<東京怪談ノベル(シングル)>


月詠の来訪者

 月光が満つる――
 ひそやかに翅翼を広げる蒼白い翳は、水面に揺れる漣の如くかそけき律を紡ぎ、悠久なる夜の静謐へと流れ込む。玲瓏と。どこまでも蒼く透明な海嘯は開け放たれた窓を通り抜け、小さな部屋を冷たく濡らした。
 穏やかに護岸を洗う静かな波をただひとつの旋律に、銀色の翳はゆるやかに月光が織り上げた夜の水底を揺蕩う。あるかなしかの流れにその身を任せ次元を越える招かれざる旅人は茫洋の汐に姿を映す真円の扉をくぐりぬけ、聖なる獣がもたらす泰平に午睡むソーンの大気に溶け落ちた。

 “それ”は、狩人たちに“ウォズ”と呼ばれていた。――希に“凶獣”という名が使われることもあったが…。
 遥かな時代。具現能力と呼ばれる“力”が現われた時、共に生れ落ちたと伝えられている。呼び名のとおり、“無”から“有”を生み出すモノだと思われるが……正確なところは明らかになっていない。――“思念”や“魂”そのものだと言う者もいるが、“形なきもの”である以上、それを確かめるのは不可能だろう。

 判っているのは、唯一つ。
 それが、人にとって善からぬモノだという事実。

■□

 穏やかな湾に面した港町は、変わりない日常の中にあった。
 大潮に誘われて深海より浮上した“竜宮の鳥”が網にかかるかもしれない、と。港は常より活気があるようにさえ思われて……。
 賑やかな中央広場より通りひとつに奥に入ったオーマ・シュヴァルツの薬草店武器屋にも、賑わいは海よりの風と共に届けられていた。
「……ったく、いつまで寝てるんだろうね、この人は!」
 妻の小言に叩き起こされ、不承不承、寝床から置き出したオーマは二日酔いにずきずき痛むこめかみを指先でもみながら台所の鴨居をくぐる。
 2mを越える長身に迫力満点の容貌を誇るオーマにも、苦手とするものがふたつばかりあった。ひとつは、台所で朝食のサラダ菜を刻みながら夫の深酒を嘆く妻であり。もうひとつは、二日酔いの父親の為に冷たい水を満たしたコップをテーブルへと運んできた娘である。
「漁師の中には夜明け前から船を出す連中もいるっていうのに……」
 コップを差し出した娘の頭をくしゃりと撫でて。オーマは神妙な顔つきで妻の小言に頭を垂れた。――言葉を返せば、荒れ狂う一方で……なるたけ頭を低く、嵐が通り過ぎるのを待つしかない。
 経験と学習の結果と言えば聞こえはいいが、早い話が“尻に敷かれている”のである。口まぁ、何かと口うるさいが良き理解者であり、かけがえのない家族。そして、いざという時には、頼りになる相棒でもあった。
 聞いているのか、いないのか。相変わらずのしまりのない表情でしどけなく水の入った器を舐めるオーマに、苛立たしげに何か言いかけた細君の声を遮ったのは店の扉に取り付けたベルだった。
 来客とは珍しい。薬草や武器が雑多に並ぶ小さな店を訪れるのは、そのほとんどが冒険者と呼ばれる種類の人間……そして、オーマ同様、ヴァンサーと呼ばれるウォズの狩人たちである。――尤も、“ウォズ殺し”に撥ね返る代償−という名の呪い−を恐れ、実際に彼ら狩る者は皆無に近いのだけれども。
「いらっしゃいま……せ…。あら……」
 馴染みの顔であったの。客あしらいに出迎えた細君の声が僅かに翳り、オーマもそちらに視線を向ける。
 朝の明るい光を背後に分厚い木製の扉を押して薄暗い店内に入ってきたのは、馴染みの薬師であった。どこか見栄えの悪い猫背の男は、細君に軽く挨拶し背負った背嚢をカウンターの上に置く。
「港に“竜宮の鳥”が上がったそうだよ。……しばらくは、忙しくなりそうだ…」
 大潮の翌日に人の前に姿を現す異形の魚は、呪いや怪しげな薬の材料になることで知られていた。
「あら、いやだ。うちは商売上がったりじゃないの」
 大袈裟に肩を竦めて笑った細君に、猫背の男はつられたようにニヤリと捩れた口元をゆがめる。そして、思い出したように、テーブルに肘を付いて水をすするオーマに視線を向けた。
「そうそう。港湾街の衛士があんたを探していたよ。――少しばかりやっかいな事件が起ったらしい」
「………事件…?」
 僅かに顎を引いたソーマの隣で、細君は盛大に顔を顰める。

