<東京怪談ノベル(シングル)>
眠らない女王の逸話
梳き流した金髪を甘やかに波打たせ、反らせた喉を小鳩のように鳴らしたあとで、エルファリアはゆっくりと半身を起こした。
薔薇色に上気した頬を押さえ、傍らを見る。
「ねえ、レピア。あのね……」
しかしレピア・浮桜は、くるりと身体の向きを変え、鮮やかな身のこなしで王女の寝台をすべり降りた。
絨毯に点々と脱ぎ捨ててあった衣装を拾い集め、手早く身仕舞いを整える。
「レピアったら。まさかこれから黒山羊亭に踊りに行くつもりなの?」
「だって、まだ朝までには間があるし」
驚く王女を、レピアは心底不思議そうに見やった。
何故そんなわかりきったことを問うのかと、青い瞳が困惑に揺れる。
レピアが踊り子でいられるのは、夜明けまでなのだ。日が昇れば意識を失い、固く冷たい石像になってしまう。そうなる前に、ほんの少しでも踊っていたい。
僅かな時間を惜しむ親友の焦燥を、エルファリアとて解せぬではない。しかし。
(……もう少し、そばにいてくれてもいいのに)
ちらりとよぎった寂しさは、エルファリアにささやかな悪戯心を起こさせた。
枕元に置いてあった本を手に、出て行こうとするレピアを引き留める。
「待って、レピア。面白いものを見つけましたのよ」
レピアは怪訝そうに振り返る。
間髪いれず、エルファリアは本を開いた。
それは【催眠術】という、いわば軽い呪縛の法が記されている文献だった。該当頁に記されている文言を、レピアに向かって放つ。
「あなたは、私の、メイドです」
レピアはどうやら、術にかかりやすい体質であるらしい。生き生きと輝いていた瞳の焦点が、ふうっとぼやけていく。
「……はい。女王陛下。あたしは、あなたの、女騎士です」
(……あら?)
抑揚のないいらえは、期待したものと少々ずれている。
(かけ方を間違えたかしら)
慌てて本を見直したが、文言に誤りはなかった。ならば、これはどうしたことか?
「陽光に満ちた昼はあなたの王座を飾る石像となり、日が沈んだのちは、あなたを守護し奉仕する、忠実な騎士となります」
(レピアの、過去の記憶……?)
エルファリアは、そう見当をつけた。
催眠術がきっかけで発現したところを見ると、レピア自身も忘れている出来事であるようだ。
以前、誰かが――おそらくは「女王陛下」とやらが彼女に術をかけ、女騎士として拘束した時期があったのだろう。
ソーンに来る前、レピアはさまざまな国を移動していたと聞いている。レピアの美しさと踊りの素晴らしさを見込んだ君主たちが、彼女を我が物にしようとした例は枚挙にいとまがない。
紗がかった瞳を伏せ、レピアの独白が始まった。
思いがけぬ物語に、エルファリアは息を詰めて聞き入る。
意識の奥深く封印されていたそれは、ある女王が君臨する国での数年間における逸話だった。
目的があってその国へ身を寄せたわけではなかったし、まして野心があったわけでもない。
レピアはただ、踊りたかった。
踊りを披露できる場さえ提供してもらえるのなら、他に何を望むつもりもなかったのだ。
だから、女王の治世十年記念に御前での舞を所望されたときも、喜んで引き受けた。
――高く設えられた王座におわすは、二つ名を【眠らない女王】と称される尊き御方。くれぐれもそそうのないように。
女王付きの親衛隊のひとりと思われる、菫色の瞳の少女が釘をさす。
レピアは特に気にもせず、女王と目を合わせた。
女王はふっと形の良い唇をほころばせる。結い上げた漆黒の髪には緑玉が編み込まれ、煌びやかな王冠を飾るのは最上級の金剛石。幾重にも纏っている薄絹は、東の国の特産であろう。布を透かして見える白い肌が蠱惑的な、はっとするほどの美貌の持ち主である。
しかしレピアがいったん踊り始めれば、たとえ女王であろうとひとりの観客に過ぎない。豪勢な舞台や選りすぐりの楽隊も、レピアにとってはただの添え物であった。
その国が、世にも美しい女たちだけで構成されていること。
――にも関わらず、猛々しい軍事国家であること。
