<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


An infernal dish

 誰かに首を締められている。
 それは、妻の顔だったり王女の顔だったり、…遥か過去に出会った女の顔だったり。
 入れ替わり立ち替わり、首を締め続け…

「――ぶはっっ」

 跳ね起きた時、顔に掛かっていたらしい一枚の紙が、自分の息に飛ばされて宙を舞っていた。
 ひらひら、と重力に囚われて降りてくるのを手を伸ばして受け止め、そして読み上げる。
「ああん?『ソーンラブラブ胸キュンカカア天下夫婦タッグ☆伝説のブラッドバトル料理大会〜下僕主夫のハートは一億マッスル☆』――なんだこりゃ」
 オーマが首を押えながら目をぱちくりさせるのも無理は無い。
 こんなタイトルを付けるのも、無駄に豪華な文字で紙面を飾るのも、身内からして見れば紙を持った男――オーマ・シュヴァルツ以外の誰が主催するのか、と思うだろう。オーマ自身もそう思っていたりするし。
「しかも何でこんな紙が俺様の顔の上に…」
 お陰で録でもねぇ夢見ちまったじゃねえか。
 首を擦り擦り、胡散臭さ満載の料理大会チラシを見…聖獣も驚く豪華商品って何だ?とほんのちょっぴり心惹かれるものがありながらも、いらねえいらねえ、とベッドの上に投げ出して再びごそごそとベッドの中へ潜り込もうとした時、
「いつまで寝てるつもりなんだい?もう病院開ける時間だろ?」
 がんがんがんがん、とけたたましい音と共に、オーマの妻、シェラ・シュヴァルツが現れた。
「夢見が悪かったんだよ…もう少し寝かせてくれ」
 のそりと首だけ伸ばして見たオーマの顔が、思い切り引きつる。
 ぱりッと糊のきいた真っ白なひらひらエプロン。手にはおたまとフライパン。
 とてつもなく嫌な予感は、直後妻の口から漏れ出でた言葉によって裏打ちされた。
「今日はあたしが特製の朝ごはんを作ってあげたんだから。…何だか皆腹具合が良く無いらしくてね、鍋いっぱい余ってるんだよ。あんたは食べるよねぇもちろん?」
「お、――おう…」
 どう言う訳かこのところ料理に凝り始めたシェラ。今日も今朝からはりきって鍋いっぱいの料理を作ったらしい。
 思わず青ざめたオーマの鼻に、シェラから…いや、部屋の外から漂ってくるこの世の物とは思えない匂いがようやく届いた。
「…?何だいその紙は」
「あ、い、いや、何でもねぇよ。何でも」
 がさがさっと隠したその様子が気に入らなかったらしく、シェラのこめかみがぴくりと動く。
「ほぉぉぉう?あたしに隠し事とはいい度胸じゃないか」
 手に下げたおたまから、殺気が漏れ始め…それを野生動物の如く敏感に感じ取ったオーマがすかさず差し出した。
「いやほらこのところ疲れ続きだろ?だからこぉんな訳のわからねえ大会なんぞ教えなくてもいいかとか思ったりなんかして……って奥さん?」
 チラシを隠しても、また見せても怒られるかと顔を見ずに言い訳を捲し立てていたオーマが、静かになったシェラへ顔を上げる。と。
「料理大会、面白そうじゃないか。これはあれだね、あたしのこの所上がった料理の腕を試せっていう天からの啓示だね?」
 既にやる気になっていたらしい。きらきらと目を輝かせるシェラが、呆然とベッドの上に正座しているオーマに笑いかける。
「――さあそうと決まれば特訓だよ。まずはあの鍋を片付けてもらおうかね」
 …その笑みは、地獄の笑みよりも更に深く、オーマを絶望へと突き落とした。

