベル・ウェトゥム // 禁書専門店 店主 //...