<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>
『魔の地の一切れの林檎』
* * * * *
蛇はイヴに誘いをかける。
「ごらん、艶やかなこの果実を。酸味に満ちたうまそうな林檎。これを食らわずに、人として生きる幸福があろうか?」と。
イヴは樹の枝に手を伸ばす。指の先で、恋という名の赤い果実が揺れている。
<オープニング>
「このペティナイフを預かってくれないか?閉店迄には取りに戻るから」
カウンターにコトリと銀のナイフが置かれた。布で刃は巻かれているが、柄の部分に薔薇や蔓草の飾りが施されたのが見える。美しいナイフだ。
黒山羊亭の花形ダンサーに不躾な頼みをしたのは、青年と呼ぶにはまだあと数年という魔導士だった。少女のような優しい顔をしてはいるが、声変わりしたてのような荒れた声と、黒マントから覗く平坦な胸から男性と知れた。
だが、エスメラルダは首を傾げる。
「アーシュラ?」
深紅の唇は女性の名を呼んだ。
アーシュラは、魔法使いの祖母の元で修行中の少女で、こっそり魔法のアイテムを持ち出しては祖母に叱られている。
「なんだ、バレちゃったわね」
なんでも、この魔法のペティナイフで剥いた林檎を一切れ食べると、一時性別を変えることができるという。効果は夜明けまで。
「好きに使ってもいいわよ」
性別は変わっても、言葉は少女の時のままだ。エスメラルダは笑みを殺しながらアーシュラを見送った。
「さて、店に林檎はあったかしら?試してみる人、います?」
* * * * *
「・・・って、エスメラルダさん。何で僕にだけ向いて言うんですか?」
「だって。こういうの、アイラスなら面白がって食べそうだから」
うふふと鼻の頭に皺を寄せると、エスメラルダはナイフと林檎をアイラス・サーリアスの前に置いた。アイラスはカウンターでビールを飲んでいるところだった。
「で、林檎、丸ごと置いて行くんですか〜」
「だってあたし、皮剥きなんて苦手なのよ。あなたの方がきっと上手よ、何でも器用そうだもの」
そう言い残し、エスメラルダは他の客に酒を継ぎに行ってしまった。アイラスはため息をひとつついて眼鏡の位置を直すと、林檎の紅にナイフを入れ始めた。
カウンターの近くの席に、騒がしい剣客達がいた。目を見張るほど大柄な侍と、隻眼の女傭兵のカップルだ。
侍の方はラモン・ゲンスイ。椅子に座っても頭が天井に近いという、とんでもない長身の男だ。銀の髪をきりりと朱の紐で括り、淡い麦の穂色の着物を纏っている。着流しでは無く、襟も胸も裾もきちんと併せた、行儀の良さそうな青年である。だが、体の大きさに比例して飲む酒の量も多く、手にした徳利は既に二桁目だ。
女性の方も、大きい。ジル・ハウ。立てば2メートル近いことだろう。左目を覆う黒眼帯よりも、右の、琥珀か黄金かという、輝きの強い瞳の方が断然に目立つ。容赦の無い色だ。美しいアーモンド形をしたその宝石は、戦いでは敵の隙を見逃さない。
銀というより白髪に近い髪を無造作に肩に垂らしていた。
カップルとは言ったが、女に色気は無く、気の知れた友人同志という感じだった。二人は肩を叩きながら酒に興じていた。
ジルは時々触れるラモンの肩を感じながら、猪口ではまどろっこしく感じ始めていた。酔いが回って来たのかもしれない。
隣の巨体が、見知らぬ眼鏡の青年に向かって「美味そうだな」と手を差し出していた。青年は林檎を剥き終えたところだ。
「林檎、くれんか?」
眼鏡の青年は面食らったようだが、皿の上で半分に切った片鱗を、ラモンに投げてよこした。
ラモンはそれを一口齧る。
「美味いぞ。おまえにも半分やる」
笑顔でジルに手渡した。
『ええええっ!』
ジルの手は震える。ラモンが齧ったところを食べたら間接キス。熊みたいにでかい女だが、心は乙女だった。
恐る恐る、林檎の白い切り口に唇を触れた。
< 1 >
林檎をしゃりしゃりと咀嚼するうちに、見る間に隣のラモンが縮んで行った。
・・・飲み過ぎたか?
縮んだだけじゃない。骨格が変わって行く。ジルはごくりと林檎のかけらを飲み込んだ。頬の曲線が顎の長さが鼻の大きさが変わる。肩が細く丸くなっていく。胸が前に突き出して来る。
ラモンは女性に変わって行った。
本人は気づかず、平気で前屈みになる。はだけた前身頃から豊満な胸が覗いた。
「ラモン!」
慌ててラモンの着物の前をきつく閉じた。
「胸が見えてるぞ!」
「え?」
ラモンはぱちぱちと瞬きする。女になったラモンは妙にキュートで、カールした睫毛が動くと店の酔客達はおおっとどよめいた。
「どなたかな?」と馴染みの友に余所行きの言葉を投げかけた。
『え?』
ジルは、ラモンの変化ばかりに気を取られて気づかなかった。自分が男に変わっていることに。
客の一人が、見かねて助け船を出した。
「あんたら、話を聞いていなかったね?
