<東京怪談ノベル(シングル)>
□赤の丘□
昼なお薄暗い森の中を、風が吹いた。
森の濃い緑の匂いに混じるようにして運ばれた血の匂いに鼻をひくつかせながら、オーマ・シュヴァルツは歩みを止め振り返り、確かめるように再び鼻を鳴らそうとする。
だがそうして確認するまでもなく、土がむき出しの旅道を流れてくるものに気付いてオーマは眉をひそめた。
「……こいつぁ……」
川が、できてくる。
森を切り開いて造られた道の向こう、小高い丘のようになっている今まさにオーマが通らんとしていた所から、最初はゆっくりと、しかし徐々に速度を上げて血の川は丘の中腹に立ち止まるオーマの側を流れ、そして通り過ぎていった。
到底人ひとり分では足りない量の血液が、丘の向こうからどんどん流れ落ちてくる。自然とオーマの足は速まり、肩にかつぐようにしていた袋の中にしまわれている、一般的に『怪しい』と称される毒だか薬だか一般人には到底理解ではないようなものががさがさと騒がしい音を立てたが、オーマの耳にもはやその音は聞こえてはこない。
「ったくよ、こちとらせっかく新鮮な薬草ちゃんたちをこれから鍋で煮出して差し上げようってのに、ちっと遅くなっちまいそうだ」
いよいよオーマは完全に走り出す。まだまだ距離はあったが、二メートルを越す巨躯から突き出た長い脚にはそんなものは関係ない。飛ぶように土の道を駆け上りながら、オーマは横目で未だ枯れない血の川を見やった。
川の流れは道の窪みで止まり、今度は池を作っている。血だまりという言葉が愚かしく思えるほどに、その量は半端なものではなかった。
耳を澄ます。だが何も聞こえはしない。悲鳴や逃げ惑う声すらもなく、辺りは異様な程に静かだ。上空を包み込む大樹の枝と葉の狭間を時折鳥や獣が飛ぶ音がするぐらいで、後は何もない。
この辺りはただの道で、集落などなかった筈だがな。そう呟きながらオーマは一陣の風のように飛び上がり、とうとう丘の天辺へと着地した。
「なーるほどなぁ、こりゃ川もできるってもんだぜ。……かーなーりーいただけねぇ上に旅のおっさんの喉も潤しちゃくれねぇがな」
屍。
骸。
骨。
そして、肉。
ありとあらゆる、かつて人間だったものが丘の天辺にある広場に幾つも転がっていた。屍累々というのはまさにこんな光景の事を言うのかもしれない。
だが、不思議とそこは生肉業の現場のような雰囲気があった。
「しっかしまぁ、なんでまたこんなにきっちりと分けてやがんだ? こんな事しやがったウルトラスーパーアトミック趣味悪ぃ解体業者は」
オーマは後頭部を無造作に掻きながらぐるりと無残な丘を見渡した。
丘の上でちょうど円を描くかのように、その死体の塊たちは並べられている。それも丁寧に各部位ごとに分けられていた。頭、皮、中身その他と、きっちりと分解されて配置されており、これが人間でなければまさに生肉工場のような様相を呈している。あのおびただしい血の川の発生源は、主に中身のエリアからだった。
そして、常人では直視できないその凄惨な小山の向こうから何かがゆらり、と立ち上がる気配に、オーマは瞬時に超重量級の銃を具現化させる。決して歓迎できる者ではないのは明白だったからだ。
「何者だ? お前さんは」
その男はぼんやりと宙を見つめていたかと思えば、一呼吸おいてようやくオーマの言葉に気付いたかのように視線を向けた。
だらりと下げられた手には大ぶりの包丁が握られているが、赤にまみれて元の刃の色彩がどんなものだったのかも分からない。衣服も同様だった。だが身体中に飛び散った血液を除けば、よく村人が好んで着る質素な普通の服だというのがどうにか見てとれる。