*****

「何だ、大会って言ってもほとんど集まっていないじゃないか」
「…カカア天下夫婦タッグとかブラッドバトルとか書いてるからじゃねえのか?」
「つまらないねぇ、そんなこけおどしの文句にびびるようじゃ」
 こけおどしかどうかはともかく。
 天使の広場にいつの間にか設営されていた大会会場には、参加者は数組しかなかったものの、噂を聞いた見学者たちがぞろぞろと詰め掛けていた。そして会場の主催者兼審査員席には、黒服、黒マントに黒ずきんをすっぽりと被った誰かが何人も座っている。
「あら、オーマも参加してますの?」
「おう…って王女さんっ!?お前さんこんなトコに来て大丈夫なのか?」
 今日は変装もしていないが、完全な正装でも無く、略式のドレスに宝飾品と言った出で立ちのエルファリアがにこりとオーマへ笑いかける。
「今日は視察も兼ねてますのよ。ほら、あちらに連れの者が見えるでしょう?」
 そう言って目で知らせた先には、数人の近衛兵とメイド、それにやたらと豪華な椅子が見える。
「この街でお料理大会なんて素敵じゃありませんこと?オーマたちの活躍、期待していますわね」
 にっこりと無邪気に笑い掛けて来る王女も、料理以外の怪しげな言葉の事は気にしていないようだった。
「…ふぅん。随分とまあ…」
「な、何だよ」
 突然背中から聞こえるシェラの声に、びくんっと跳ね上がる大男。
「いいや?別に何も。――さあ、そろそろ開始らしいね。あたしたちも行こうか」
「お、おう」
 恐らく城から持ち出して来たのだろう、椅子にちょこんと腰掛けた王女を横目で見ながら、引きずられるようにして連れて行かれるオーマ。
 …見れば、周りに参加している者はほとんどがそれと同じ状態だった。これまた貧相な親父がオーマと目を見合わせて、同士とでも言うように情けない顔で同情のサインを送る。
 ……おぉぅ、同士。
 声に出さずともその意気は伝わってきた。オーマもこく、と何度も頷き、同じような境遇の旦那連中1人1人と目を合わせ――最後の一組の夫と目を合わせた瞬間、双方が身構え…同時に緊張を解いた。
「何でウォズが出てんだ。しかも夫婦って事は雌雄の別があるのか、あいつら」
 その上で雄が尻に敷かれてるんじゃ…他人事ながら激しく同情してしまうオーマ。
「ああ?何か言ったかい?それよりそこの野菜取っとくれよ」
「おうっ、――ってお前鎌で切ってんのか!?」
「あ?何か変かい?いつもこれで料理してるんだけどねぇ」
 調理風景は見たことが無かったが、まさかこの大鎌で切って居たとは。
 スパパパパパッ。
 おお〜〜〜〜〜〜〜。
 ザクザクザクザクッッ!
 おぉぉぉぉ〜〜〜〜〜〜〜っっ。
 最早大道芸の域に達している、鎌さばき。包丁でもこうは行くまい、というほど見事に分解されていく野菜や肉や果物――って果物!?
「ちょっと待て、待ってくれ、何で果物が鍋の中に入ってるんだ!?しかも種ごと!」
「あたしも負けやしないよ!」と言う他の奥様たちが野菜を宙に放り投げ、包丁をぶん回しているのをわき目に、オーマがシェラへと問い掛ける。
「ああ、そりゃ今日は何と言っても大会だからね。それに――まあいいさ。文句言うならほら邪魔どいたどいた。あんたは試食の時だけ飛んでくりゃいいんだから」
 ジャムの材料にもなる甘味の強い果物を次々大鍋に放り込み、器用に花の形に切込みを入れた人参をオーマの鼻先へぶらぶらさせながら、シェラがしっしっと手で追い払う。
「わはは、見ろよあの親父追い払われてやがる」
「でけー図体して情けねえな、ああはなりたくないもんだ」
 ギロッ!
 追い払われたオーマが睨みを利かせ、ずん、ずん、と笑い声を上げた若者たちへと近づいて行く。
「――なあ」
「な、なんだよ。図体でかくたって負けやしねぇぞ」
「身体の大きさ小ささは関係ねえよ。あれは男女の機微ってやつでな――それはどうでもいいから腹黒同盟に入らねえか?なんと王室公認だぞ公認。今ならもれなく奥さんの手料理付けてやるから。おぉっ、何と言う豪華景品!」
「さっき果物放り込んでたじゃねえかよ!?あんなの食えってのか、俺はやだぞ、死ぬ死ぬ!」
「……その手料理を毎日毎日毎日食わされてた俺様はちゃあぁぁんと生きてるぜ?」
 ずい。
「う、うああぁぁお母ちゃぁぁぁん!!」
 笑顔で詰め寄られたオーマに、何故だか急に幼児化してしまった若者。その隣にいた友人らしき男たちにも、
「料理はともかくとしてお前さんたち入らねえか?楽しい事は保障するぞ」
 にっこりと笑顔を浮かべながら、シェラに隠れてこそこそと増刷していた腹黒同盟参加パンフレットを、次々に配り出した。
「お前さんもお前さんも…って、王女さんか」
「楽しそうですわね。私も『かかあでんか』と言うものに憧れてしまいそうです」
「亭主関白は良くねえが、カカア天下も推奨はしねえぜ…」
 やはり分かってないらしいエルファリアに、苦笑いを浮かべるオーマ。
 その膝の上の特等席で丸くなっている黒猫が、そろそろ漂い始めた匂いにいち早く気付いたのか、鼻先を身体に押し付けて目を閉じた。
「オーマ!試食!」
「はいっ今すぐっ」
 背中に突き刺さる、シェラの声に脊髄反射的に声を上げ、
「悪ぃな。今日はあんまり話できそうにねえや」
「ふふ、お気になさらずに。夫婦の大会ですもの」
 ビロードのような艶のある毛並みをゆっくりと撫でながら、王女は笑って目を細めた。
 ――試食は味がとても濃いと言うだけしか、頭では理解できず。
 痺れた口を拭いながら見れば、周りの旦那連中も、多かれ少なかれ悶絶していた。…ウォズの夫も。

