<東京怪談ノベル(シングル)>
「譲れるものと譲れないもの」
その日の診療時間終了間際に、1人の『患者』がオーマの病院へと訪れた。
オーマの経営するシュヴァルツ総合病院ではカウンセリングも医者の立派な『仕事』という訳で行う。院長であるオーマは深刻なそれから茶飲み話に近いものまで診療として看てやる事も多かった。
だがその日に来た患者はオーマにとって意外なものであり、またある意味ありえないものでもあった。
風体はそう変わったものではない。長めの黒髪を首の後ろで1つに束ねた青年だ。だが彼はオーマの僅かに細められた双眸を気にする事なく診療室の椅子に座り、普通の患者達がそうする様に心の内を訴えた。
そして沈黙の内に傾聴するオーマへ、最後にこう尋ねたのだ。
「貴方は力が欲しいと思った事はありますか?」
オーマは沈黙した。その双眸にあった光が医師のそれよりも鋭さを増す。
「私にはあります。今、この時がそうです」
眼鏡のレンズを超えて自分を貫く光を、青年は怖じる気配もなく受け止めた。
それは覚悟の眼差しだった。
「何にも代え難いと思うものを、私は取り戻す事ができないのです。私に力が足りないばかりに」
青年の身にまとう気配が、墨に浸した半紙の様に塗り変わっていく。今や隠そうともしないその気配は、最初にオーマの双眸を細めさせた原因でもあった。
「オーマ・シュヴァルツ。ヴァンサーとしての貴方に仕事の依頼をしたい。……代償は、私自身の封印を」
ウォズの青年はそう言うと、泣き笑いの様な表情を浮かべた。
*
闇夜を黒髪の男が走る。音もなく地面を蹴り、長身は月明かりに一瞬だけ影を残して行く。
赤い瞳は険しく前を見据え、その心の中では今走っている原因の会話を思い出していた。
『ウォズとしての私をあの人は受け入れてくれました。そして私達はコンビを組んで冒険者となりました。その時に私は約束したのです』
晴れやかな、誇らしげな表情だった。己に誓うもののある表情。
『殺さない、と』
本当に仲間を大切に思っているのだと判る表情だった。
『けれど今、私はパートナーを同族に攫われてしまいました。攫った犯人は私よりも高位のウォズで、周囲の傭兵達はともかくそいつを退けて助けるのは不可能なのです』
『それで、俺に依頼か』
助けて下さい――血を吐く様な声と下げられた頭に、オーマは静かな声を降らせた。
『おまえはそれでいいのか? 俺がヴァンサーと知ってて俺の眼の前に来て、自分が封印されて、旅できなくなってもそいつ助けてぇのかよ』
青年は顔を上げた。
『ええ。私のパートナーですから』
上げられた顔は泣いているかと思われたが、意外にも穏やかで、オーマは少しの驚きをもって見つめた。
『悔いはありません。心も、残してはいません。あの人が生きられれば、それでいい』
守りたい者のある存在だけが持ちえるそれに、オーマは後ろ頭をぼりぼりとかいて、溜息をついた。
(まいったな、こりゃ)
前代未聞の依頼を前に、オーマは自身の気質が既に結論を出している事に気づいていた。こんな顔をされて、こんな風に言われて、どうして弾く事ができようか。
もう一度深い溜息をついて、オーマの表情が引き締まる。
『判った、その依頼引き受けよう。ただし条件がある』
びしりと人差し指を突きつけ、オーマの口許がにやりと歪んだ。
『1つ、おまえの封印云々はなしだ。2つ、おまえも一緒に助けに行け』
『え……』
青年の瞳が見開かれる。
その驚きの顔の鼻先に人差し指を突きつけたまま、オーマは一息に言い切った。
『そこまで覚悟できてんなら、諦めてんじゃねぇよ。なりふり構わずやってみろよ。自分のプライドに殺さねぇって誓ったなら、その限界ギリギリまで力搾り出して貫けよ』
攫われた事実を嘆く暇があったら、自分自身を代償にとまで思い詰めるなら、それ以前にまず前を見ろと。
仲間と生きられない恐怖を乗り越えられる位なら、死も封印も恐れないなら。
『できんだろ、なぁ?』
他に何を恐れる必要があろうか。
「――そこです」
青年からかかった声に、オーマは意識を引き戻した。
「前方に見える遺跡、その尖塔の最上階に」
「お目当てのウォズがいるってか。で、おまえの仲間はどこにいんだよ」
少し送れて走る青年を振り返って問うと、彼は苦さと悔しさをない交ぜにした表情で答えた。
「他のどこにも見つからなかったのでおそらく尖塔内だとは思うんですが、立ち入ると相手に気づかれるので……」
「成程ねえ。んじゃ、おまえ誰か締め上げて仲間の居所聞き出してから塔ん中入って助けてこいや」
「ええ!?」
立ち入ると気づかれる、という今の言葉を聞いていなかったのかと思わず隣に来た青年が見たのは、夜目にも判る豪快な親父笑いだった。