隣接する国々から、女王はひどく恐れられていること。
女王がひとたび『所望したい』と呟いたなら、それが物であろうと人であろうと国であろうと、あらゆる手段を駆使されて女王に従属する結果になること。
傾国の踊り子の烙印を押されて数百年経とうとも、そういったまつりごとに対して、レピアは常に無防備だった。
だから。
「おぬしが気に入った。何としても我が親衛隊に加えたいものぞ。末永くこの国に留まり、騎士としてわらわの側近く仕えるが良い」
琥珀色の瞳を満足気に細め、女王がそう云ったときも、レピアは単に賛辞と受け取った。
「ありがとう、女王さま。でもあたしは、流れものの踊り子のままでいい」
「……断ると申すか?」
「縛られるのは、性に合わないんだ」
即座に答えるなり、その場を辞するために身を翻す。
――それで済むものと、思っていたのだ。
「聞こえなんだか、レピア。わらわはおぬしが気に入ったと申しておる」
王座から立ち上がって段を下り、女王はゆっくりとレピアに歩み寄った。
瞳をひたと、真正面からレピアに合わせる。
「わらわに仕えよ。昼も、夜も」
それは、いかなる魔法であったのか。
レピアの数百年間の記憶は凍結された。
代わって新しく刷り込まれたのは、『女王の親衛隊』という偽りの記憶だった。
戦女神のような親衛隊の制服に身を包み、レピアの女王への奉仕が始まった。
陽光の下、石像となっているときは王座のすぐそばが定位置であった。家臣に命令を下すときも女王は石像のからだに手を添え、硬質な冷ややかさを愛でることを忘れなかった。
夜、石化が解けたレピアは、女王の寝室を護衛する任務につく。
護衛といっても、部屋の外で寝ずの番をすることは滅多にない。レピアの仕事の大半は、制服を脱ぎ捨てて他の親衛隊の少女たちに入り交じり、広い寝台の上、夜を徹して女王と戯れることであった。
「治世十年――わらわが咎人となって十年になるか」
何本ものしなやかな腕に愛撫され、レピアの胸に顔を埋めながら、女王は醒めた声を出す。
「……咎人?」
凍結されたはずの記憶が微かに疼き、レピアは首を傾げる。
女王は自らのことを語っているのに、それはレピアにとっても重大なことのように思えたのだ。
「即位直後のことじゃ。西に隣した国の鉱山を我が手にするべく、いくさを仕掛けたことがあった。年若い女王と侮られるまいと、わらわは必死だった。どんな策を弄しても、負けるわけにはいかなかった」
――だから、武勇に優れていた隣国の王子に眠りの毒を盛った。配下の少女を侍女として送り込んで。
「毒が効き、王子は眠り続けた。当然軍を率いることは叶わない。いくさは我が国の圧勝だった」
だが、と、女王は呟く。
「その罪は、わらわを咎人とした。王子は十年を経た今でも眠り続け――わらわはこの十年、一度たりとも眠っていない」
おそらくは未来永劫、眠らぬままにこの国を治め続けることになろう。
――のう、レピア。ひとは……。
――ひとは……。
あのあと、女王は何と云ったのだったか。
「……違う、女王さま。あたしは咎人だけど、あんたの親衛隊なんかじゃない。踊り子なんだ。あたしを踊らせてよ!」
叫んだ瞬間、催眠術は解けた。
「あたし……」
「レピア! ごめんなさい。あなたも忘れてたことなのに、ごめんなさいね」
エルファリアが本を投げ出して抱きついてくる。
レピアはようやく我に返った。
そうだった。自分はこれから黒山羊亭へ繰り出そうとしている踊り子であり、目の前にいるのは眠らぬ呪いを受けた女王ではなく、純白の姫、優しいエルファリアだ。
「もう引き留めない。踊ってきて。朝日が昇るまで」
エルファリアを抱きしめて、レピアは逡巡する。
(どうしようか……)
踊りに出かけるのを少しでもためらったのは、これが初めてだった。
――のう、レピア。
脳裏に響くのは、もう名前も覚えていない女王のささやき。
ひとはみな、咎を負って生きているものぞ。
――Fin.
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