 どうやら、嫌な意味で互角の腕を持つ者ばかりのようだった。

*****

 むぉぉぉん。
 むあぁぁん。
 …なんとも言いようのない、異様な雰囲気が会場を包んでいる。
 せっせと皿に盛り付けている、参加者たちの料理の数々。――それらは、ほとんどが既に原型も無く、匂いも何がどうおかしいのかよく分からないが妙な気持ちになり、湯気までが飛び回る死霊の如く怪しい渦を巻いている。
「こんなものかね」
 シェラがたっぷりと作った大鍋から適量?取り分けた深皿の中の料理は何故か分からないが蠢いてるし。
 揚げた筈の魚の目がシェラの命令に従って動くオーマを追っているのは無視の方向で。
 唯一、生野菜のサラダは食べられそうだった…数分前までは。今は正体の判らない血の色をしたドレッシングがどろりとかけられており…何だか、甘い香りがするのがちょっぴり顔を背けたい気分だった。
「ふっ、ヴァンサー如きには負けはしないわ!」
「何言ってるのかねぇ、あたしの料理の腕を見て驚くんじゃないよ?」
 どろでろの料理を前に、張り合う2人。調理中にもこの2人の間で甲高い金属音が時折響いていたのを思い出せば、バトルは調理のみでは無かったらしい。
 おろおろと火花を散らす2人の前に立つウォズの夫へ、ぽむっ、とオーマが手を置いた。
「…お前さん、夫婦になってどのくらいだ?」
「あ…ま、まだ2ヶ月くらい…」
「なんだ、新婚ほやほやじゃねえか。だったら分からねぇかもな。こういう時は、下手に仲裁するとえらい事になるぜ。当たり前だが、俺たちは大切な側の味方になるだろ?そんな状態で丸く収められると思うか?」
 ふるふる、と首を横に振る夫に、にっ、と笑いかけ。
「ま、すこーし発散すりゃ大人しくなるだろ。下手な動きをするようならその時こそ止めてやりゃあいい」
「は、はいっ」
 まるで人生の先輩を見るような目つきで、見つめられ。それも悪い気はしないオーマ。
「あんた!」
「オーマ!」
「「――はいっっ!!」」
 …情けない事では、同レベルであっただろうけど。
 シェラにこれまた命令され、料理の皿を審査席へと運ぶオーマ。他の旦那たちも同じように主催者の元へ料理を運んで行く。…その眉が、ん?と寄せられた。
 主催者とその両脇に並ぶ審査員たち。その中心を占めているのは…。
「お前らもウォズじゃねえか」
 一般人はたった1人しかおらず、残りの数人は、主催者も含め皆ウォズだった。どうやらあの夫婦だけでは無かったらしい。
「ふふふ、流石にヴァンサーですね。…いや、今日は貴方たちと戦う気などありません。純粋に大会を開きたいと思ったのですよ」
 料理が届いたのを見て頭巾を取った姿を見れば、ごく普通の人間に見える。それと同時に、近寄らなければ気付かなかった理由も分かった。何が作用しているのか分からないが、その頭巾を被ると気配が多少薄れてしまうらしい。
 頭巾を取った事でシェラも気付いたらしく、妙な顔でじっと主催者側を見詰めていた。
「さあさあ持って来てください、最高の料理を」
 …得体の知れない料理と言うのは見た目でも分かる。のだが…。
 どう見ても、審査員全員が嬉しそうな表情をしているのが腑に落ちなかった。

