<東京怪談ノベル(シングル)>


闇の薄れる瞬間



 他人と同じだけの痛みを味わうことは出来ない。
 その痛みはその人だけのもので、決して同じ痛みを味わうことは出来ない。
 想像してみてもやはりそれはいつだって紛い物で。
 けれど、もしその痛みを味わうことが出来たのなら。
 他人がそれに触れることが出来たなら。
 一人だけの闇が少し薄れるかもしれないと思った。


 あたしはまるで月の光を待っていた花のように、月明かりを浴びゆっくりと瞳を開ける。
 月の光。
 それはあたしが目覚めるための合図。
 柔らかい光があたしを照らしてゆっくりと体の強張りが解けていく。
 目覚める先。それはエルファリア女王の別荘の一室で。
 その部屋の窓から外を眺めればそこは夜の世界が広がっている。
 あたしの生かされる世界。
 そっといつものようにあたしは外へと飛び出し、軽いステップを踏みながら黒山羊亭へと向かう。

 あたしの命の脈動を。
 そしてあたしの心の叫びを聞いて欲しい。

 あたしは何時だって此処にいて、そして何時だってあたしは此処であたしを形作る踊りを踊るの。
 それは決められた事柄のようで、すんなりとあたしを招き入れてくれる黒山羊亭とステージの上に立つエスメラルダ。

「いらっしゃい、レピア。さぁ、今日ももちろんあたしと踊ってくれるんでしょう?」
「もちろんよ」
 くすり、と微笑んであたしはエスメラルダの手をそっと握る。
 しなやかなその手はあたしの手を握り返し、ステージの上へと引き上げた。
 そうこれがあたしの想い。
 言葉にしなくても体中で表現してあげる。
 ピンと伸ばされた指先から足下まで。
 あたしの全てをご覧なさいな。
 沸き上がる想いは何時だってあたしの全てを熱くする。
 それは向かいにいるエスメラルダもきっと同じ。
 踊り子は体中で自分の存在をこの時間、そして人々の記憶に刻み込むの。
 激しいまでの想いを込めて、まるでそのまま燃え尽きてしまっても良いと思うくらいに。

 誰にも分からないあたしの恐怖。
 石の呪縛に囚われたまま幾年月を重ねてきただろう。
 それでもまだ生きていたいと願うのは、その想いを吐き出すことの出来る踊りがあたしにはあるから。
 踊っている間はあたしは自由。
 何にも縛られることなく、自分の思うままにあたしの生を生きる。

 客席から沸き起こる拍手にあたしとエスメラルダは微笑んで共にステージを降りた。
 露出した肌には玉の汗が浮かんでいた。
 喉はカラカラで話すのも億劫なくらい。

 カウンターにいくとバーテンがエスメラルダとあたしの目の前にグラスを置いた。
「ありがとう」
 互いにバーテンに礼を述べてからグラスを掲げ乾杯する。
「今日の踊りに」
「そして明日の踊りに…乾杯」
 チン、と軽くグラスが鳴るのを聞きながら、あたしはグラスに口を付けた。
 喉を通っていく液体が冷たく心地よい。
 火照った体を内側から冷やしていく。
「んー、美味しい。やっぱり踊った後の一杯は最高ね」
 エスメラルダが笑顔であたしに告げる。
 もちろんあたしもそう思う。
 だから一緒になって微笑んでいつものように他愛のない話をした。
 今日もまたそれで夜が過ぎ去るのかと思っていたけれど、突然大きな音をたてて扉が開いてあたしはびっくりして後ろを振り返った。
 そしてそこに立っていた人物に更に驚いて声を上げる。

「どうしたの、一体…」
 あたしの知っているメイド服を着た少女は、本来おっとりとした性格でこんな風に慌てて駆け込んでくるようなことをするはずがない。
 それなのに肩に灰色の物体を抱えて、少女はあたしの顔を見るなり半泣き状態で駆け寄ってきた。その子は以前、夢の中から助け出してやった少女だった。それからあたしを慕ってきてくれていて友達以上恋人未満の様な関係が続いている。
「ふえっ……あのですね……私にはどうすることもできなくて……助けて欲しいですぅ……っく」
 あたしの元にたどり着いた時には少女はボロボロと涙を零して、肩の物体をあたしに差し出した。
「お掃除をしてたら…ゴツっ、て鈍い音が隣のお部屋から響いたんです。私びっくりして飛んでいったんですが……そしたら石化した…っく」
 泣き始めてしまう少女。
 手の中にあるのは一体の石像。ツインテールの少女の石像だ。恐怖に満ちた表情をしている。
 あたしはこの子も知っている。とても大切な可愛い子。こんな表情は今まで見たことがない。
 誰がこんな風にこの子を…と考えた時、以前一緒に探したことのある一つの物体を思い出した。
「…もしかして、コーラルリーフメーカーにやられたの?」
「はいぃぃぃっ……お部屋に行ったらコーラルリーフメーカーがいつも入れてる水槽から一匹出ていて……多分噛まれたんだと思うですぅ…」
「噛まれたって…解毒剤は?」
 そう、解毒剤はこの噛まれた子が持っていたはず。同じ家にいるならば知ってるんじゃないかしら、とあたしは思って尋ねたけれど少女は力なく首を左右に振る。
「私…解毒剤の在処は分からないのですぅ……マスターに聞いてみようと思ったらマスター出張中で一週間帰ってこないみたいで…メイド仲間にも聞いてみたんですけど誰も知らなかったです……」
 私どうすれば良いですかぁー、と少女はあたしの胸に飛び込んできて泣きじゃくった。
 そんな少女をあたしは優しく抱きしめて髪を撫でてやる。
「あたし達で助けなきゃ…ね。大切ですもの」
「レピアさん〜! アリガトですぅ〜……っく」
 ぎゅうっ、と更に少女が抱きつく。
 泣かせたくは無いのだけれど。どうしたら泣きやんでくれるかしら、とあたしは少し考えて少女に軽くキスをした。
「もう泣かないで。大丈夫。あたしたちでなんとか出来るから。ううん、しなくちゃいけないでしょう? 泣いていては駄目。ちゃんと出来る判断も鈍ってしまうから」
 そう。泣いていたって時間が過ぎ去るだけ。
 行動しなくちゃ始まらない。時間は何時だって待っていてはくれない。
 あたしの言葉に少女は頷いて涙を拭った。
「私、頑張るです。絶対に助けたいです」
「えぇ」
 あたしは安心させるようににっこりと笑みを浮かべ、石像となってしまった少女をエスメラルダに断って奥の部屋へと運んだ。