さっきの眼鏡のにいさんが使っていたナイフ。あれで剥いた林檎を一切れ食らうと、性別が逆転するんだとさ」
「性別が・・・」ジルが可憐に変身したラモンを見下ろす。
「逆転・・・」ラモンも、さらに雄々しさが増したジルを見上げた。
エスメラルダがダンサー衣裳に着替える更衣室を借りて、ジルはラモンの着付けをし直してやることにした。
「一度きちんと着直そう。帯を解いてくれ」
ジルはもともと筋肉隆々とした大柄の女だったので、男になったからといっても、肩幅や腕の筋肉で服が破れるというようなことはなかった。バストだか筋肉だかわからなかった胸の隆起が消えたのと、顔の骨格があからさまにごつくなったくらいだ。
だが、ラモンの変化は青天の霹靂だ。あの頬骨の張った四角い顔が、顎の小さいふっくらとした美女に変わるなんて。戦闘馬みたいな体が、こんな腰の細い華奢な娘のものに変わるなんて。
「おおっ。乳、でかぁっ」
着物を解いて、ラモンは自分の胸を見て無邪気に声を挙げる。ジルは慌てて胸元を併せた。
「おまえは女になったって自覚があるのかっ。男のあたしの前で、簡単に胸をあらわにするなっ!」
「だって、女同志じゃないか」
ジルは頭をかかえる。確かに、体は男になってもジルの精神は変わっていない。女ラモンの裸体を見てどうこうは思わない。だが、店の客たちの視線。あれは、兎を狙う狼たちの目だった。
着物を直して席に戻ると、頼んでもいないのにラモンの前にビールの大ジョッキが置かれた。
「おいらの奢りだよ。一緒に飲もうぜ」
客の一人がするりとラモンの横に座った。
「おう。かたじけない」
口調は堅いが、女の高い滑らかな声が答える。
「男仕立ての着物と男帯で、ここまで着付ける相方は大したものだな」
「そうだろう?」
ジルを褒められて、ラモンはなにげに嬉しい。一気にジョッキをあける。
「その帯は、どうなっているんだ?ちょっと解いて見せてくれないか?」
「おう、いいぜ、今の更衣室へ」
スツールを降りようとしたラモンの頭を、ぱこんとジルが小突いた。
「バカヤロウ!そんなスケベ男の誘いに、簡単に引っ掛かりやがって!」
スケベと呼ばれた男は、すごすごと引き下がる。
まったく。自覚がなさすぎる!と、ジルは鼻息を荒くした。
ジルはじろりと周りを一瞥する。下卑た多くの視線がラモンを、それもふくよかな胸のあたりをはばかりなく凝視している。男なんてこんなものだ。少しも遠慮も恥も知らない。女の胸などは、男がじっくり見据えて当たり前と心得ている。
ジルは口角泡を飛ばしてラモンを叱り飛ばす。これから、むさい男達の中で、女として剣で生き続けるとしたら。
隙を見せてはいけない。男に意味なく笑いかけるな。体の線を強調させるな、しなを作るな、唇を嘗めるな、爪を噛むな、瞬きするな、胸を動かして深呼吸するな、などなど。
ラモンが眉根を寄せるのを感じた。
『あたしは、きつい女かい?』
軽蔑するかい?不愉快かい?
でも、そうしなきゃ、生きて来られなかったんだよ・・・。
「いや、ジルの言うことも全くだが。だが、それより、こんな筋力では剣を奮えんぞ。俺にはそっちの方が深刻なのだが。
・・・今日から特訓かな。ジル、付き合えよ」
ラモンも大真面目だったが、ジルも真顔で答える。本気だった。
「もし、その体で、もう剣の道が厳しかったら・・・。あたしがずっと面倒見てやるよ」
ラモンに、自分と同じ、つらい思いをさせたくなかった。この愛らしい娘は、紅と化粧と、可愛い着物が似合うだろう。
黒山羊亭の窓が明るくなり始めていた。そろそろ夜が明ける。
< 2 >
「あなたたち、ほんとに人の話、何にも聞いてなかったのねえ」
エスメラルダの呆れた声が聞こえた。カウンターに伏してうつらうつらしていたジルだが、起きる機会を逸した。
「はは、でも、元に戻れてよかったよ」と男ラモンの朗らかな笑い声がした。腹に響く低くて渋い声だ。ジルはこの声が好きだった。そう、元に戻れてよかった。この声がまた聞ける。
先程アーシュラの祖母がナイフを回収に来た。少女に戻ってここへ帰って来た孫娘を、叱り飛ばしながら連れて帰って行った。
「なんだか、女に戻ったジルが華奢に見えるから不思議なものだな」
ラモンのそんなセリフに、起きて聞いていると知れたら大ごとだと、ジルは体を堅くした。
「あら。ジルは初めから、とっても健気で女性らしいと思うけどなあ。まあ、昨夜はあなたの母親みたいだったけど」
エスメラルダの言葉はこそばゆい。鼻の頭を掻きたくなる。
「昨夜守ってくれた分の礼くらいには、守ってやらんといかんかなあ」
ラモンの声は暖かかった。
そして、ジルの髪を撫でた、その大きな掌も。
< END >
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1649/アイラス・サーリアス/男性/19/フィズィクル・アディプト
2269/ラモン・ゲンスイ/男性/24/侍、鎧侍
2361/ジル・ハウ/女性/22/傭兵
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■ ライター通信 ■
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ありがとうございました。ライターの福娘紅子です。
ジルさんは魅力的な女性ですね。
外見は男っぽいようですが、とても可愛らしいと思います。
恋愛ものが苦手な福娘なので、冷や汗かきつつ執筆いたしましたが、
いかがだったでしょうか。
別行動のアイラスさんの分も読んでいただけると嬉しく思います。
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