 そして、審査員による試食が開始され。

「ああっ、この危険そうな塊を飲み込む瞬間が何とも…」
「うぅぅむ、胃の府が溶けそうなこの深い味わい…」
「このスープは後回しにした方が良さそうですね、いい感じに舌が痺れるのは良いのですが他の料理をじっくり味わえない」
「むうっ。この肉詰めには幻覚キノコが含まれてますぞ!何たる至福!」
 ――聞く者が聞けば、引いてしまうような言葉を賛美へと昇華させている審査員たち。
 しかも本心からと言うのは、その極上の味わいを噛み締めているようなうっとりとした表情を見れば一目瞭然。
 あまりにも美味そうなのを見て、見学者の中からもちらほらと各自の料理をほんの少しだけ味あわせてもらっているらしく、直後に悶絶している姿がごろごろと転がっている。
 まさに死屍累々。
「こりゃ…今日からしばらく病院は大繁盛そうだな」
 気付け薬と胃腸薬を大量に作っておかなければとオーマが考えている間にも審査は滞りなく進んでいく。

「――うむ。どれも素晴らしい出来だった」
 つい、と上品にナプキンで口を拭った主催者が、見事に空になった料理を名残惜しそうに眺めながら、ふぅと息を付く。
 そして、ざわざわと顔を寄せ合って優勝者が誰か、談義し始めた。…その脇には、小さいながらもしっかりした作りの木箱がいつの間にか用意されている。
「コレほどの料理を作れる者がここまでいた事に感激しています。今後も各自料理の腕を磨いて下さい。…では優勝者の発表と商品の授与を行います」
 タララララララララ…
 どこからともなくドラムロールが鳴り響き。
 ジャーン!
 何も無い所から響いたシンバルの音の余韻が鳴り止まぬ前に、
「シェラ・シュヴァルツ――とオーマの夫妻に決定しました!」
「きゃあっ、やったよオーマ!」
 むぎゅう。
 直ぐ隣にいたシェラがオーマに鎌ごと抱きつき、柔らかいものと固いもののダブル攻撃でオーマを締め付ける。
「それでは商品の授与を――こちらが今回の品。ドラゴンの皮膚も軽々と引き裂き、しかも切った野菜がくっ付く事のない穴あき包丁と、生物をいくら切っても食中毒になる事が無い超抗菌まな板をセットで差し上げます!」
 おぉぉおぉぉっ。
 どよどよっと周囲がざわめく。どうやら…料理をする者に取っては、理想とも言える品だった、らしい。
「ま、まあ…エルザードじゃ普通手に入らねえよな…」
 嬉しそうに、木箱に納められた見るからに切れ味の良さそうな包丁と、大きめのまな板を嬉しそうに受け取ったシェラが、オーマへにこりと笑いかける。
「これからはたまにこの包丁で料理を作らせてもらうよ」
 …鎌での調理はまだ続くらしい。
「それから貴方たち。まだまだ彼女には遠く及びませんよ。毒一歩手前のあの見極めをしてこそ、今回の見事な料理となるのですから」
「は、はいっ。精進します」
「……コレイジョウレベルアップスルノ…?」
 審査員と知り合いだったらしいウォズの女性が頬を紅潮させて宣言する隣で、魂の抜けた顔をしている夫が哀れだった。