「本命は俺が片付ける。できる限りの露払いもしてやっから、お前は一直線に行っちまえ!」
崩れかけた石造りのアーチが迫る。
遺跡の入り口に入った瞬間、だん、と強い踏みこみの音を青年は聞いた。同時にオーマの背が急速に遠ざかり、明かりのない建物群へ消える。
そのあまりのスピードに一瞬足を止めた青年だったが、すぐさまオーマの指示通り尖塔目がけて走り出した。
言われた言葉の数々を噛み締める様に、食いしばった歯が口の中でぎりりと音を立てていた。
(10……1、いや2か)
こりゃあ向こうとほぼ半分かねえ、とオーマはところどころ崩れた建物を縫って走りながら取り巻く気配を数えていた。
相手にするには正直どうという数ではないが、露払いをしてやると言った手前、もう少しこちらにいてくれると良かったんだがなとも思う。
と――突然視界が明るくなった。
見上げれば明らかに新しく設えられた松明が、明るく燃え盛り火の粉を散らしている。
足を止めたオーマはにやりと笑みを浮かべた。今や隠そうともしていない傭兵達の気配が肌に痺れる様だ。
そして足下へと不意に突き立った数本の矢を合図に、陰影際立つ遺跡での戦闘の幕が切って落とされた。
連続して降り注ぐ矢の雨を避け、神速の動きでオーマが再び走り出す。照明ができた事であらわになったオーマの素足を包むのは何と鉄下駄だった。
踏みしめる地面は今まで走って来た所よりも格段に走りやすい。それは普段からここを通路として使っている何者かがいる事の証明でもあった。
先にあるのは半ばほどから崩れた壁。オーマの長身が着流しの裾をひるがえしてその壁を回りこむ。灯された松明の明かりも壁の向こう側には届かず、道の先は真の闇に包まれていた。
数秒遅れて、複数の足音がガチャガチャという音と共に壁を回りこむ。
その眼前へ、不意にきらびやかな布が舞った。
ド派手という言葉すらおこがましいほどの色使いをした布が何の脈絡もなく宙を舞うという光景に、追ってきた足音の持ち主――傭兵達が揃って虚を突かれる。
一瞬のそれがオーマを追ってきた彼らの命運を決した。
先頭の1人目が何の前触れもなく横っ飛びに吹っ飛んだ。そうさせた原因である所の鉄下駄を履いた素足は、長さを誇示するかの様に柳のしなやかさで続く2人目の顎を蹴り飛ばす。
驚いて得物を構えようとした3人目は鳩尾への膝蹴りで崩れ落ち、4人目と5人目は得物を構える事に成功はしたが、目標の姿へ眼を奪われている内に横っ腹への肘打ちと顎への掌底を受けて地面へと叩きつけられた。
それでも打撃の浅かった最後の1人が、呻きながらも身をよじって自分を叩きのめした相手を見上げる。
そこには常識を超えた長身の男が、ステテコ一丁という姿で宙に舞っていた布を左手で受け止めていた。
手首を閃かせた右手へ現れたのは具現化した銃。
闇の中に、鋭く銃声が鳴り響いた。
再び着流しを身にまとったオーマが、今度は明かりの中をわざと真っ直ぐ突っ切って行く。文字通りの囮として走りつつ、正確無比な銃撃を片っ端から浴びせかけて目指すのはかの尖塔。
その勢いにある者は並走した直後に倒れ、ある者は遠くから弓で狙おうとした瞬間、逆に撃たれた。
壁に隠れて斬りつけようとした者などは、その盾とした壁を人間離れした動きで走り渡られて蹴り飛ばされた。
そうして上へ上へと跳躍している時、オーマは尖塔の異変を感じ取った。
大きな気配が脈動している。
「入ったか……俺も遊んでらんねぇな」
青年が侵入に成功した以上、自分のやる事は後1つ。オーマは一際勢いをつけて跳躍すると、既に眼前へと迫った尖塔のガラス窓を渾身の後ろ回し蹴りで割り砕いた。
壁ごと室内へ吹っ飛んだガラスの残骸と共に、オーマは傷1つなく床へと着地する。
室内にいたのはただ1人。その気配が、雰囲気が、オーマに『そう』だと教えていた。
「貴様――!」
「悪ぃが封印させてもらうぜ」
即座に具現化された銃の黒い銃身が、その銃口を揺らぐ事なく眼前のウォズへと向ける。
階下の振動と喧騒を遠く聞きながら、オーマは静かに引き金を引いた。
「よぉ、大丈夫だったかー? ……っと」
行きがけならぬ帰りの駄賃とばかりに階段を降りながら傭兵達を黙らせ、オーマが1階の大広間にたどり着くと、そこには2つの人影が固い抱擁を交わしていた。
この場に言葉を差し挟むのは無粋というものだろう。
種も存在も超えた結びつきの光景に、オーマは沈黙し、ただ静かに微笑んで壁に身を預けた。
<終わり>
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