<東京怪談ノベル(シングル)>


『クローレルの紅玉』

 それは些細なことでした。それで彼女がそんなに怒るだなんて、そのときには思わなかったんです。
 どう見ても、誰が見ても、こう……あまり趣味の良くない食器だったと思います。それを一揃え、彼女は私に黙って購入していました。
 婚約者とは言え、まだ結婚前ですから、黙って買っていたこと自体を咎めるつもりはありませんでしたが……いいえ、少しやっぱり気分は良くなかったかもしれない。
 彼女は、その食器を二人で使うつもりのようなことを言ったので。それならば、一言くらい相談して欲しかったと思いました。二人で使う食器ならば、二人で選びたかったのです。
 そして、悪気はまったくなかったのでしょう。だから、彼女は正直に言ったのだと思います。その食器を彼女と一緒に買いに行ったのは、以前から彼女に言い寄っている男だったんです。
 ……私の出身地は恋愛に寛大な文化で、結婚前に様々な異性と付き合うことは良いこととされています。結婚した後には生涯ただ一人と定めて、それを覆すことは良しとされませんが。彼女はまだ、私と結婚しているわけではありませんから……本来、咎めるべきことではないのです、それは。
 でも、私はやっぱり気分がよくなかった。それが彼女の裏切りのような気がしてしまった。
 それでも、それをそのまま咎めたわけではありませんでした。
 そんなわけで、少し嫌な気分になってしまったまま……その、食器のデザインを評してしまったのです。
 こきおろすようなつもりは、ありませんでした。本当にその食器は良いものではなかったので、客観的には、多分、適切な範囲の批評だったと思うのですが……
 彼女は、怒ってしまいました。


「そりゃまた、難儀だったなあ」
 酒場のマスターは、同情したように言った。どうやら、彼……ライオネル・ヴィーラーに落ち度はないと判断したらしい。
「それで? 怒っちまった彼女の嫌は直ったのかい? 許してもらえたのかい」
「……いいえ」
 ライオネルは首を横に振った。
 残念ながら、いまだに彼女には許してもらえていない。
「すぐに後悔はしたんです。嫉妬があったことは、間違いないので……それが、彼女にも伝わってしまったのだと思います。でも、彼女は実家の屋敷に篭もってしまって……まったく会ってくれなくなってしまいました」
 会いに行っても門前払い、手紙もだめ。手のうちようもなくなって、困り果てて。
 そして……
「なるほど、それでか。クローレルの紅玉を採りに行こうってのは」
 ライオネルがそんな話を始めたのには、わけがある。この酒場のマスターに、事情を理解してもらわなくてはならなかったのだ。
「そんな女とは別れちまったらどうだ?」
 マスターは、わがままな女なら自分から捨ててしまえとライオネルを煽り立てた。だが、ライオネルは当然首を横に振る。
「とんでもない。元々は、私の片思いでした。はじめは叶うと思っていなかった……叶って欲しいと思ってはいましたが」
 彼女は、ライオネルがやっと手に入れた珠玉の宝石。中規模の国ほど広さの領地を有する領主の娘であった彼女は、運命の女神の悪戯と気まぐれに翻弄された。その結果、彼女はライオネルと心を通わせたのだから、それはライオネルにとっては幸運の女神だったのかもしれない。
「彼女と別れるなんて、考えられません……どうにか、許してもらいたいんです。ですから……」
 ライオネルは居住まいを正し、酒場のマスターに向かい合う。
「教えていただけませんか、クローレルの谷に入る方法を」
 それが、マスターに事情を理解してもらわなくてはならなかった理由だ。
 クローレルの紅玉。彼女と仲違いした後、困り果てているところで、ライオネルはその噂を聞いた。
 クローレルという谷があり、その中を流れる渓流の、その川原に、上質の紅玉がいくつも転がっていると言うのだ。渓流の水と石で丸く削られて、そのままで美しい紅玉となっているという。そしてその紅玉は、身を飾った女に幸運をもたらすという。
 だが、この谷には二つの伝説があり、それが紅玉の乱獲を防いでいた。
 一つは、クローレルの谷に至る道は化物がいて、迷路のようになっており、生涯に一度しかたどり着くことはできないと。また、心にやましいことがあったり、たくさん持ち帰ろうと思っている者は迷路に迷ってたどり着けない。
 仮にたどり着いても谷には守護者がいて、二つ以上を持ち出そうとすれば、守護者の怒りに触れて命を落とすと言われていた。
 そんな、クローレルの谷。
 そこに至る道を、この酒場のマスターが知っているという話をようやく聞きつけ、ライオネルはやってきたのだ。
 ここのマスターも、紅玉を奪おうという悪党にはけっして道を教えてはくれないと言うから、ライオネルは最初からそれが欲しい理由を語らなくてはならなかったのである。
「ふーん……その子には、言ってきたのかい?」
「ええ……クローレルの紅玉を取りに行くとは、伝言してきました」
「心配してんじゃないのかい? 無理しないで、帰ったほうが」
「でも、約束してきましたから。持って帰らなくては」
「そうかい……まあ、あんたの気持ちはわかったよ。土地の風俗もそれぞれだしな……教えてやろう。だが、馬や乗り物は使えないからな。自分の足で行くしかないぞ?」
「ありがとうございます! わかりました……」


 谷まで抜ける道は、洞窟だった。化物のように大きな吸血蝙蝠が巣くっていて、確かに闘う術のない一般人では洞窟を抜けるのは難しいだろう。その道も、迷路のようだった。
 酒場のマスターが教えてくれた通りに、ライオネルは歩いていった。暗い洞窟を抜け……出口の光が見えた。
 洞窟を出ると、小さな美しい渓谷だった。
 水は滝になって流れ込み、滝になって落ちて行く。
 それが、ここが普通には見つからない理由だろう。
 ライオネルは流れの速い渓流の岸辺に近づき……足元を見る。
 すると、もう足元には紅玉が転がっていた。
 引き寄せられるように、一つ拾う。
 そして、辺りを見回した。
 ここには守護者がいて、2つ以上の紅玉を持ち出そうとすれば、その怒りに触れるという。その守護者は、一体何処に……と。
 その姿には、ほどなく気がついた。
 竜だ。
 それは、谷の中棚にいた。
 そして、ライオネルを穏やかに見つめていた。
 ライオネルは、竜に向かって丁寧にお辞儀をして……
 元来た道を戻ることにした。

 彼女は、ライオネルの無事の帰還を喜んでくれた。
 そして、紅玉は彼女の指を飾る指輪となったのである。