*****

「なあ…いい加減、帰らねえか?」
「何言ってんだい。まだまだ料理はたっぷり残ってるんだからね。皆に振舞うにしてももう少し減らさないと…」
 半泣きで大鍋の料理を掻き込んでいるオーマが、自分用にも大量の胃薬を用意しなければと、暮れ掛けた広場で思う。
「シェラさん」
「…何の用だい?今日はいい物貰っちまったから見逃すけど、悪さしようとか、これから戦おうってんなら、相手になるよ?」
「いえいえいえとんでもない」
 主催者が、そこに立っており、シェラが手に持った鎌で威嚇するのを慌てて手を振って止める。
「私には戦う能力などありはしませんよ。それより、お願いがあるのですが」
 ちらちらと鍋へ向ける熱い眼差しを見れば、望みのものは直ぐ分かる。
「非常に残念だが、そりゃ駄目だ」
 ――主催者が更に言葉を続ける前に、シェラではなくオーマがスプーンを向ける。
「大会はもう終わったんだ。店じゃあるまいし、望むまま料理をやるなんて出来ねえよ。どうせ一杯きりじゃねえんだろ?」
「ええ、他の者ももう一度食したいと申しておりますし、出来ればその鍋の中身をそっくり戴きたいのです」
「それじゃ尚更駄目だ。思い出の料理をそうそう他人様に渡せねえよ。悪いが今回は諦めてくれや」
「残念です…」
 思いがけないオーマの言葉に、しょぼんと背を落として去っていく主催者。
「さーて、あとどの位喰えば帰れるんだ?」
「…オーマ…」
 おたまを手に、まじまじと見つめるシェラ。薄闇に於いても、その頬が薄く朱に染まっているのが分かる。
「気付いて、た?」
「おう。生まれて初めての手料理だ、っつってたじゃねえか。忘れやしねえよ」
 奇しくも。
 この日は、2人が付き合い始めた最初の日。尤も、異世界での時間の流れとここでは違う可能性もあるが、季節も日付も同じとあれば、やはり同じ日と思っていいのだろう。
 ――そろそろ温かいものが欲しい季節と思って。
 そう言い、オーマの住む家に巨大な鍋ごと持ち込んだシェラ。生まれて初めての料理故、味付けの仕方も量も分からずにこんな量になってしまったと申し訳なさそうに言う彼女の姿は、今でもその時の強烈な料理の味と共に刻み込まれている。
 …そういやあれで数日寝込んだんだっけ。看病中の食事も鍋の料理だったせいだったと今でも信じているが。
「薄情なあんたのことだから、すっかり忘れてると思ってたよ」
 ふわり、と、気温が下がり始めた広場にいるオーマの背に、温かなぬくもりが伝わってくる。
「いつの間にか、あんな可愛い子と仲良くなっちまってさ…」
「王女さんか。確かに可愛いな。純真過ぎて扱いに困る事もあるが」
 後ろから回された腕は、長い年月を共にしても衰える事無くすべすべしている。その腕をぽんぽん、と叩き。
「ま、お前ほどじゃねえよ。安心しな」
「…馬鹿言って」
 すり寄せる、頬と頬。
 ぴたりと寄り添った影は、あたりがすっかり闇に覆われるまで離れる事は無かった。

*****

「おう、お前ら!代理だからと言って容赦はしねえぞ。こんな時に役に立てる奴になるまでびーしびししごいてやるからな、覚悟しろよ!」
「「「ハイッ!」」」
 じゅうじゅうと勢いの良い音が聞こえて来る。熱気は季節を跳ね飛ばしてしまう程熱く、また、その場に居る人々も燃えていた。
 …召集令は、突如来た。
 厨房のメインシェフが悉く謎の腹痛で寝込んだようで、その診察に訪れたオーマが、見覚えのある面々に表情を引きつらせた。…シェラの料理を、頼んでほんの少し食べさせてもらい、そのまま昏倒した者たちだったのだから。まさか王室の厨房で働いているシェフたちとは思わなかったのだが…料理への研鑚のあまり、口にしてはならないものにまで手を出してしまったらしい。
 診断結果は、最低でも数日間の絶対安静。その後舌と体調が元に戻り、現場に復帰出来るまでには数週間はかかるだろうとの診断後、エルファリア直々の願いで、今ここに居る。
 元々がシェラの手料理が原因だったのだから、贖罪の意味もあり、治療費と報酬を半ば相殺させた上で。
 最初は『あの』シェラの夫の料理と言う事で怖々口を付けていた者も、今ではすっかり安心して厨房を任せている。何しろ、王室付きのシェフたちの腕にほんの数日でたどり着いてしまったのだから。元々こうした料理が得意と言う事もあったが。
 更に、市井で人気のある食材を使った賄い食も好評になり、時々つまみ食いの兵士がやって来て追い出される程になる。
「今日は賓客何人だ?…おうっし、行くぜお前ら!!」
「「「ハイ、シェフ!」」」
 昼間は厨房でバイトしている夫のために、せっせと料理を作っているシェラの顔が目に浮かび――オーマが、ふっと苦笑する。
 ここで出来上がっていく料理の方が、あの地獄を見る料理よりは遥かに良い。――が。
 それでも、オーマが帰りたいと思う家は、あそこにしか存在しないのだった。


-END-