まだ二十歳前後だろうか。男は色素の濃い瞳に虚ろな膜をはりながら銃を持つオーマを見た。
「誰だ?」
訊ね返され、オーマは銃で自身の鋼のような肩を叩きながら、笑って答える。
「人に名を尋ねる時にゃ自分から名乗れってか? ははっ、まぁいい。俺はオーマ・シュヴァルツ。見ての通りグレイトスペシャリティィィかつ腹黒同盟総本山の一介の親父だが、そういうお前さんは何者だい? 見たところ流しの解体業者っていうわけでもないようだが」
だがオーマの自己紹介にも眉ひとつ動かさずに、男はぼそぼそと呟いた。
「……オーマ、とか、言ったな」
「おうよ。何度でも言ってやるぜ、俺の名はオーマ・シュヴァルツ――――」
ドン、と。
土煙をあげながら銃を地に下ろし、白い歯を剥き出しにしながらオーマは不敵に笑みながら言う。「お前さんがたをちょっくら封じたりなんだりしてる『ヴァンサー』だ」
その言葉をうけ、今まで反応の乏しかった男の顔に僅かな変化が起きたのをオーマは見逃す筈もなかった。
「よっと。なぁ、お前さん今ちょっくら反応したろ。……『封じる』って言葉によ」
「………………」
男は答えない。だが、オーマは続ける。
「血や森の匂いで誤魔化そうとしても無理さ。俺の鼻は天下一品どころか二品も三品もあるような鼻なんでな、ま、多少苦労はするが完全に惑わされるほどじゃあねぇんだなこれが。分かるぜ、ウォズの匂いはしっかり覚えてるからな」
「分かったところで……どうするという? それでこの身体を撃ち抜くというのなら勝手にそうするがいい。どうせそうしたところで死ぬのは私ではなくこの男なのだからな」
「思いっきしつまんねぇ上に縁起でもねえ冗談言っちゃいけねぇよ兄さん。お前さんはその身体に間借りしてるだけなんだからよ、借りた家はその時以上にピッカピカのツルッツルにしてどこぞの親父のハゲ頭のようにしてから返しなさいって教えられなかったか?」
「…………いい加減そんな戯言に付き合っている暇などない。宿主がどうなろうと、私の知ったことか」
男の目に、今までにない生気が宿る。包丁に付着していた血液が生き物のような動きを見せ始めたかと思えば、それは包丁を黒々としたもので覆った。
「私は取りあえず、肉を切り分けられればそれでいい。邪魔はしないでくれ」
数メートル離れた場所から真っ直ぐに男の刃がオーマの眉間へと向けられるが、しかし怯むどころか、オーマは微かに微笑んでさえ見せる。
「何がおかしい」
「あ? いや別におかしかねぇよ、こんな状況じゃあさすがの俺も豪快にゃあ笑えねえ。そんな事は死んじまった者に失礼極まりねぇしな」
「嘘をつけ、お前は笑っているだろう」
「おかしくて、じゃねえんだよ。これはな」
ひと呼吸おいて、オーマは真摯な目で男を見る。
「お前さんが――――、まあこういう言い方は好きじゃねえんだが……哀れに思えてな」
男は目を細めた。
「それは狩る側としての上から見た意見と取らせてもらおう。そして、それに対する返答はこれだ」
一陣の風が吹く。それと共にほんの少しだけ身体を曲げたオーマの上から髪の毛が舞い落ち、直後、オーマの背後にあっただろう木が倒れる音が森へと響く。
戻ってきた包丁を軽々と受け止めると男は喉を震わせた。次第に震えは男の口を開かせ、ついには哄笑となって森全体に響き渡る。
しかし不快感を引き出すべく発せられるその笑いに、オーマは眉をひそめもせずにただその光景を見つめていた。
やがてひとしきり狂ったように笑った後、男は俯いて包丁の柄を握り締め、そして。
跳んだ。
「!!」
一足飛びでオーマへと飛び込んで斬撃を放つ。一度、二度、三度。瞬間的なそれを身体のひねりだけでかわすとオーマは後ろに跳んだ。男も同時に跳躍する。