■□

 小さな部屋は、死臭が染み付いていた。
 床、壁、天井。いたるとこにべったりと塗りたくられたどす黒い染みが血の痕ならば、流した者はおそらくこの世にはいないだろう。
 少し金臭い独特の匂いに鼻を鳴らしたオーマに気付いて、衛士は顎をしゃくって彼を中へと呼びいれた。
「――どう思うね?」
「どう思うと言われてもなあ……」
 部屋を見回しオーマは、手持ち無沙汰に持ち上げた手でバリバリと頭髪をかき回す。
「酷いもんだ」
「ああ、まったく」
 腕組みをしたまま平然と首を縦に振る壮年の男の様子にただならぬ雰囲気を感じ取り、オーマは改めて室内を見回した。そして、小さく首をかしげる。
「でぇ、被害者は何処だ?」
「さあなぁ」
 これまた気の抜けた応えを返し、衛士は見てのとおり、と。軽く肩をゆすって部屋を示した。
 凄惨な痕跡は、そのままに。綺麗さっぱり、忽然と――
 肝心のものが見当たらない。
「汚れているのは室内だけだ。――これだけの血をぶち撒いているというのにな…」
「この部屋の住人は?」
「目下のところ、行方不明だ」
 若い娘が、住んでいたのだという。
 目抜き通りに面した大きな洋装店のお針子で、開店時間になっても店に現れないのを心配した同僚が部屋を訪ね、この惨状に腰を抜かしたらしい。
「そりゃ気の毒に……」
 三日はまともに食事ができないだろう。誠意のない同情を口にして床に片膝をついたオーマにちらりと笑い、衛士はそれにしてもと視線を戻した。
「間違いなく人の血かね?」
 指先にほんの少し付着した朱を、ぺろりと舐める。
少し粘りのある乾きかけた赤黒い液体は、まぎれもなく人間のもので。――尋ねた方も、疑っているわけではなく、ほんの確認程度といったところか。
 頷いたオーマを横目に、男は壁にかかった小さな姿見に映った部屋の景色に、その灰色の双眸をわずかに細めた。そして、ゆっくりと訊ねる。
「……これは、アンタの敵かい?」
「かもしれない」
 調べてみなければ判らない。
 そう答えたが、間違いないと確信する自分がいた。――この部屋に入った、瞬間。部屋に立ち込める死臭に触れたその時から。
 鍛え上げられたオーマの五感と経験は、微かに残された敵の気配を感じとっていた。これだと提示することはできなかったけれども。
 そもそも、形のないものだから。
 必要に応じ、いかようにも転化し、変化する‥‥。
「ちと厄介なことになりそうだ」
 ぽつりと呟いたオーマに、衛兵は怪訝そうに顎をひいた。その問いたげな視線に歴戦の狩人はよっこらしょと腰をあげ、今一度、朱に染まった部屋を眺める。
 狩人が“彼ら”の存在を知るように。“彼ら”もまた、己の存在を否定する者を知っていた。
 知恵があれば、当然、用心深くなる。
 時空の歪みを見つけ出し異界へと渉る力を秘めたの大物ならば、悟られぬよう気配を隠し、闇に潜んで立ち回ることを身上とするはずだ。
 だが。
 なんの力を持たぬ者の目にも、はっきりと異変を知らしめる。――何の警戒もしていないかと思われるほど、無造作に己の痕跡をその場に残して。
 こんな真似ができるのは、真に愚かであるか。あるいは、狩人を恐れぬほど強大であるか…の、どちらかだ。
 そして、狩人としてのオーマの勘は、後者であると告げていた。

■□

 澹い水面に月光が踊る。
 埠頭を洗う穏やかな漣が繰り返す単調な旋律と心地よい酩酊にその身を預けふらふら夜の港を歩いていた男は、固い石畳に零れ落ちる蒼い光にふと足を止めた。
 ごしごしと両手で顔を擦った男の前で、降り注ぐ月光はいっそう明るく。蒼く透きとおった光は、酔った男の前でゆらりと凝り集まって……。
「………なんだ……」
 狂気のような光の中でおぼろげに形を成した“死神”は状況すら飲み込めず確かめようと顔を近づけた男に、冷たく無慈悲な食指を伸ばした。
 刹那――
 路地の隅に蹲った闇の中から姿を現した漆黒の影が、男を絡めようとした狂獣に飛び掛る。
「うわああぁぁ!」
 突然、現われた黒い狼に腰を抜かした酔客を手放し蒼い月光をまとう異界の魔物は、ゆるゆると流れ暗がりに潜む敵に目をむけた。
 さぁ…と。足元に流れた蒼い光を踏みつけるようにして、オーマはようやく姿を現した獣の前に立つ。
「見つけたぜ」
 ひとこと、ひとこと。言い聞かせるように発せられたオーマの声に、ゆらめく光はふわりと漂う。
 その姿は、現われた男に戸惑っているようにも。あるいは、己に挑戦しようする無謀な敵の力を嗤っているようにも思われた。
「……これ以上、お前の好き勝手はさせねぇ」
 召喚主の言葉に呼応し、黒い狼も背中の毛を逆立てて低い唸りを発する。じりじりと互いを測る息詰まるような緊張が、夜の琴線を激しく震わせた。

 強い。

 漠然とそれを感じる。
 通常、人の姿をとらない“それ”は小物だとされていた。だが、今、オーマの目の前にいるそれは……。


■□

「……逃げられたって言うの?」
 呆れた、と。細君の非難めいた視線に苦笑く笑い、オーマはどんと勢いよく食卓に置かれた暖かいカップに手を伸ばす。
「逃げられたというか……」
 逃げてきたというか。広い肩を申し訳程度に竦めたオーマに、細君はやれやれと首を振った。
「もっと悪いじゃないの!」
「そうは言ってもなぁ」
 恐ろしく手ごわい相手だった。
 オーマの力をもってしても獲物と狙われた男を守って逃げるのがやっと。――無理に戦っても勝ち目はない。
 そう思ったからこそ退いたのだ。無論、細君も理解している。彼女とて、狩人であるのだから。口ではなんと言っていてもオーマの生還を1番喜んでいるのは、他ならぬ彼女であった。
 だからこそ、言葉尻もきつくなる。
「それで、どうするのよ?」
「そうだなぁ」
 放っておくわけにもいかない。
 狩人の存在を知られた以上、凶獣も動き方を変えるだろう。――あるいは、いっそう誇示するかのように振舞うか。
 いずれにしても、賑やかになりそうだ。
 喉を通って胃の腑にしみる温かさを実感しながら、オーマはやれやれと吐息を落とす。