 人々の奇異の目をこの子に浴びせるのは嫌だった。
 それは自分が辿ってきたのと同じ視線だったから。

 あたしにとっては本当に苦しい出来事なのに、周りは奇異の目であたしを眺める。
 好きで石化している訳ではないのに。
 見せ物にされるのはもう真っ平。
 あたしが踊りを人々に見せるのと石化したあたしを見せびらかすのでは意味合いが全く違う。
 石化したあたしはものを考えることもない。そこにあたしの意志などなくて。
 それはただの石像でしかないのだから。
 あたしをあたしとして見て欲しい。
 そんな事を思っていたら少女が心配そうにあたしの手を掴んだ。

「レピアさん…大丈夫ですか?」
「…えぇ、平気よ。さぁ、噛まれた場所は何処?」
 あたしは少女に微笑み返して沸き上がる負の感情を心の底に沈めた。
 表情に出してしまうだなんて情けない。
 少女を不安にさせてどうするのだろう。
 そしてあたしに促されて少女は石化した少女の手を指さす。
「利き手は右で何かを摘もうとする時、人差し指と中指と親指を使うから…多分そのどれかを噛まれたんだと思うです」
 その三本の指を注意深く観察してみる。
 石化していても傷は残る。
 それを発見できたら糸口が見つかるかもしれない。
 あたしはじっくりとその指を眺めた。
 すると人差し指に小さな穴が開いていてそこからうっすらとにじみ出ているものがある。
 あたしの石化と違って、表面上だけの石化だから体内までは被害が及んではいない。
 毒を吸い上げればその石化は解かれるに違いない。
 あたしは迷わずその指に吸い付いた。
 思い切り傷口から毒を吸い上げる。
 口の中に血の味も広がった。
 毒と血を吐き出して、更にもう一度吸い上げる。
 そして吐き出す。
 それを五度程繰り返し、あたしは口を濯ぐと口に気付け用の酒を含み石化した少女に口付けた。
 まだ体は石化から完全には解けていない。
 だけど、毒の薄かった場所から石化は解け、ついに唇も柔らかさを取り戻した。
 しっとりと濡れた唇を開かせてあたしは酒を流し込む。
 こくん、と飲み込むのを確認して更にもう一度酒を流し込んだ。
 もう一度喉が鳴る。
 そして少女の瞳が開かれた。
 あたしと認識すると少女はあたしにしがみついて泣き始めた。
 よほど怖かったのね、とあたしはそっと抱きしめる腕に力を込める。
 そして優しいキスをたくさん少女に降らせてやった。
 額に、瞼に頬に唇に。
 最後に触れた唇にそっと唇を重ねて舌を絡ませる。
 優しく吸い上げてやると、可愛らしい声で少女は啼いた。
 酒を流し込むように溢れる唾液を飲み込む少女。
 それにあたしは満足してやっと唇を離してあげる。

「お帰りなさい」
 笑顔で迎えてあげる。
「アタシ…アタシね…体が固まっていく瞬間、本当に怖くて…動けなくなっていくのが怖くて……」
 あたしにしがみついたままツインテールの少女は呟く。
「そうね…怖いわ」
 とってもよく分かる。
 毎回あたしはその感覚と戦っているから。
「あのね…アタシ…やっと分かったような気がする。石化するレピアの気持ちが少しだけ…もちろん全部なんて分かんないよ。でも…ほんの少しだけ分かったと思う」
 全部分かったなんて言ったらレピアにとっても失礼だけど、と少女は少し自分のペースを取り戻したのか頭をポリポリと掻きながら告げた。
「そう…」
 あたしはそう呟いて少女の事を抱きしめる。
 全部なんて分からなくても良い。
 この苦しみはとっても辛くて悲しくて重いものだから。
 分からなくても良い。
 だけど……ほんの少しだけ触れて、ほんの少しだけでもこの恐怖を知ってくれたなら。
 一人きりで進んできた闇の世界がほんの少しだけ薄れるような気がする。

「レピア…あのね、アタシいつでも側にいてあげたいよ。あの怖い瞬間、手を握っていてあげたいよ」
 手をそっと握ってきた少女はあたしを見上げた。瞳が澄んでいてとても綺麗に思える。
「あ、私もですぅ」
 メイド服の少女も負けじとあたしの元へとやってきて言う。
「ありがとう、二人とも」
 あたしはそんな二人の気持ちが嬉しくて心の底から笑みを浮かべた。