矢のように放たれる包丁を蹴落とし、土の上を回転しながら銃を連射。オーマにとって立ち止まって狙うという作業は必要ない。標的の動きを予測し、視界が回転しようが塞がれようがその動きを追い続けるのは彼にとって朝飯前だった。
男は木の上へと跳ね自らに贈られた銃弾を幹へと捧げると、戻ってきた包丁を手に再度跳躍。起き上がったオーマへと躍りかかり包丁を脳天へと振り下ろすが、重量のある銃でそれを跳ね除けられよろけたところにオーマの脚がまたも閃いた。
「ぐっ――――!!」
くぐもった悲鳴が上がり、男が宙を舞い力が緩んだ。オーマはその手に握られていた包丁を取り上げ、男が血の広がる台地に落ちる寸前で腕を掴む。
「っとぉ、セーフセーフってな。いくらなんでも俺に蹴られて落ちちゃあこの兄ちゃんの身体が持たねぇし。あ、これは危ねぇことこの上ないんで回収な」
黒く覆われた包丁の柄を口に銜えると、オーマは腰にぶら下げていた予備の薬草用の袋を開けてそこに包丁を放り込み、十重二十重に紐を巻いて最後にきつく縛りこんだ。
その光景を呆然と見ていた男は、やがて自分がどういう状態になっているのか気付いたようにオーマの手を振り払い、一回転して血の大地へと着地する。
「……ふん、馬鹿な男よ。あのまま更に上から打撃でも加えていればこの宿主の背骨は砕け、死に至っただろうに。そうすれば私の本体もここから抜け出る上にお前も封印できて一石二鳥だったろう」
「まぁお前さんを封印すんのは俺としてもやぶさかではないんだが、この兄ちゃんには罪はねぇしな。見たところまだまだ若けぇんだから、これからの人生棒に振らせるような真似はするべきじゃあねえだろ」
「そうか。だが私は逃げおおせるよ。そしてお前が後悔するだけのことさ、『ああ、あの森で出会った男に情けをかけなければ!!』とな。そうなればなかなかに傑作だ」
「俺にとっちゃあその兄ちゃんが救われて、ついでにお前さんもじゅーにぶんに反省してもらってから救われるってーのが一番傑作なんだがな。さて――――」
金属音が鳴った。オーマの肩に慣れた重みが加わり、銃口が男へと向けられる。
「こんな姿のままで皆を放り出しとくには医者として忍びないんでな、悪ぃがそろそろ反省会の時間だ」
だが男は向けられる銃口へと鼻で笑ってみせた。
「『ここではないあの世で』か? 馬鹿らしい。私は死なないよ、このまま身体が朽ちるまで肉塊を作り続けると決めたんだ」
「何故んな暇なことをすんのかねぇ……世の中にゃもちっと楽しいことがたっくさんあるだろうに」
「私にとっての楽しみというのが、ただ人を切り分ける作業だっただけのこと。それに対して文句を言われる筋合いなどどこにもありはしないだろう」
「でもな」
ぴたりと片手で照準を合わせたまま、オーマは細く長い溜め息をつく。
「……お前さんに殺されちまったこいつらにも、それぞれの楽しみってもんがあっただろうよ。爺さんだろうが女子供だろうがここに転がっていた奴らは皆生きていて、楽しみがあり夢があった。――――なぁ、お前さんひとりの楽しみの為に潰えていい命なんて、ひとつもありゃしねぇんだ」
「ならばその銃で私を撃てばいい。だが、オーマ」
「あ?」
無防備に武器のない両手を広げた男は、さも楽しそうに口元を歪ませながら嘲笑する。そこにあったのはもはや人と形容するのが難しいほどにいびつな笑みだった。
「私を撃つのならば、お前は自分の『死んでいった者たちの無念を晴らす為』という腐った大義名分によってひとりの男の命をその手で握りつぶすのだということを知れ。そしてこの男を、私を殺した瞬間に、お前が罪とした事柄をその背に負うのだということも。ああ、おかしい。結局のところはそんなことの繰り返しだ、どちらが殺されても罪が増えるばかりだ――――」
