<東京怪談ノベル(シングル)>


 風、来たりて…

 とある湖の辺、心地良い風が流れる岸辺だった。
 そういえば…
 みずねは、思いを巡らせている。
 風の神に仕える、風来の巫女の人魚だ。
 柔らかな風が流れ、彼女を取り巻いている。
 なかなか、変わった境遇だと自分の事を思う。
 人には人の定めがあり、人魚には人魚の定めがある。
 ただ、自分はその定めから、半歩ほど離れた所に居ると思う。
 「私は、何故、あのお方に仕えているんでしたっけねぇ…」
 口に出してつぶやく。
 人魚が巫女として神の側に在るのは、決して珍しくは無い。人魚の定めの中の事だ。
 ただ、水を離れて流れ、風の神の巫女となるのは珍しい事だった。
 それ程、遠くには離れていない。
 だが、確実に人魚の定めから離れた事だった。
 偶然。ただそれだけの事である。
 あのお方に出会ってしまったから。選ばれてしまったから。ただ、それだけの事である。
 柔らかな風が流れ、彼女を取り巻いている。
 ここに風の流れの一つ一つが、あのお方の意思であり、あのお方の一部でもあった。
 あのお方の存在を正確に理解する事は、ほぼ人間には不可能である。みずねも完全に理解しているわけではなかった。
 みずねが理解している事は、あのお方が多次元に渡って存在し、聖獣界ソーンの次元にも、あのお方の一部が確かに存在しているという事だった。
 抽象的な理解だったが、あのお方が存在しているという事は確かであり、それで十分だった。
 …さて、あのお方はどこに居られますやら?
 みずねは、自らが仕える風の神を探す。
 太古の昔、神々の大戦があった頃から居る、風の神だ。
 名も忘れられた
 無限に等しい時を生きる神々にとっては、そんな大戦も遊戯の一つだったのかも知れない。
 みずねが仕える風の神は、そんな大戦の後、邪神として封印されるはずだったのだが、何故か封印されなかったらしい。
 あるいは、多次元の存在する一部のみが封印されたのかもしれないが…
 ふぅ…
 と、みずねはため息をついた。
 人魚なのに風の神の巫女というのは確かに変な状況であると自分でも思うが、まあ、なってしまったものは仕方無い。
 そういえば…
 みずねは、思いを巡らす。
 …最近は長い事、あのお方と語らってませんね…
 そろそろ、あのお方のお相手をしに行きましょうか。
 みずねは、自らが仕える神の事に思いを巡らし、振り返った。
 柔らかな風が、彼女を取り巻いていた。
 心地良さを、みずねは感じている。
 …ボクは、ここに居るよ…
 彼女の耳に、風が合わさった音が聞こえた。
 …風を欲しがってる人は、居ないかな…?
 風の音は、人が囁く声にも聞こえる。
 「そちらに、おられましたか」
 みずねは風に向かって囁いた。
 良い意味でも悪い意味でも気まぐれなお方だと、みずねは思う。
 姿を現したくなったら何処にでも現れる。
 そんな風来な性分自体は嫌いでは無かったが、そうして気まぐれに振舞う神に、目付け役の巫女が必要な事は納得が出来た。
 「さて、何について語らいましょうか…」
 みずねは風に向かって囁いた。
 風を呼び、語らいましょう。
 お気に召すままに。
 気の済むまで。
 …何か…面白い話が聞きたいな…
 風が合わさった音が聞こえた。
 それは、確かに人が囁く声に聞こえた。
 柔らかく流れる風と、みずねは語らい始めた。
 「一秒でも永遠でも、お相手いたしますよ」
 みずねは呟いく。
 とある湖の辺、心地良い風が流れる岸辺だった。
 神が神殿に居るとは限らない。
 仕える巫女が神殿に居るとも限らない。
 流れて彷徨う風の神と巫女が、どこで出会い、語らうかもわからない。
 子供のように無邪気で気まぐれな風の神と、風来の巫女の組み合わせだった。
 彼女達が一秒語らうのか、永遠に語らうのか、それは本人達にもわからなかった…

 (完)