そう言って、男が口を閉ざした。
生き物の気配が完全に消え、風も吹かない。木々のざわめきは遠くへと幻想のように立ち消えた。音の消えた森の中、二人はただ向かい合う。
静寂。
いつ終わるとも知れないそんな世界を破ったのは、低く、けれどよく通る『ヴァンサー』の男の呆れたような声。
「……あのよ、お前さん人の話聞いてたか?」
ほんの少し肩を落としながら発せられた言葉に、予想だにしていなかった反応を返された男は呆気に取られたように口を開ける。
「……何?」
「いやさっきから俺がじっつにわかりやすーくザベストマーヴェラスっっ!! に説明してただろーが。誰がお前さん殺すなんて言ったよ、俺はお前さんに反省しろっつってるだけだって」
「まさか……お前は殺す時の決まり文句でそう言ったのではなく、『本当に』私を反省させようとしていたというのか?」
「あぁ? 何で俺がんーなつまんねぇ決まり文句なんて言う必要があんだよ、まどろっこしぃったらねぇだろんなことしたら」
「く、だとしたら真の馬鹿もいいところだな。私が殺したのがこれだけだと思っているのならばさぞかし脳が天気だ」
喉を震わせながら、男は朗々と語りだした。
「これまでに私が肉塊に変えた人間の数は浜辺の砂を数えるのと同義。もしこの罪を人間のよくやる裁きとやらにかけたとしよう、誰が反省だけで私を許すと思う? 答えは否だ。親兄弟知人親類そして友の憎しみ、怒り、悲しみ……その全てを合わせ考慮するならば、必然的に私には死が言い渡されるだろうよ。もっとも、そんなつもりは毛頭ないがね」
「あいにく俺は断罪の王を気取る気はぜんっぜんなくてな。まーあれだ、例えるなら、よその有り得ねぇほどぐれぐれにぐれたクソガキにケツバット数千回アタックおみまいしてやる心地ってやつか。だが決して殺しはしねぇが」
「甘いな」
「性分でな」
男の手に再び包丁が現れる。だが今度は片手だけではなく、両の手にそれは握られていた。
ふわ、と男は更にオーマとの距離を広げ、丘の中央、屍の山に取り囲まれるように降り立つ。
「ならばやってみるがいい、オーマ・シュヴァルツ。そして知れ、お前のそれが単に理想でしかないことを」
「そいつぁー、どうかな?」
二人の距離はオーマが最初にここへ昇ってきた時とほぼ同じだった。互いに一足飛びで容易に詰められる距離だが、どちらも武器を携えたまま動かない。
これが具現化したウォズならばオーマの力押しで封印もできただろう。だが今目の前で一対の包丁を構えて立っているのは紛れもなく人間の男である。肝心のウォズ本体はこの場合『器』の中に潜んでいる為、まだこの『器』をどうにかしなければオーマに勝ち目はないのだ。
だがオーマは微笑んでいた。
それは嘲りではなく、ましてや悲しみのそれでもない。ただ、そこにあったのは――――
「解放してやるよ、お前さんたちをな」
――――力強い、笑みだった。
「ほざけ!!」
男が跳ぶ。常人では視認できない速度を中のウォズが可能にしていた。
だがオーマはその場から動かない。男が近づく。眼前に刃が迫りあと少しでオーマの眉間に包丁の切っ先が食い込みかける直前、オーマの銃を携えていない片手が神速をもって振り上げられた。
その間、まさに一瞬。
「………………………………」
「………………………………」
やがて。
声もなく倒れたのは、男の方だった。
「……どんなに能力を中から強化されてたとしてもな、『器』が人間である以上どうしても弱い部分ってのはあるもんだぜ」
崩れ落ちる男の完全に意識が途切れた身体を引き上げながら、オーマは独り呟いた。
何の事はなかった、彼は単に首を叩き気絶させたのである。具現化させた銃は殺傷の為ではなく、最初から主に威嚇とこの為に用意したものだったのだ。
「ま、多少アザにゃなるだろうがそこら辺はツケといてくれや兄ちゃん。……さぁて、と」
倒れ伏した男の背中の中央。背後すら血に染まりきった服の上に、ひときわ黒く大きい染みがある。
それはオーマの視線に気付いたかのように蠢いたが、オーマはその上にバン、と大きな手のひらを置いて動きを封じた。
「この期に及んで逃げようなんざ思ってんじゃねえだろうなぁオイ?」
手のひらの下に封じられている黒い染み――ウォズが、反応するかのようにぶるりと震えた。
それがこれから起こる事への恐怖によるものか、それとも男が意識を失う前に見せたあの嘲笑なのかは判別がつかなかったが、オーマは手のひらを伝わるそれに一度だけ目を閉じると一息に握り込み、閉じられた世界の中呟く。
「……俺の中に来てみな。お前さんが理想と言ったものが確かにあるんだってことを、骨の髄にまで信じられるようにしてやるよ」
握られた屈強な拳の中を黒い塊が蠢き暴れ出すが、オーマの力は揺るがない。
放せそんなもの要らない知らない必要ない嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだきえるのは消えたくない――――!!
感覚と感情の塊が叫ぶ。
悲痛。そんな言葉が最も相応しいだろう叫びをオーマの脳へと轟かせながら、黒色の塊は吸い込まれるようにして拳の内側へと呑み込まれていく。
「なあ、誰かさんよ」
名前もないウォズへと、オーマは呟いた。
「……ここで死んでいった皆もそうでない奴も、きっと同じ事を思って死んでいったんだろうぜ」
最後に。
きつく握り締めて手を開けば、もうそこにはウォズの姿はなかった。
オーマはぐったりとした男を抱え上げながら音の戻った森の隙間からのぞく空を見上げ、その清々しい色合いに息をつく。
「やっぱり赤ばっかり見てくさってるよりは、俺ぁこっちの方がいいな。――――いい色だ」
「あれ…………?」
「よう、のんびりしたお目覚めじゃねえか」
男はきょとんとして、自分を覗き込んできた大男を見上げる。二人とも腰を下ろしているのだが相手が異様な巨躯の為に、自然と見上げるような形になってしまうのだ。
しばらくぼんやりと辺りを見回していたが、やがてかけられていた薄い布が滑り落ちて出てきた肌色に男は慌てふためく。
「あ、あの……ここは? っていうかどうして僕、す、素っ裸なんでしょうか……!!」
問いかけに、大男は人の良さそうな笑みを浮かべながら焚き火に枝をくべた。
「ここは郊外の南の森だ。お前さんは、あー……そこの道で身ぐるみ剥がされてぶっ倒れてた。それで? 他に何か質問があんなら今のうちに言っとけ」
「え、ええと、貴方は……」
おずおずと尋ねられて大男は一瞬何度も瞬きを繰り返したが、やがて「あー、そうか」とひとりごちた後に咳払いをした。
「俺の名はオーマ・シュヴァルツ。この近くの街で医者と親父道師範と腹黒同盟総帥とその他諸々兼ねてる覚えておいて損はねぇグレイトスペシャリティなただの親父だ。ちなみに家族構成は妻ひとり娘ひとり俺ひとりのトライアングル核家族」
「はぁ。あ、あの、お医者さん……って事でいいんでしょうか?」
「まぁそれも職のうちなんで間違っちゃいねぇな。そんでお前さんは何でこんなとこにぶっ倒れてたんだ?」
「その……それが僕にもさっぱり。大体僕は何で森になんかいたんでしょうかね……ああ思い出そうとしても何か霧みたいなのがかかって、うまく思い出せません」
「なら質問を変えるか、出身は?」
「ここ、郊外ってことはお城の近くですよね。だとしたらますます分かりません。だって僕はここからずっと南の方の村に生まれからこっち、ずっとそこに住んでいたんですから。……それにしても本当に、なんでこんなとこにいたのかなあ」
ひたすら首を捻り続ける男を落ち着かせるように頭に手を乗せ、オーマは腰に巻いていた飾り紐を外して男へと放った。
「ま、思い出せないんなら何かわけありなんだろうよ。それじゃあそろそろ日も傾いてきた頃だし、ずっとここにいるわけにもいかねぇな。取りあえず何か思い出すまで俺んとこで面倒見てやっからついてきな。服は――今はねぇからその布にこの紐巻いて我慢してくれよ」
「でも、見ず知らずの人にそんなにしてもらうわけには……」
「何言ってんだ、もう見ず知らずの奴じゃねえだろうが」
「はい?」
おこしていた火に土をかけ、完全に火が消えたのを確認すると、オーマは男に当然のように口元だけで笑って見せる。
「お前さんに俺の事はもう紹介しただろ? そんならこれで俺たちは知り合いってこった。大体そんななりな上にこれから行くあてもねぇんだから、いっちょ素直に甘えとけよ」
「そ、それじゃあ、……お世話になります」
「うっし。なら善は急げって奴だ、行くぜ!」
ひょい、と荷物を肩に抱え上げると、オーマは男を伴って歩き出した。
すぐにその光景は男と、そしてオーマの目の中に否応なく飛び込んでくる。
長い道の途中、何かが染み込んだような跡。
森の中にある小高い丘の上から流れてきたような、黒々とした染み。
だが男はそれを時折不思議そうに見送るだけで、それ以上の反応は何も見せはしなかった。
そして、丘の上に二人は立った。
「これは…………」
男は絶句する。丘を登りきったそこ、広場のようになっている旅人が憩うだろう場所には、幾本もの木や石が立ち並んでいた。
掘り返された地面に刺さっている木には墓標である事を示す印が描かれ、石にもまた同様のものが描かれている。一面に広がるのはただ墓標、墓標、墓標のみの光景。
夕暮れが近づき、森の枝葉をすり抜けて橙色の輝きが降りてくる。
それらは墓標をどこか悲しげに照らしあげ、男の、そしてオーマの目を打った。
だが、男の後ろにいたオーマは一度目を閉じると、いつもの表情になって足を踏み出す。
「どうした? んなとこにボサっとつっ立ってると置いてくぞ」
「オーマ、さん。これは……? この、お墓は――――」
オーマの足が、止まる。
「――――さぁな。俺ぁここを通る事はあまりないもんでな、きっと何かに襲われたかした人たちの墓なんだろうよ。ほーら、今度こそさっさと歩かねぇともれなく腹黒同盟の末席にご招待するぞ? っつーかもう同盟入り決定してんだけどな」
「えぇ?! 何ですかそれ? あ、待って下さいよ……!!」
大股で歩く自身の後ろを男がついてくるのを時折振り返って確認しながら、オーマは更にその後ろに広がる墓標をも見つめた。
――――今度、美味い酒と俺の仲間を連れてどんちゃん騒ぎしてやるよ。それがせめてもの葬式代わりだ。
丘が遠ざかる。
墓標もやがて下りにさしかかり、少しずつ、少しずつ道の向こうへと消えていった。
夕日に彩られた丘は赤の光に包まれ、静かに時を刻む。
誰もない墓標の海。
赤の丘はただ静かに死者たちを抱いて、ゆっくりと夜の眠りにつこうとしていた。
END.
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